2921.11.28 アドベント礼拝 第1回「主に連なる異国の民」イザヤ56章1-8


















奈良は、ここ数日急に寒くなり冬将軍の到来が感じられます。また、いよいよクリスマスを待ち望む、アドベント(カトリックでは待降節)と呼ばれる時期に入りました。ちなみにクリスマスは降誕とも呼ばれます。(神様が地上に降りて人間として生まれて救い主となってくださった)今回から4回の主日礼拝はクリスマスをお祝いするための特別プログラムが用意されています。ただコロナ禍ですので警戒を緩めないように注意しております。マスク着用でどなたでも礼拝にご参加ください。

まず、燭台の4本の蝋燭の1本に火を灯して、スタートいたしました。牧師家族の可愛い幼児たちも参加して、賛美歌と降誕のベープサート(紙人形劇)がありました。楽しいクリスマスが始まった!嬉しさが溢れてきます。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。アドベント礼拝が始まりました。アドベントは待降節とも呼ばれます。クリスマスを降誕節と言いますので、クリスマスを待ち望むシーズンということで、待降節と名付けられています。クリスマス前の4回の日曜日をアドベント礼拝、クリスマス・イブにクリスマス礼拝をするというのがヨーロッパの伝統です。なぜ24日の夜にクリスマス礼拝をするのかというと、昔の暦は日没から一日が始まっていたからです。つまり24日の夜は、昔は25日の始まりだったわけです。クリスマスの日の始まりを礼拝で始めていたのです。日本の教会は4番目のアドベントの礼拝とクリスマス礼拝を合わせてしまうことが多いと思います。24日が祝日ではないからです。王寺教会でもアドベント礼拝を3回行って、次はクリスマス礼拝としています。
 クリスマスは主イエス様が約束の通りに地に来て、赤子として誕生してくださったことを記念する日です。イエス様が来てくださるまで、大変長い間イスラエル人は時を待たなければなりませんでした。実に聖書全体から見て、イエス様が来てくださったのは、3分の2が過ぎてからでした。何千年間も主の民はメシアの到来を待ち望んでいたのです。その歴史を思い出すために、こうしてアドベントが設けられています。ヨーロッパの教会では待降節を静かに過ごすそうです。華やかな讃美歌を歌ったりしないとか。そしてついにクリスマスが来た時に、「諸人こぞりて♪」と大きな喜びと共に歌声をあげるのだそうです。日本の教会はプログラム的にはそこまで大掛かりにできないわけですが、一度でいいからヨーロッパでクリスマスシーズンを過ごしてみたいものだなと思います。クリスマスを待ち望みましょう。そして、私たちが待ち望んでいることがもう一つありますね。イエス様が帰ってきてくださることです。アドベントは過去を思い出し、また将来を期待するものです。イエス様は約束の通りに一度来てくださったのですから、必ず約束の通りに帰ってきてくださいます。
 それでは、今日の聖書箇所をお開きください。イザヤ書56:1-8(1262ページ)【聖書朗読】
 
