2021.11.14主日礼拝「主の民とまわりの人々」民数記23章25節~24章9節


4月からの中尾先生のメッセージは今日で31回目になります。これまで扱って来たところは天からの啓示、神からの言葉の解き明かし。みなさん、ちょっと疲れて来たかなと先生。しかし、聖書には人の側からの言葉もあると。神の言葉を受けた人の反応。例えば、『おばあちゃんの知恵袋』『若者の反発の言葉』『神の沈黙』『賛美の歌また芸術家の発露』というべき本がある(それはどれでしょう?メッセージで語られます)と、とても興味深かった。聖書って難しいというイメージがあるけれど、面白い本なんだと思えた。聖書に対する「食欲」が湧いて来ました!
また、クリスチャンこそ、まわりの人々が読む「聖書」なんだと聞いて身の引き締まる思いです。
お昼からはアドベント礼拝のためにクリスマスの飾り付けをいたしました。じわじわっと嬉しさが湧き上がってきます!(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。今日もみことばの時をもたせていただきたいと思います。YouTubeに掲載している礼拝説教には通し番号をふってあるのですが、今日でその番号は31となりました。少しずつ取り崩しながら解き明かしをさせていただいています。これまではモーセ五書を基にしながら関連する書も少し開くというように話してきました。聞いてきてくださった皆様にもそろそろお疲れが出る頃ではないでしょうか。_ と言いますのは、これまで扱ってきた箇所が「神のことば」であるからです。主の計画の天からの啓示を話してきたからです。天の上からのことばとも言えるでしょうか。
 私たちの主は、人の反応をよくご存知のお方です。それで聖書の中に「神のことば」を受けた「人の反応」を入れ込んでおられます。聖書のみことばの中には「神のことば」と「人のことば」があるのです。神のことばを受けた人の反応は知恵文学と言われる書となっています。ヨブ記、詩篇、箴言、伝道者の書がそれにあたります。日の下からのことばとも言えるでしょうか。
 天から下ってくる言葉は遥かの高みから聞こえてくるけれども、私たちの身近な人たちは何と言っているだろうか。それが箴言です。父と母のことばです。日の下で蓄えられてきた経験則です。私を愛し守ろうとしてくれている身近な人たちが、主を信頼しなさいと言っているわけです。それに対して伝道者の書は若者の反発のようです。親が賢いことと愚かなことを教えてきたけれど、そんなことやってみないと分からないじゃないか。やってみたら、日の下では賢いことも愚かなことも、全部空しいじゃないか。結局、主を信頼して天の下で生きることが良い。それが伝道者の書です。次に、「これが正しいよ、これが間違っているよ」という言葉が私を傷つけている!正しい言葉が私の心をえぐる!日の下で正しいと言われていることも人生ではうまく当てはまらないことがあるじゃないか。これがヨブ記ですね。神の沈黙が描かれています。静かに働いてくださる主に信頼することを知ることができる書です。最後に、詩篇は「理屈で分からない、様々な感情が入り乱れるけれども、讃美の歌は私を引き上げてくれる」と言います。私が美しいと感じることは、私の目を天に向けさせると。芸術家、音楽家の発露です。
 これらの知恵文学は私たちに寄り添う書です。解き明かされるよりも、じっくりと読んでみるのに適しています。説教よりも読書会に向いています。天の上からのことばに疲れたなと感じてきた時には、聖書を閉じるよりも、聖書の中にある日の下からのことばを読んでみてください。励ましを受けるでしょう。
 熟練の説教者は励ましを上手に織り込むことができるのですが、私は上手にできていないなと思います。引き続きお祈りいただいて、学んでいきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。私に出来る精一杯のところで、主の祝福を祈り期待しながら奉仕させていただきます。
 それでは、今日の聖書箇所をお開きください。民数記23:25-24:9(284ページ)【聖書朗読】
 
