ユーモアはYou more 【読書】種を蒔く人になりなさい (Forest Books) | 樋野 興夫 を読んで


樋野先生は「ロバに蹴られても怒らない」の一節でユーモアについて次のように書いています。

“ユーモアは慈しみのひとつです。相手を真正面から責めるのではなく、ユーモアに包んでやんわりと相手に気づいてもらう。これができれば争いも避けることができます。ソクラテスは対話をしながら、相手が自分の言っていることを否定せざるを得なくなるように仕向ける名人だったそうです。殴り合いをするより高尚とは言えます。”

 樋野先生は「先生はクリスチャンですか」と聞かれると、「ま、さりげなく(クリスチャン)」とか、「天国に行ったら、内村、新渡戸、南原、矢内原の四人の師とともに、『天国カフェ』を営むのが夢なのですよ」と答えるようにしておられるそうです。

 イエス様もユーモアを用いるお方でした。ルカの福音書はイエス様が12歳のときの出来事を2章に記しています。両親と一緒にエルサレムに行かれた時、イエス様は宮に残って《教師たちの真ん中に座って話を聞いたり質問したりしておられ》たのです。両親は帰り道にイエス様が一緒にいないことに気が付いて、捜しながら引き返してきました。《「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」》と言う母マリアにイエス様は《「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」》と答えられました。当時、天の神様を「父」と呼ぶ人はいなかったので、マリヤはこの言葉の意味が全くわからなかったようです。彼女はこれらのことをみな、心に留めておきました。やがてイエス様が天の父なる神様について解き明かされるのを聞いて、12歳の時の出来事を思い出したことでしょう。蒔かれたユーモアの種がやがて芽を出しました。

 聖書の知恵は良いユーモア(良い種)になります。そこには深い真理が書いてあるからです。一見すると私たちが投げかけている質問に答えてくれていないように思えるのですが、心に留め、思い巡らしていくと、質問の答えがじんわりと浮かび上がってきます。 

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