2021.10.31主日礼拝「「神のみこころに従う願い」民数記14:11-25(262ページ)



紅葉も美しくなり、金木犀の香りが漂ってくる秋真っ盛りの日です。 といっても、教会はあと数週間後にはアドベント(クリスマスを待ち望む時期)に入り、内外にクリスマスの飾り付けがなされます。教会生活も一年で一番忙しい時期になります。 奉仕も多くなり、そんな時期に向けて「教会は会社ではない」からと、神の前にある奉仕の心構えを教えていただき、スタートしました!(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

 おはようございます。10月最後の日となりました。明日からは11月です。教会に とってはクリスマス、年末年始、教会総会と忙しいシーズンがやってきます。幸いなこと にコロナの第 6 派はまだ影も形もありませんので、何とかこのままいってくれないかなと 主の守りを祈っています。 

 イベントが入りますと教会の奉仕も色々と増えるものです。クリスマスの準備のために は、クリスマス運営委員会が 3 回持たれ、準備が進められてきました。これから会堂の飾 付けなども入ってきます。共に奉仕をしながら、主にあるお互いを喜ぶことができるよう に願っています。いつも目に見えることではなく、目に見えないことに心を配りましょう。 

兄弟姉妹は主のもの、また主から所有地を与えられている人たちです。  レビ記 25 章では土地の売買についての律法が書いてあります。土地は主のものである ので、他の人の手に渡ったとしても、定められた額で買い戻しできるようになっていまし た。また互いに酷使し合ってはならないとも定められています。現代の私たちは土地を割 り当てられているわけではありません。生まれてきたら一人ずつ土地が割り振られますと いうことはないですね。ですから文字通りレビ記 25 章を適応することはできません。し かし、土地の代りに、一人ひとりには人権が与えられています。色んな面でそれぞれに領 域があるわけです。その領域は主のものです。人は他人の領域を勝手気ままに利用することはできません。教会では特に、《互いを酷使し合ってはならない》と主がおっしゃって いることを心に留めておきましょう。 そうは言っても、組織立って優れたことをできたら良いこともあります。そこで出てく るのが宣教団体です。宣教団体は組織がしっかりしていて、業務命令もあります。どうし てそれが出来るかと言うと、雇用契約があり、給与が払われているからです。律法にも土地を手に入れる時には、ヨベルの年から換算した値段で買わなければならないと書いてあ ります。自由を渡す代りに代金が発生しているのです。 

 宣教団体と教会の違いを良く理解していただきたいと思います。もし教会全体を宣教団 体のようにしてしまったら、いわゆるカルト教会の出来上がりです。教会の中で、同志が契約を結んで宣教団体を起こすことは良いことです。しかし教会全体を宣教団体にするこ とはできません。教会は皆が互いに自由を用いて仕え合うところです。一人ひとりは主の ものです。教会は会社ではありません。そのようなことを覚えるクリスマスシーズンと なっていきますように、御心を祈っています。 

