2021.11.7主日礼拝「約束の地での戦い」申命記12章29~32節

クリスマスが近づいてきています。教会では一年で一番忙しい時、たくさんの奉仕が待っています。クリスマスの飾り付けは世の中より少し早めですが、最後の追い込みの時期。今の時期は「教会って何か」を学ぶことが多いです。礼拝後に、みんなで持ち寄った松ぼっくりと緑のヒバの葉っぱでスワッグというリースを作りました。今年のクリスマスのテーマは、「希望の光 ウイズ・ジーザス」。みんなイエス様を通して同じ光を見ている。希望。クリスマスに向かう気持ちが作られていくのを感じます。
今回は旧約聖書で使われていて、私たちがつまずく「聖絶」という言葉に言及されています。ひとつの誤解が解けてうれしい (Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。11月に入りました。爽やかな日が続いておりまして感謝です。「神のことばと共に歩む」と掲げてきました2021年も残り2ヶ月となりました。回を重ねながらお話してまいりましたが、みことばと共に歩むことの意味が見えてこられたでしょうか。聖書のお言葉を抜粋して紙に書いて箱に入れ額に紐でくくることではありませんよということでしたね。聖書には全体を通して伝えているメッセージがあり、物語の流れやイスラエルの歴史を無視してはいけません。イエス様は 聖書全体を解き明かして、弟子たちにご自身の事を説明してくださいました。

我が家の子供たちはお祈りに支えられて成長しています。いつもお祈りありがとうございます。下の子も随分おしゃべりになってきました。子供たちは自分たちのアルバムを見るのが好きで、写真や動画など飽きずにいつまでも見ています。ある時、下の子が何年も昔の写真を見ていました。赤ちゃんの写真です。「これ誰かわかる?」と聞くと「ボク」と言うのです。私が「違うよ。これはお姉ちゃん。お姉ちゃんが赤ちゃんの時だよ」と言うと、そうなの?という顔をしていました。それは息子が生まれる前の写真でした。その頃の写真や動画には私と妻と長女だけが写っているわけです。聖書も似ているところがあります。私たちは最初の頃は、聖書の中には自分がいると考えて読んでいることがあるかもしれません。ところがある日、ここに写っているのは長男(イスラエル)だと気が付くのです。私がそれに気が付いたのは、実は神学校で聖書を学んでいる時でした。それはそれは私にとって衝撃的な出来事でありまして、なんだかとっても悲しくなって涙がポロポロ出てきたのを思い出します。聖書は神様からの手紙じゃないの?と思って、こんなもん投げつけてやろうかと思いました。

でも、そこで投げなくて良かったです。それは成長のために乗り越えなければならない事柄でした。長男と天の父のやり取りを見て、私と天の父との関わりを見ることができるようになったからです。聖書があなたのために書かれたものであることは間違いないのですが、手紙と表現すると語弊もあります。ペテロたちは聖書のみことばをよく知っていました。しかし、それが先祖たちの歴史であることも承知していたのです。彼らは聖書を思い出しながら、目の前におられるひとりの方を見ていました。主ヤハウェのように嵐をしずめ、天からのマナのようにパンと魚を増やし、病をいやされるこの方は誰だ。「この方は主だ!」と知ったのです。私たちはどうでしょうか。新約聖書が書き終わったのは1世紀。それから歴史が続いて、私たちが生まれてきました。長男の写真には私の姿はないのですが、アルバムをめくっていくと私の姿が出てきます。そして、私たちは自分の人生に関わっておられるお方を見るのです。また私たち王寺教会に関わっておられるお方を見るのです。そのお方は誰ですか。主ではありませんか。神のことばと共に歩みましょう。御言葉はそのお方が誰かを明らかにし、私たちが何者で、ここでいま何をしているのかを教えています。