 今日はクリスマスの出来事の中で、「東方の博士たちがイエス様を礼拝したこと」を取り上げています。彼らを東方の王様たちと訳すべきか、賢い人たちと訳すべきか議論がありますが、新改訳聖書は博士たちと翻訳しています。彼らが何人であったのかは分かりません。宝物が3種類なので、絵本などでは3人になっていることが多いようです。分かることは彼らが東から来たということ、ユダヤ人ではないということです。先週の祈祷会で開きましたヨハネの福音書1章には次のように書いてありました。《この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。》ユダヤ人のヘロデ王はイエス様を殺そうとし、東の方からやってきた博士たちはイエス様を礼拝しました。
 そういうわけですから、注目のポイントは「異国の民」です。「主の民イスラエルではない人たち」です。主は異国の民について、どのような約束をしてくださっていたのでしょうか。今日はイザヤ書56章から、主の約束を思い出してみたいと思います。
 3節《【主】に連なる異国の民は言ってはならない。「【主】はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。》みなさん、「私は選ばれし者たちに含まれていない」と思っていた経験はありませんか。エリートたちに並んで、一応そのグループにくっついているけれども、いつ外されるか分からない。名簿には載ってベンチを温めているけれども、いつ試合に出してもらえるのか、あるいは戦力外通告を受けてしまうのか、心配しながら日々を過ごしている。そのような経験はないでしょうか。かつてのイスラエルには、エリコのラハブのように主の民に加えられた異国の民がいました。彼らは確かにイスラエルに加えられたのですが、イスラエル人とみなされたかと言うと、そうではなかったようです。現代にも国籍の帰化という制度がありますね。外国籍のお相撲さんが帰化をして、日本国籍を取りましたとニュースになることもあります。それでは登記上正式に日本人になったので、日本人として人びとから見られるかというと、どうも現実はそうではないようです。良い成績をあげていたり、世界の人に日本は素晴らしいと魅せるような働きをしたりしている時は持ち上げられるのですが、文化的に受け入れられないような振る舞いをした時には、「品格がない」とか言われ、落とされてしまいます。必死にしがみついていないと、いつ振り落とされてしまうか分からないのです。
 しかし、主は全く異なるお方です。主は聖なるお方です。主に連なる者は血筋によらず、決して切り離されることはありません。アブラハムより前の歴史もあることを思い出してください。すべての人は主に創造された子どもたちです。私たちは信仰によって主の民とされるのであって、アブラハムの血筋によってではありません。ですから《「【主】はきっと、私をその民から切り離される」と》言ってはならない、そのようなことには決してならないと主は約束してくださったのです。
 それでは主に連なる者とはどのような人でしょうか。主の安息日を守り、主の喜ばれることを選び、主の契約を堅く保つ人たちです。「正義と公正」という言葉も久しぶりに出てきましたね。
 まず安息日を守ること。安息日とは何でしょうか。創世記2章で定められている天地創造の7日目です。ユダヤ人は金曜日の日没から土曜日の日没まで、一切仕事をせず、祈りと睡眠と食事だけをして過ごしました。ところがイエス様は安息日を守らず、安息日に人を癒やしたりなさいました。安息日を守るとはそういうことではない、仕事をしないということの意味を分かっていないと教えてくださったのです。祈祷会でお話しましたように、安息とは「6日間、世界を創造して疲れたから週末は一休みするわ」という意味ではありません。安息とは、領土の準備が整って、ついに王様の戴冠式を迎えるという意味です。主がすべてを整えて、王として治めてくださっているのです。それを覚えるのが安息日です。仕事をしないのはなぜですか。主が必要を与えてくださるお方であることを知るためです。私たちの収入は自分の力で得ているのではない、神の恵みによって与えられていると知るためです。天からのマナは6日目に安息日の分も降ったのです。安息日はマナを集める必要がありませんでした。安息日を守るとは、伝統的な制度を守ることではありません。主が私たちの王であることを認めることです。安息日の主は誰ですか。イエス様です。主イエス様を信じ、王として迎えること、王のことばに従うこと、その教えを受け入れること、それこそ安息日を守ることの本質です。私たちは日曜日に何をしにここに集まるのでしょうか。礼拝式に出席して出席簿に丸をつけるためでしょうか?主を礼拝するためですしょうか?主イエス様を信じ、王として迎えるなら、その信仰によって義とされ、主に連なる者とされるのです。主に連なる異国の民は切り離されることがありません。
 もうひとつ、主の喜ぶことを選ぶこと、正義と公正とは何だったでしょうか。それは律法を指していますが、律法は何だったでしょうか。これは以前お話いたしました。正義と公正とは《えこひいきをせず、賄賂を取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行い、寄留者を愛して、これに食物と衣服を与え》ることでした。みなしご、やもめ、寄留者は土地を持たない人たちでした。弱い立場の人たちです。助けてもお返しができない人たちです。主の民は神の恵みによって生きているので、神の恵みに感謝し、見返りを考えず、衣食住の必要を与え、抑圧から守らなければなりません。主を愛し、隣人を自分自身のように愛する。これが律法です。「えー、それじゃあ、私は駄目だ。私は切り離されてしまう」と思うでしょう。律法は私たちの罪を明らかにするものです。律法にてらして、「私に罪はない」と言える人はひとりもいません。それで律法には罪のきよめの供え物についても書いてあったのです。主イエス様は私たちの罪を赦す、唯一の完全ないけにえです。主は私たちを赦し、また聖霊を送ってくださいました。主ご自身が私たちの内に住んでくださっているのです。この聖霊なる主の助けによって、私たちは水の上を歩くことができます。主が喜ばれる正義と公正を御霊によって行うことができるのです。主イエス様を信じ、御霊によって歩む人は、主に連なる者とされています。主に連なる異国の民は切り離されることがありません。
 クリスマスとは何でしょう。「主に連なる異国の民は切り離されることがない」という約束が誠実に果たされた日です。ユダヤ人は主を殺そうとし、ついには切り離されてしまいましたが、主に連なる異国の民は主を礼拝し、受け入れられました。ここにいる私たちは何者でしょうか。私たちもまた異国の民ではありませんか。本来選ばれていなかった者たちではありませんか。本当は資格がない。いつ外されてもおかしくない。しかし主ははっきりとおっしゃいました。《「【主】はきっと、私をその民から切り離される」と》言ってはならないと。2000年前のクリスマスに約束は果たされたのです。イザヤ書からマタイの福音書までどれほど時間が経っていることでしょう。それでも主は誠実なお方でした。そのお方は私たちの主です。私たちにも約束を必ず果たしてくださいます。
 7節《わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。》どこかで聞いたことがある聖句ではありませんか?イエス様の宮清めですね。あの日、過ぎ越しの祭のとき、ユダヤ人たちはエルサレム神殿の異邦人の庭に屋台を広げて、そこを占拠していたのです。その場所は本来、主を恐れる異邦人が礼拝を捧げる場所でした。彼らは神殿に入ることができませんでしたが、その側にある異邦人の庭で祈ることができました。ところが祭りになるとユダヤ人たちは異邦人の礼拝所に屋台を並べて、彼らの居場所をなくしてしまったのです。イエス様は激怒されました。《「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」》イエス様は誰のために、あれほどまで怒って、《売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された》のでしょうか。福音書にはたった一文でさらっと書いてありますが、想像してみてください。大暴れです。誰にも止めることができない程の激しい怒りでした。その怒りは私たちのためだったのです。ユダヤ人たちは異国の民を切り離そうとしました。しかし主は約束を守ってくださいました。主に連なる異国の民のために、激怒してくださったのです。
 今日、主を礼拝しに集まっている皆様。あなたは主の民から切り離されることがありません。
 