今日の聖書箇所をお開きください。民数記14:11-25 先週の続きの部分です。一回目のカナン入国を試みた時の出来事でした。先週は民の不 平に焦点を置きまして、この民の姿勢が指導者たちにも影響を与えていたことをお話いた しました。民とモーセのドラマに注目をいたしました。主に不平を言うことは知恵ではあ りません。主の約束が果たされるのを見た人たちは、感情を注ぎだすことはあっても、主 に信頼することをやめませんでした。主に信頼せず、不平を言い続けるなら、滅びに至り ます。またその姿はモーセのような人たちも引き込んでいき、群れ全体が主の前に罪を犯 すことに繋がりかねません。古代イスラエルだけではありません。教会の2000年の歴 史でも、指導者たちが引きずり込まれてしまったことが度々起こってきました。平気で免 罪符を売ったりしたのです。私たちも他山の石としたいと思います。 さて、今日は主とモーセのやり取りに心を留めていきたいと思います。不平を言い 《「さあ、われわれは、かしらを一人立ててエジプトに帰ろう。」》と互いに言った民を 見て、主はモーセに言われました。11節《「この民はいつまでわたしを侮るのか。わた しがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じようとし ないのか。わたしは彼らを疫病で打ち、ゆずりの地を剝奪する。しかし、わたしはあなた を彼らよりも強く大いなる国民にする。」》この最後の言葉「わたしはあなたを彼らより も強く大いなる国民にする」と聞いて何かを思い出されませんか。アブラハムですね。ア ブラハムは創世記12章で突然主に呼ばれました。その時代、世界中の人々は主を忘れて しまって、自分の目に慕わしいことを追い求めて、荒廃と暴虐に突き進んでいました。し かし主は、一人の人アブラハムを何もないところから呼ばれて、大いなる国民にすると言 われました。そうして約束通りアブラハムの子孫はイスラエル民族となったのです。ここ に来て、主は「もう一度あのアブラハムからやり直す」とおっしゃったのでした。イスラ エル人をすべて滅ぼしてモーセ一族から主の民を起こすとおっしゃいました。 モーセに取ってみれば悪くない話のようにも思いますが、モーセは主のあわれみにすが り、民をとりなしました。モーセは「主の約束」を持ち出したのです。しばらく前に約束 の話をしたこと覚えておられるでしょうか。私が娘に、今度の誕生日にお人形をあげるよ と約束したら、私が誠実であれば、娘は誕生日に必ず約束のものを受け取ることになると いう例え話でした。この場合、私が誠実であるかどうかが鍵となり、誕生日までに私と娘 との間に様々なドラマが起こり得るとお話したと思います。主が誠実なお方であることは 確かなことでした。モーセが主に述べたことは、つまり「あなたの誠実さが失われたよう に見られてはいけないでしょう」ということでした。13-16節《モーセは【主】に 言った。「エジプトは、あなたが御力によって、自分たちのうちからこの民を導き出され たことを聞いて、この地の住民に告げるでしょう。事実、住民たちは聞いています。あな た、【主】がこの民のうちにおられ、あなた、【主】が目の当たりにご自身を現されるこ と、またあなたの雲が彼らの上に立ち、あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱の内にあって、 彼らの前を歩んでおられることを。もし、あなたがこの民を一人残らず殺すなら、あなた のうわさを聞いた異邦の民は、このように言うに違いありません。『【主】はこの民を、 彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、荒野で殺したのだ』と。》エリコ のラハブの言葉を思い出してみれば、モーセの指摘は当たっていたでしょう。その地の住 民は確かにイスラエルの動向を聞いていたのです。主はモーセの願いを聞かれました。 

 主の民が滅びを免れたのは、彼らが正しかったからではありませんでした。また彼らが 十分に償いをしたからでもありませんでした。イスラエルの咎は主の大きな恵みによって 赦されたのです。(ただしそれは主の民の赦しであって、個人レベルで見れば、主に不平 を言い、聞き従わなかった人たちは約束のものを受け取ることができませんでした。) 

モーセの時にアブラハムに戻そうとされたことを考えてみましょう。実は以前にも同じ ようなことがありました。アダム、ノア、アブラハム、モーセを思い出してみてください。 ノアの時、主はノアの一家と動物たちを残して、他のすべてを滅ぼされました。これはア ダム後に戻っています。しかしよく考えてみれば、ノアたちも含めてすべてを滅ぼして、 新しく世界と人を創造することもおできになったはずです。ところが主はそれをなさいま せんでした。主はノアの一家と世界を残されたのです。アブラハムの時、主は世界の中か らアブラハムの一家を選ばれました。ノアの時のように、アブラハム以外を滅ぼすことも おできになったはずです。しかし主は人びとを残して、アブラハムを選び出されました。 今回はモーセの時です。主は民を滅ぼしてひとりの人モーセを選ぼうと言われましたが、 最後には従わなかった民だけを滅ぼして、主の民を残されました。歴史を振り返ると、同 じようなことが繰り返されながらも、主のみ心が明らかになっていっていることが分かり ます。主は世界を作り直そうと考えておられますが、私たちがそこに残ることを切に願っておられるのです。すべての人が救われることを願っておられ、主に従う人たちを残して くださいます。これが神の計画、神のみこころです。 