今日の聖書箇所をお開きください。申命記12:29-32(338ページ)【聖書朗読】今日は聖絶についてお話したいと思います。荒野を旅してきた主の民は約束の地を得るために戦いをしなければなりませんでした。この一連の出来事は私たちを非常に戸惑わせます。主は民に所有地を与えてくださると約束してくださいました。民の側はどこの土地とは指定していませんでしたので、主が誰も住んでいない場所で素晴らしい土地を用意してくださり、そこに導いてくださったらよかったのにと思うからです。そうすれば戦争など起こす必要なく神の恵みを受けることができたのですがその理由は聖書に書いてありません。さらに困惑することは、「絶ち滅ぼす」「根絶やし」「滅ぼし尽くす」「町を火で焼く」「剣の刃で討つ」「追い払う」といった言葉が出てくることです。今日の倫理観では、戦争が起こった場合、殺害する人数は最小限であるべきと考えられています。民間人はもってほか。兵士であっても勝利のために必要最低限の数だけ殺害することが認められており、例えば戦争がすでに決しているのに、ひとりも残らず殺害すれば戦争犯罪として裁かれることになります。一体これはどういうことでしょうか。神が命令したからという理由でこれが正当化されるのでしょうか。以前、疑うことと探求することは違いますとお話したことを覚えておられるでしょうか。疑うとは「こんなもの信じていては駄目だ。信頼できるはずがない」と考えることです。探求するということは「これは何を言おうとしているのだろうか。もっと調べてみよう」と探っていくことです。疑ってはいけないと言われていますが、探し求めることは喜ばれることです。

 ヨシュア記を読んでいきますと、イスラエルは軍事作戦によって一気にカナンを制圧していったように読めます。しかし、注意深く読むと、混乱する表現があることに気が付きます。滅ぼし尽くしたと言われた町がまた出てきたり、その地に戦争はやんだと書いてある後で、占領すべき地がたくさん残っていると出てきたり、それを何度も繰り返しています。何を伝えようとしているのか探求して読む人ほど頭を悩ますのではないでしょうか。実際、聖書の研究者たちにとっても結論の出ていない問題です。考古学の発見が記述と合わないことがあったからです。これまで考古学の発見は様々な聖書の記述を裏付けてきました。ニネベのギルガメッシュとか、ベエル・シェバの祭壇とか、「ヤハウェ」と書いた巻物が見つかったり、イエス様を裁いた大祭司の名前も分かっています。ところが、この出エジプトからカナンへの期間については混乱した状況になっています。年代が異なっているような発掘があったり、エリコ、アイ、ギブオン、ヘブロン、ホルマ、アラドといった町の遺跡にはイスラエル人に占領されていた形跡が見つかっていなかったりするのです。研究者たちも頭を悩ませ、真剣に議論を重ねています。ただ希望もあります。イスラエルで発掘された遺跡は1%にも満たないと言われており、すでに発掘されたものもまだまだ解読が進んでおらず大学の地下に残っている状態なのです。今後さらに明らかになってくると思います。そういうわけで、ヨシュア記本文を読んでも根絶やしにしたはずの町がなぜ再登場してくるのかといった疑問がありますし、考古学の発見もまだ途上にあるということで、私たちとしてはしばらく見守っているしかありません。好みで説を選べるわけでもありませんし、根拠を元に議論している専門家たちに任せておきましょう。

申命記7:1-3には《あなたが入って行って所有しようとしている地に、あなたの神、【主】があなたを導き入れるとき、主は、あなたよりも数多くまた強い七つの異邦の民、すなわち、ヒッタイト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人をあなたの前から追い払われる。あなたの神、【主】が彼らをあなたに渡し、あなたがこれを討つとき、あなたは彼らを必ず聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。また、彼らにあわれみを示してはならない。また、彼らと姻戚関係に入ってはならない。あなたの娘をその息子に嫁がせたり、その娘をあなたの息子の妻としたりしてはならない。》とあります。この箇所も聖絶してしまった相手との契約や結婚の話をしています。死人と契約や結婚はできません。「追い払う」という言葉は文字通りではないことも当時は共通の理解だったのではと思われます。聖絶とは宗教的な言葉であり、他国民の中に入っていくイスラエルの宗教的な姿勢をヨシュア記は書いています。ヨシュア記を最初に聞いていた古代イスラエル人は実際の出来事を経験してきた人々でしたから、経験したこととヨシュア記の言葉を重ねながらメッセージを受け取ったのです。どの程度戦争があったのかは分かりません。戦争がなかったというのも言い過ぎかもしれませんし、完全に殺害したというのも言い過ぎかもしれません。
アルバムをめくってイエス様の時代に行きますと、イエス様はローマ人を殺そうとはされませんでした。ペテロがローマの兵隊の耳を切り落としましたが、主はそれをいやされました。さらにページをめくるとパウロの手紙がでてきますが、パウロはクリスチャンとノンクリスチャンの結婚をそのままにしておくように言っています。しかし偶像礼拝に気をつけなさいと何度も書いています。ヨシュア記を引用してある民族や国を滅ぼすべきと主張することは間違っています。それはヨシュア記が伝えていることではありません。かつての十字軍はヨシュア記の解釈間違いです。また最近の話で言えば、ユダヤ人のイスラエル入植もそうです。欧米の多くのクリスチャンたちがユダヤ人のイスラエル入植は聖書的だと思ったそうです。しかしパレスチナ人のクリスチャンたちがどれほど悲惨な目にあったかご存知でしょうか。ある日いきなり住んでいる家を追い出され、自分たちもクリスチャンであるのに、世界中のクリスチャンからそれは神の御心だと言われてしまいました。本当に悲しいことです。

