2021.10.24 教団創立記念礼拝「民の不平とその影響・モーセの失敗」民数記14章の1節〜12節



 ここ1週間で季節は飛び越え、初冬の雰囲気さえ漂うこの朝は王寺教会の属するイムマヌエル綜合伝道団の創立を記念する礼拝でもあります。日本の戦後と同じ、76年目になるようです。

今日は、民数記から、エジプトから脱出した人々とモーセの間の確執と彼の失敗から学びました。私たちの心には縞馬の縞模様のように感謝と不平が同居していると知りました(Re)

不平を言うことと、感情の吐露、は違うんです、、、そうかあ、そうよね。と。何回も聞いたはずなのに、ストーンと自分の中に入ってきました。(yu)

[礼拝説教]  中尾敬一牧師

おはようございます。本日はイムマヌエル綜合伝道団の創立記念礼拝をもっています。 教団が創立されてから76年目になります。76年と聞いて、あれっと思われた方もおられるでしょう。今年は第二次世界大戦が終わってから76年目です。インマヌエル綜合伝道団は終戦の年に創設された群れなのです。1940年、戦時体制が作られていく時代の中で宗教団体法という法律が作られ、宗教団体の設立には「文部大臣又は地方長官の認可」が必要と定められました。そうした政府の圧力の中、日本中のキリスト教会は日本基督教団という大きな傘の下に集まる(集めら れる)ことになりました。ところが戦時下の日本基督教団には様々な問題が起こりました。 政府の顔色を伺いながら、皇居に向かって敬礼したり、君が代を讃美歌に載せて歌ったり、 総理が伊勢神宮を参拝したりしたわけです。また政府の認可取消を受けて、ホーリネス系の教会が弾圧されるままにしました。イムマヌエル綜合伝道団の創設者も、この弾圧で2 年間投獄されています。やがて終戦となり、GHQ によって宗教団体法が廃止されました。  その年、数名の同志と祈っていた創設者の蔦田先生は、日本基督教団に戻るのではなく、 新しい群れを始めていくように主から導かれました。どうしてイエス様の教会はひとつな のに、こうして色んな教団が現れてくるのかと疑問に思われる方もおられるかもしれませ ん。そこには歴史の背景があります。聖書には様々なストーリーが記されています。エバが善悪の知識の木の実を食べたとか、ダビデがゴリアテを倒したとか、ペテロが水を上を歩いたとか。ひとつひとつの出来事で す。またもう少し大きな区分があります。出エジプトとか、王国時代とか、イエス様の生 涯とか、初代教会時代などです。そして、もっと大きな大河があります。世界が創造され、 人が主を離れ、主が救い出すと約束され、イエス様の十字架があり、人々が福音を伝え、ついに新しい天と地に迎え入れられるという一番大きなストーリーです。このように大き なストーリーの中に、小さな流れがあり、さらにひとつひとつの出来事があります。 私たちは教団の創立を記念する時、76年間だけを見ていてはいけません。この76年 もまた、聖書が示す大河の中の小さなストーリーです。いつも聖書のストーリーからズー ムインするようにしましょう。聖書はこの世界の話です。私たちはこの中を生きているの です。今日の聖書箇所をお開きください。民数記14:1-12(262ページ)【聖書朗 読】2週間前になりますが、荒野の話に入りました。主に贖われた民は主の約束をいただき ました。それは未来の予知ではなく、未来の約束でした。予知と約束は違います。予知は、その時が来るまで何もすることがありません。時を待って、時が来たらそれが起こる。それだけです。しかし約束は予知と違います。約束が果たされるまでにやることがあるわけです。聖書は主が約束を果たしてくださったと繰り返し言っています。それは主が誠実な お方であることを伝えています。それでは民の方はどうだったのでしょうか。主の約束は、主との約束でもありました。 契約という言葉が使われていますが、民の約束もあったわけです。聖書の他の箇所では結 婚にも例えられています。夫が妻に約束することがあれば、妻が夫に約束することもある のです。先週は、荒野には婚約時代の愛があったとお話しました。エレミヤ書を開いて、主が荒野を良い時代だったとおっしゃっていた事を確認いたしました。しかし、今日開い た箇所はどうでしょうか。民が主に背いて、エジプトに帰ろうとしている場面です。「あれ?やっぱり、荒野は良い思い出がなかったんじゃない?」どっちなんでしょう。 シマウマで例えてみましょう。シマウマを全く知らなかった人がいたとしましょう。ア フリカ旅行に行ったのか、動物園に行ったのか。生まれて初めてシマウマを見ました。白 と黒の縞模様。「こんな動物がいるのか。すごいなぁ。」そうして帰ってきて、友人に話 しました。その友人もシマウマを見たことがありません。「聞いて、聞いて。シマウマと いう動物を見たんだよ。」「へぇ~、どんな動物?何色なの?」「えーと、白があってね。 それで黒が…」「え?なに?白なの?黒なの?」「いや、だから。白いのがあって、黒 も」「え、全然分からない。白なの、黒なの、はっきり言って!」「…。」 シマウマは 白と黒の縞模様なのです。 荒野の思い出はシマウマです。例えば「約束の地に入る」と聞いた時、二つの思い出が あります。ひとつは、主に従わないで引き返した思い出、もうひとつは主に従ってヨルダン川を渡った思い出です。荒野はシマウマ。真実の愛と反抗の舞台でした。主への信頼と 主への不信がありました。感謝と不平がありました。カナンへ行く方向とエジプトに戻る 方向がありました。私たちは荒野の出来事を思い出しながら、真実の愛と反抗を学ぶこと ができます。またそれらの結果を知ることができます。さて、今日はシマウマの黒い部分を見ています。お読みしました箇所の前の章では、カナンに入ろうとする最初の試みがありました。この時、イスラエル人たちはカナンに強い人たちが住んでいることを見て、カナンに入っていくことを諦めました。それで14章の出だしの、全会衆が大声をあげて叫び、夜を泣き明かしたというところに繋がっています。「こんなに苦労して、結末がこれ?」と思ったのでしょうか。「思ってたんと違う」そう言って、約束を果たすために誠実に働いてくださっている主を信じませんでした。