 この世界には主の約束があるのです。約束は予知とは違います。約束は果たされるまで に、することがあるのです。主はご自身の誠実さに従って、約束を果たしてくださり、こ れからも果たし続けてくださいます。主は誠実なお方なので、私たちを赦してくださいま す。その誠実さは、イエス様の十字架です。新約聖書の中で使徒ヨハネは、クリスチャン たちが永遠のいのちを持っていることを分からせるためにと言って、《 何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私た ちが抱いている確信です。(I ヨハネ5:14)》と書き送りました。モーセは神のみこ ころにしたがって、民の赦しを願ったのです。私たちも同じく、神のみこころにしたがっ て赦しを願うことができます。私たちが正しいからではなく、十分に償いをしたからでも なく、主の御心によって赦されるのです。主に聞き従う者は新しい天と地に残されます。聖書に示されている神のみこころを知っていただきたいと思います。ここには神の物語 が明らかにされています。私たちはそれを知らないで生きてきたのです。人生の物語と言 えば、例えば、「温かな家庭に生まれてきて、学校に行き、受験をして大学に入り、良い ところに就職して、結婚して、子どもが生まれ、子育てをして、出世して…」そういう風 に考えているのではないでしょうか。「今度、大学受験をします。受かるように祈ってい ますが、これは神のみこころにしたがった願いでしょうか。」と聞かれることがあります が、一体どこから説明したら良いのだろうかと悩んでしまいます。皆様はこの気持ちを分 かってくださるだろうと思います。創世記から順番に見てきたのですから。 果たして、私たちは神の物語に生きているでしょうか。聖書のストーリーの中に生きて いるでしょうか。《あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ない うちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。… 結局のところ、もうすべ てが聞かされていることだ。神を恐れよ。(伝12)》と伝道者の書に書いてあります。 

日の下には様々な営みがありますが、大切なことは、そこが天の下であることに気付くこ とです。主が生きておられることを知って、主に聞き従うことです。主は確かに約束をし てくださいました。《わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、 滅ぼすと言ったそのとき、もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わ たしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。(エレ18:7-8)》と。主は誠実な お方ですから、必ず約束を果たしてくださいます。あなたが立ち返るなら、わざわいを思 い直し、永遠のいのちを与えてくださいます。

 お祈りいたします。《この民をエジプトから今に至るまで耐え忍んでくださったように、 どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。》 天の父なる神様。怒るのに遅く、恵み豊かであり、咎と背きを赦してくださる主よ。私 たちはあなたの誠実さのゆえに赦されました。あなたは私たちの咎を負わせるために、ひ とり子を世に遣わし、御心のままに代償のささげものとしてくださいました。イエス様の 十字架によって、その打ち傷のゆえに私たちは癒やされました。羊のようにさまよい、そ れぞれ自分勝手な道に向かって行った私たちを見捨てず、愛し続けてくださって、心から ありがとうございます。 

 主よ。あなたが聖書を通して明らかにしてくださった物語の中に生きることができます ように、私たちの目を開いてください。天の下を歩んでいくことができますように助け導 いてください。困難にぶつかると不平を言い始める私たちです。どうぞあわれんでくださ い。イエス様の姿に学び、十字架の上にあって御父を信頼されたように、私たちもその後 を習っていくことができますように。聖霊なる主よ、助け主よ、どうぞ私たちを助けてく ださい。 

 主の深い愛を知らず、日の下を歩み続け、ついに日の下の営みがすべて空しいことに気 付き、打ちひしがれている人びとをかえりみてください。これからクリスマスシーズンに 入っていきます。私たちのところに来てくださって、主が生きておられることを示してくださったイエス様。あなたのみこころに従って、あなたの弟子たちを世の光としてくださ い。 感謝して、主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

朝焼け 写真はFuminさんより






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