 さて、聖書が「聖絶」によって伝えようとしていることは何でしょうか。申命記12:30《よく気をつけて、彼らがあなたの前から根絶やしにされた後に、彼らに倣って罠に陥らないようにしなさい。「これらの異邦の民はどのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう」と言って、彼らの神々を求めることのないようにしなさい。》聖絶とは「彼らの真似をしない」ということです。主の民は主から教えられた生き方があるのです。主に仕える方法は主が教えてくださるのであり、ほかの神々に仕える方法を真似てはいけないのです。このことを思い巡らしてみるなら、新約聖書でも同じ原則が流れていることに気付かれるでしょう。例えばイエス様は《祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。》と言ってから主の祈りを教えてくださいました。物語をもう一度たどってみましょう。エジプトの奴隷状態にあったイスラエルは子羊の血によって過ぎ越しを経験し、エジプトから脱出しました。それから荒野を通り、主に信頼して歩むことを学びました。エジプトに帰ろうと言った人たちは滅び、主に信頼して進み続けた人たちは、思ってたんと違う祝福を手にしました。そうして約束の地に到着し、そこに住み始めようとした時、「聖絶」を求められたのです。主が教えてくださる方法で主に仕えよということです。主が教えてくださった律法は、主を愛し、隣人を自分自身のように愛するように命じています。こうして主はイスラエルを他とは全く違う人々、「聖なる民」としてくださいました。主は民を指して「わたしの宝だ」と言っておられます。イエス様が例えられた羊の囲いで考えても同じです。羊の囲いに門は一つだけです。イエス様の門からしか中に入れません。それでは聖書は門の話だけをしているのかと言えば、そうではないのです。門の外がどんなに危険なのか、ただひとつの門がどこにあるのか、門をくぐった後に、その囲いの中はどのようなところなのか。それらを全部語っているのが聖書です。

先週、説教の前半でややこしい話をしてしまいましたけれども、あの後も追加で何人かの方々からご質問をいただきました。説明させていただいた後で、ある方は「教会とは何かイメージがはっきしていない」と教えてくださいました。主に仕える方法は主が教えてくださるのであり、ほかの神々に仕える方法を真似てはいけないとすれば、次の質問は「主が教えてくださる主に仕える方法とは何か」であり、「主イエス様が建てなさった教会とは何か」となるでしょう。思いを巡らしながら聖書を読み、私たちの人生に関わっておられる主を見つめて、いまあなたは何をしてくださっているのですかと尋ねてみてください。


お祈りいたしましょう。
天の父なる神様。天地を創造され、人を丁寧に形作り、あなたの息を吹き込んでくださった主よ。ただあなただけが畏れられるべきお方です。私たちの叫びを聞き、私たちを贖い出してくださいまして心からありがとうございます。それから、あなたに信頼して歩むこと教えてくださり、あの日、私たちはあなたを主として歩むことを決心して洗礼を受けました。私たちの罪を赦し、奴隷ではなくあなたの子として受け入れてくださりありがとうございます。あなたは私たちのために教会を建て、そこに私たちをいれてくださいました。私たちにもまた、聖絶を求めておられることを知っています。主よ。私たちは教会がどのようなところなのか、まだまだ教えていただかなければなりません。かつて12弟子たちに教えてくださったように、私たちにも教えてください。私たちはあなたの教えを喜びとします。 イエス様、あなたが御国の福音を宣べ伝えられたように、私たちも良い知らせを伝えたいと願います。今週もこの群れをあなたの宣教のために用いてください。感謝して、主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。 
写真はFuminさんより


0 件のコメント:

コメントを投稿

Pages