不平と感情の吐露は違うことに注意してください。《「わが神、わが神、どうしてわた しをお見捨てになったのですか」》これは十字架上のイエス様の言葉であり、詩篇22篇 を歌ったものです。この詩篇22篇は主に信頼することを歌っています。これは心にある 感情を注ぎだしながらも主を信頼する人の言葉です。しかし、今回のイスラエルの言葉は 主を信頼することをやめてしまおうということでした。これは不平です。その不平の言葉は誰に向けられたのでしょうか。モーセとアロンです。主が民を導いて こられたことを彼らは認めていますが、それなら主に直接言えば良いものを、モーセとアロンに不平を言い、《「さあ、われわれは、かしらを一人立ててエジプトに帰ろう。」》 と言ったのです。かつてシナイ山で主の臨在を見た時、民は何と言っていたでしょうか。 山が厚い雲で覆われ、雷がなり、火の中で主が下りてこられ、地震が起こった時、民は身震いしてモーセに言ったではありませんか。《「あなたが私たちに語ってください。私た ちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。」(出20:19)》と。それなのにどうしたことでしょう。「思ってたんと違う」というそれだけの理由で、主を信じる思いは、「私たちは聞き従い ます」という言葉とともに、どこかへ飛んでいってしまいました。もはや主を恐れていな いのなら、会見の天幕のところに行って直接不平を言えばよかったのに、なぜか不平は モーセとアロンのところに。これが荒野で度々起こったことです。 しかし、誰に向かって言ったとしても、主は人の心までも知っておられるお方ですから、 その不平が主に対してであることを見抜いておられました。《この荒野で死んでいたらよ かったのだ。(14:2)》と民は言ったのです。主は「それならばその通りになれ」とおっしゃって(14:28)、民を荒野へ引き返させ、そこで一生を終えるようになさい ました。《高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。》と箴言にある通りです。どんな時も主を信頼すること。これが私たちの主への約束ではありませんか。
今日はもう少し掘り下げてみたいと思います。説教題にもしました、民の影響について、荒野の出来事を思い出してみましょう。民が主を信頼せず、主が立てた人々に不平を言っ たことは、時にモーセ、アロン、ミリアムに影響を与えました。アロンが、ヤハウェの像 を作って欲しいと願う民のために、金の子牛を作ってあげたことは有名な話です(出3 2)。また民数記の12章にはアロンとミリアムがモーセを非難し、《「【主】はただ モーセとだけ話されたのか。われわれとも話されたのではないか。」》と言いました。つ まり、なぜモーセだけ特別にされているのか、私たちも重んじられるべきと言ったのです。 モーセを選んだ主への不平でした。それではモーセはというと、彼もまた失敗しました。民数記20:7-12《【主】はモーセに告げられた。「杖を取れ。あなたとあなたの 兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。 彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」そこでモーセは、主が彼 に命じられたとおりに、【主】の前から杖を取った。モーセとアロンは岩の前に集会を召 集し、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたが たのために水を出さなければならないのか。」モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打っ た。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。しかし、【主】はモー セとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている 前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたし が彼らに与えた地に導き入れることはできない。」》モーセは「われわれがあなたがたの ために水を出さなければならないのか」と言っていますね。「われわれ」とは誰のことで しょうか。モーセとアロンのことか、あるいはモーセと神である主のことか。いずれにし てもモーセは自分を主と同列においてしまいました。主がマナと水を与えてくださってい る。だからどんな時も主に信頼しなさいと示す人であったはずなのに。怒りに任せて岩を 2回叩きながら、「主と、この私が水を出してやる」と。そうしてしまったのです。聖なる主の領域に足を踏み込みました。主を軽んじる思いは人から人へ影響を与えていくので す。 古代イスラエルの荒野時代は、私たちへの教訓を残しています。私たちがそれぞれの人 生を歩む中で、あるいは王寺教会の群れの歩みの中で、似ている場面に出くわすことがあ るのではないでしょうか。今日は教団創立記念礼拝ですが、教団の歴史の中にもシマウマ を見つけることができるでしょう。聖書は鏡のように私たちの姿を映し出しています。私 たちは、約束の地を目指して、兄弟姉妹と共に荒野の旅をしています。イエス様が言われ た通り、この人生は患難があり、「思ってたんと違う」ことに出くわすことが多々ありま す。どうか荒野のシマウマを思い出してください。婚約時代の愛となるか、主への反抗と なるか、私たちには選択肢があります。私たちは主と約束したのです。主よ、あなたを私 たちの人生の主として信頼して歩みますと約束したではありませんか。 互いに励まし、互いに祈り合いましょう。私も祈っていただかなければなりません。私 たちを導いてくださっているのは主です。御名を聖なるものとすることができるように 祈ってください。これは主の祈りの第1行目の祈りです。《天にいます私たちの父よ。御 名が聖なるものとされますように。(マタイ6:9)》主イエス様はすぐに帰ってくると約束してくださったのですから、その日まで共に忍耐 して、主を信頼しながら、歩んでまいりましょう。

