2022.3.27主日礼拝「主イエスのうめき」詩篇22篇



桜満開(写真はSさんより)

数日前にインマヌエル綜合伝道団の 年会がありました。コロナ禍でなければ、上京して参加するはずだったのですが、2年続きオンラインでの参加でした。そこで任命式が行われ、中尾先生が今年も王寺教会に遣わされました。毎年この時期になると先生が交代になるかもしれない不安が潜在するのですが、今年もこれで落ち着いて教会生活ができます。今日は、十字架上でイエス様が最後の言葉として引用なさった詩篇とチャールズウェスレーの讃美歌を味わいます。桜は満開。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。先週は年会のためにお祈りいただきありがとうございました。牧師は年会で1年間の任命を受けて、それぞれの地に遣わされます。出ていって、帰ってきて、また出ていく。教会では1週間(半週)がこのサイクルですが、牧師の働きは1年でのサイクルになっています。本当は東京まで帰って、また出てくるという旅がないと気持ちの面で不足を感じるのですが、コロナ禍ですから仕方がありません。来年にはこのようなことも終わっていると期待しつつ、オンライン年会に出席させていただきました。そして2日目の任命式で王寺教会の任命をいただき、主からのものとして信仰もって受け止め、今朝の講壇に立っております。後でご挨拶したいと思いますが、この一年もよろしくお願いいたします。
 牧師にとってそのような意味合いのある年会ですが、みなさまからはどのように映っているでしょうか。按手礼や任命式はインマヌエル教会全体に公開されていましたので、ご出席くださった方もおられると思います。私が願うことは、あの様子を見ながらイエス様の教会の世代の繋がりに心を留めていただきたいということです。イエス様の教会は12弟子とその他おそらく数百人程度のイエス様を主と信じた人々の群れから始まりました。そして、その群れに人々が加えられていきました。ペンテコステの日にはエルサレムに集まった人々がイエス様を信じて教会に加えられ、それぞれの場所に帰っていって地域の個教会となり、そこに信仰者が加えられていきました。教会は散らばっても一つの教会ですとしばらく前にお話しました。散らばった先でさらに加えられ、そうして広がりました。やがて日本にまで広がり、私たちもあの洗礼を受けた日にイエス様の教会に加えられたのです。ある方にとっては、按手礼や任命式は格式張った、あまり聖書と関係なさそうに感じる出来事かもしれません。しかしそこには、2000年前のイエス様の弟子たちの群れから繋がっている糸があるのです。
 今日の聖書箇所をお開きください。詩篇22篇(952ページ)【聖書朗読】
 