 今日の箇所にはバラクとバラムが出てきます。ややこしい名前ですね。津田さんと須田さんみたいな、どっちがどっち?と言いたくなるような二人が登場しています。一連の出来事は22章から25章の間に書いてあります。全部は読めませんので一部だけ朗読いたしました。彼らはモアブの王様と占い師でした。バラクが王様、バラムが占い師(預言者)です。モアブはアブラハムの甥のロトの子孫で、イスラエルが本家とすれば、分家のような民族でした。ある意味では、カナン人とイスラエル人の狭間にいる人々だったわけです。彼らは主ヤハウェとは違う、別の神に仕えていました。
 モアブの王バラクはイスラエルが荒野からやってくるのを見て恐れました。そして力ある占い師バラムにイスラエルを呪うように頼みました。バラムが呪えば、イスラエルに不幸が降りかかるに違いないと信じていたようです。ある神社の神主さんの話を思い出します。ある時、スポーツ選手がお祈りしてほしいといってやってきたそうです。どんなお祈りか尋ねたところ、対抗する選手を呪ってくれというお願いだったそうです。神主さんは丁寧にお断りしましたとインタビューで答えていました。そんなことがあるんですね。バラクはバラムにイスラエルを呪うように頼みました。ところがバラムは呪いの代りにイスラエルを祝福したのです。バラムは本心からイスラエルを祝福したかったわけではないようです。ネヘミヤ13:2には《彼らが、パンと水をもってイスラエル人を迎えることをせず、かえってバラムを雇ってイスラエル人を呪わせようとした…。私たちの神はその呪いを祝福に変えられた。》と書いてあります。また他の箇所には25章の罠(ペオル事件:モアブの宗教儀式に引き込む)がバラムのアイディアであった(黙示録2:14)ことが書いてあります。ですから、バラムは自分の意志でイスラエル人の祝福したいと思ったのではなく、主が彼の口に言葉を置き、イスラエルを祝福させたのです。今日の箇所でも24:2《神の霊が彼の上に臨んだ。》とあります。また9節の《あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。》これはアブラハムとの約束の言葉です。この出来事があっても、主を信頼することを選ばなかったモアブ人は滅ぼされ、バラムも同様でした。
 バラクとバラムの出来事は私たちの記憶にはあまり残っていないかもしれませんが、ユダヤ人たちは重要な出来事として覚えていました。聖書には度々、バラクやバラムの名前、ペオル事件といった単語が出てきます。主の民イスラエルの周りには、イスラエルとカナンの狭間にいる人たちがいました。彼らは主の民を見て、選択を迫られました。主を信頼するか、主を受け入れないかの選択です。主はこの世界にご自身の民を置き、その周りにいる人たちに選択肢を与えておられるのです。
 主イエス様は教会をお建てになりました。私たちはこの意味をどの程度分かっているでしょうか。マタイ15章でイエス様がカナン人の女性と出会われた時、主は《「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」》とおっしゃいました。しかし彼女は自分が「周辺にいる人」であることを認めた上で、主イエス様を信頼することを選んだのです。これは神の宣教がまっすぐに通った象徴的な出来事でした。イエス様の計画は旧約聖書に記されている主ヤハウェの計画と一致しています。それ故に、「イエスは主です」と私たちは告白するのです。
 先週の祈祷会でローマ人への手紙を開き、「互いに受け入れ合いなさい」とのメッセージを取り次ぎました。そのメッセージに関して、「主の民」の中と「周りの人びと」を混同しているかなと思える反応を耳にいたしました。(そう言った人を非難していませんよ。全員にあり得ると思って、皆の益のために話しています。)「『互いに受け入れ合いなさい』と言われているけれども、日常で出会う人々を受け入れることが難しいことがあります」と聞いたのです。「互いに受け入れ合いなさい」は、教会の中の兄弟姉妹に語られているみことばです。兄弟姉妹同士が互いに受け入れ合うということです。主の群れの外の人たちとの関わりにおいては、それが難しいのは当然のことです。仕えているものが違うからです。主に仕えている人と他に仕えている人とは立っているところが違うのです。その場合には「あなたの敵を愛しなさい」という一方的な愛のみことばが当てはまります。
 主の民、教会というコミュニティは主の計画によって世界の中に置かれている存在です。それは主に仕える人たちの群れです。主の民、イエス様の弟子、教会、神の羊の群れ、信仰共同体などと呼ばれます。聖書を一貫して流れる神の宣教は、主の民というコミュニティを用いる働きです。主を信頼して、主に仕える人々はイエス様の教会に建てあげられていきます。主はそのコミュニティを世界に提示なさるのです。「これがわたしの宝だ」とおっしゃって、教会の周りにいる方々にお見せになります。IIコリント3:2-3でパウロはこのように書いています。《私たちの推薦状はあなたがた(コリント教会)です。それは私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれています。あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。》主イエス様は教会を建て、主が生きておられる証として「周りの人々に」この群れを示しておられます。