お祈りいたします。《私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。 もし【主】が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに 下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。》 天の父なる神様。私たちが愛するよりも先に、真実の愛をもって恵みを注いていてくだ さった主よ。心からあなたに感謝し、み名を賛美いたします。あなたは誠実なお方です。 みことばの約束をいつも守ってくださいました。私たちは人生の中で、あるいは群れの歩 みの中で、「思ってたんと違う」ことに度々、出くわしてきました。どうしてこんなこと になったのかと驚きあやしんだものです。しかし、最後に知ったことは、主の約束は私が 想像していたことより遥かに大きく、遥かに良いことだったということでした。「思って たんと違った」のは主の恵みが想像の限界を遥かに超えていたからでした。私たちはそれ に見合うものを何一つ持っていませんでしたのに。あなたの愛はなんと大きく、なんと誠 実なことでしょう。 

 主よ。ヨルダン川の前で立ち尽くす私たちを支えてください。2つの教訓があります。 主に信頼することをやめてイエス様の弟子であることをやめてしまうか、主に信頼してイ エス様の弟子でありつづけるか。その選択肢があります。あなたがこれまでに与えてくだ さったマナと水を思い出して、今週も一歩、あなたの弟子として足を踏み出していけます ように、よろしくお願いいたします。 

 そうして、群れを導く者が、またこの群れ全体が、この教団全体が、「ただ主だけでこ れを導いた」と告白し、主のみ名を聖なるものとすることができますように、切に祈りま す。王寺教会のかしらはイエス様あなただけです。あなたに信頼してまいります。  主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。 

         


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