 お祈りいたします。《 【主】に連なる異国の民は言ってはならない。「【主】はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。》
 
 天の父なる神様。愛するひとり子を世に遣わし、私たちを贖ってくださった主よ。あなたの深い愛に感謝し、心からみ名をほめたたえます。クリスマスを待ち望むアドベントに入りました。今年もこの世界は新型ウイルスの流行によって、辛く厳しいところを通っております。宮殿ではなく、飼い葉桶に寝かされることを良しとし、この苦しみの世にインマヌエルのお方として来てくださった主イエス様。今年こそあなたの慰めをおぼえます。この世界に、また私たちの人生に来てくださってありがとうございます。
 主よ。あなただけが私たちの王です。私たちはあなただけを礼拝し、あなたに聞き従います。主に連なる異国の民は切り離されることがないと約束してくださってありがとうございます。本当は資格のない者ですのに。選ばれる資質など全くない者ですのに、ただ恵みによって主の民に加えていただけました。感謝いたします。あなたが帰ってきてくださることを、今か今かと待っております。この人生を歩み続けるのは大変なことです。どうか助けてください。あなたの作ってくださる新しい天と地に迎え入れてください。
 しかし、主よ。葛藤しながらも同時に願いますことは、もうひととき、待っていただけないかということです。私たちの愛する人たちが、いえ、あなたが愛しておられる人びとがまだ門をくぐっていません。もう百人、あるいはもう十人、いえ、もうひとり、門を通って来られるかもしれません。それまでどうか待っていただけないでしょうか。人生の苦悩が続くとしても、何とかあなたに支えられて歩んで参りたいと思いますので、よろしくお願いいたします。今年のクリスマスも、求めるすべての人に福音が届きますように。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。
             晩秋の畠田公園近く 
写真はフーミンさんより

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