 そういうわけですから、私たちの周りにいる方々を礼拝に招いてください。「え、だけど、礼拝に来ても初めての人にはこんな説教全然わからないじゃない。」どうぞご心配なく。私は何人もの人から証言を聞きました。「あの夜、教会で伝道集会が開かれていました。私は何気なく教会に入ったのです。その日語られていた説教はひとつも覚えていませんが、玄関で迎えてくださった方、教会の温かさ、讃美歌の音色…。ここはなにか違うと思ったのです」と。一人、二人の証言ではありません。皆さんの中にもそのような体験をもっておられる方がおられるでしょう。
 聖書はまず主の弟子たちに語っているのです。みことばを聞かなければならないのは私たちです。私にではなくて、あの人にみことばを聞かせてください!というのはおかしな話です。自分たちのことを棚に上げてはいけません。主が教会に語っておられる。それを教会が聞き従っている。信仰告白し、心と声を合わせて主を讃美している。礼拝式が終わっても、互いに声をかけあい励まし合っている。その様子を周りで見てもらえたら良いのです。「礼拝を見学してお茶飲んで帰ろう」と招いてください。それが主が計画しておられる神の宣教です。伝道集会の説教は最後のきっかけに過ぎません。ビリー・グラハム大会だって一緒です。説教が素晴らしいから人々が説得されるのではないのです。その多くは、それまでに主の弟子の群れとの関わりがあった人たちです。そのような「周りの人びと」が、そこで決心しているのです。
 さて、王寺教会の周りにおられる方々へお話いたします。YouTubeでいつも参加(見学)してくださっている方々もおられるでしょう。教会の礼拝はどなたも歓迎しています。クリスチャンにはお茶を出して、他は出しませんなんてことはありません。(今はコロナがありますから、そういう意味で躊躇することはありますが。)どなたでも歓迎しています。しかし、それは私たちが生涯を閉じるまでの間のことです。やがて主イエス様が帰ってこられて、この世界は作り変えられ、主に仕える者たちだけが残される日が来ます。生涯を終えられるまでに、あるいはイエス様が帰ってこられるまでに、選択肢が置かれています。モアブ人バラクとバラムに起こったことに心を留めてください。彼らには選択肢がありました。主はイスラエルを祝福してくださっていると知っていたのです。主の民を祝福するものは祝福されると分かっていたのです。エリコのラハブのように主を信頼し、主に従うことを選んだ人は、恵みによってイエス様の教会に加えられました。しかし、主の民が祝福されていることを知りながら、仕えるものを変えなかったバラクとバラムは滅んでしまいました。主を信じて、主に仕えるか、それとも主に仕えないかです。神の子どもとなるか、ならないかです。その入口は主イエス様にしかありません。教会の周りにいることはどんな形でもできます。礼拝にいつでも歓迎されています。クリスチャンであるかどうかに関わらず集っていただけます。しかし、主の民に加えられるには、イエス様の門を通らなければなりません。主を知らないで歩んできた私たちには神の子どもとなる資格はないはずなのです。しかし、主イエス様は私たちの罪のために身代わりとなって十字架にかかり、責めと恥の代価を支払ってくださいました。それで、十字架の贖いが私のためでしたと信じる時、私たちの罪は赦されるのです。
 「《わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。》だから、私のもとに帰ってきなさい。神の国に帰ってきなさい」と主は呼んでおられます。
 
 
 お祈りいたします。《バラムが目を上げると、イスラエルがその部族ごとに宿っているのが見えた。すると、神の霊が彼の上に臨んだ。》
 
 天の父なる神様。たった一人から主の民を起こし、瞳のようにこれを守って、養い、導いて来られた主よ。神の子どもと呼ばれる資格のなかった私たちを一方的に赦し、帰ってきたことを喜んで、あなたの子どもとして迎え入れてくださって、ありがとうございます。そのためには贖いの代価が必要でしたが、あなたは愛するひとり子の命を惜しまないで、その代価を支払ってくださいました。何という恵み。何という愛でしょうか。
 主よ。あなたの建てられた教会がここにあります。それは広がる谷のよう、また川のほとりの園のようです。主が植えたアロエのよう、また水辺の杉の木のようです。その手桶からは水があふれ、種は豊かな水に潤っています。あなたが守っておられるので、どのような攻撃にも恐れることはありません。何という祝福でありましょう。
 あなたの宝を、どうぞ王寺の地においても、人びとに示してください。この地域に塩気をつけるものとしてください。明かりをともして燭台の上に置いてください。教会の周りにいるお一人ひとりを祝福してください。
 感謝して、主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。



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