 今日のテーマは「うめき」です。レントが続いており、もうすぐ受難節もやってきます。詩篇22篇が開かれ、「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。」「エリ、エリ、ラマ、アザブタニ(אֵלִ֣י אֵ֭לִי לָמָ֣ה עֲזַבְתָּ֑נִי)」と来れば、私たちが思い出す情景は十字架上のイエス様ですね。さぁ、イエス様の十字架の話をしましょう!と言いたいところなのですが、一旦、イエス様のことは忘れておいていただけないでしょうか。_ 「え、イエス様を忘れる!?何と不敬なことを、しかも講壇から語るのか」と思われるかもしれません。「ついこの間、士師記を読んで、主を脇に追いやることは罪だと言っていたのに」と。しかし、後でちゃんと戻ってきますので。最初はイエス様と繋げないでおいていただきたいのです。いま開いているところは旧約聖書の詩篇です。この詩篇が作詞され、讃美歌として編集された時には、まだイエス様は登場していないのです。まずはイエス様の時代のユダヤ人が詩篇22篇をどのように歌っていたのかを見て、そしてその歌をイエス様が十字架上で叫ばれたと順番に重ねてみましょう。ショートケーキのクリームといちごだけを食べていては、ショートケーキを味わったことにはなりません。スポンジがあって、クリームとスライスした苺があって、またスポンジが乗って、周りをクリームで覆って、飾りのクリームと苺を乗せて、一緒に食べるのがショートケーキです。私たちは新約聖書だけ読んで分かったつもりになったり、分からないなぁと首を傾げていたりするのです。「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか」というイエス様の叫びを首を傾げながら読んでいるのです。十字架の側にいて「エリヤを呼んでいる」と勘違いしていた人たちと似ています。
 詩篇22篇はダビデのうめきの歌です。ダビデが命を狙われて、主に叫ばざるを得ない状況になったのは一度のことではありません。大きな事件だけでも、サウル王に命を狙われていた時、またアブシャロムに命を狙われていた時がありました。敵の攻撃を受けたこと、人々から呪いの言葉を投げつけられたこと、争いで国や家族が傷つけあっているのを見たことは数知れずありました。もちろんダビデは出エジプトの主を知っていましたし、自分の人生においても主が何度も救ってくださったことを経験していました。ですから、主に信頼してこの賛美を歌ったのです。しかし、それでも彼には主の救いの時までのひと時の(その只中では永遠のように感じる)うめきの時がありました。水のように注ぎだされ、骨がみな外れ、心がろうのように溶ける苦しみのうめきでした。
 このダビデのうめきの歌をイエス様が…と言いたいところですが。もうちょっと待ってください。この詩篇は讃美歌集です。曲が作られた時と、讃美歌集が編集された時があります。ひとりの人の信仰体験を群れとして体験するのが讃美歌ですとお話したこと覚えていらっしゃるでしょうか。この詩篇22篇が残ったということは、後のユダヤ人がダビデの体験を自分たちの状況と重ねたことを意味します。ユダヤ人にとって「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。」といううめきは、どのような時に起こった叫びだったでしょうか。ダビデの時代より後です。バビロン捕囚ですね。
 主はユダヤ人をバビロンの手に渡しました。彼らが主に仕えることをやめて、暴虐を働いていたからです。アビメレクがギデオンの70人の息子を殺したこと、エフタが愚かな誓いを立て、娘を生きたまま焼き殺したこと、ダビデがウリヤからバテシェバを奪い、戦場で殺したこと、ソロモンが国民を奴隷にしてしまったこと、国が南北に分裂し内戦を起こしたこと、ひとつひとつを思い出してください。国の中で、寄留者、孤児、やもめが虐げられていたこと、咎なき者の血が流されていたこと、盗み、姦淫、バアルへの生贄があったことを思い出してください。生き方と行いを改め、ただ主に仕えなさいと言われたのに、ユダヤ人は従いませんでした。それで主はバビロンを用いてユダ王国を滅ぼされたのです。弱く、虐げられている人たちを救い出すためです。神の義に“お友達”の優遇はありません。「我が国には主の宮が堂々と建っているではないか、主が私たちの後ろ盾だ」と高をくくっていたユダヤ人たちは、バビロンと開戦してはじめて、自分たちの過ちに気が付き、うめき始めました。主よ、敵が攻めてきていますと。しかし主は黙っておられました。先に言われた通りです(エレミヤ7:16)。《わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず 遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。》《あなたに私たちの先祖は信頼しました。彼らは信頼しあなたは彼らを助け出されました。あなたに叫び彼らは助け出されました。あなたに信頼し彼らは恥を見ませんでした。》出エジプトを思い出しながら主の前にうめき叫んでいます。でも、「そんなこと知るか。自分たちがやってきたことを思い出してみろ。人を虐げていた時は平気で、自分が虐げられたら助けてくれて言い出すのか」と思ってしまうのは私だけでしょうか。そして、その鋭い言葉が、いざ私自身の罪に気付いた時、自分に突き刺さってくるのです。
 ところが、何ということでしょう。主はバビロン捕囚が終わるまで待ってから、ユダヤ人のうめきにお答えになったのです。エレミヤ書31:15-22《【主】はこう言われる。「ラマで声が聞こえる。嘆きとむせび泣きが。ラケルが泣いている。(ラケルはヨセフとベニヤミンの母:南ユダ王国の母)その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。その子らのゆえに。子らがもういないからだ。」【主】はこう言われる。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。(うめきが主に聞き届けられたというのです)──【主】のことば──彼らは敵の地から帰って来る。あなたの将来には望みがある。──【主】のことば──あなたの子らは自分の土地に帰って来る。(今日、ウクライナに夫や父親、息子を送っている女性たちがこの箇所を読んだなら、どれほどの慰めでしょうか。)わたしは、エフライム(北イスラエル)が悲しみ嘆くのを確かに聞いた。『あなたが私を懲らしめて、私は、くびきに慣れない子牛のように懲らしめを受けました。私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。【主】よ、あなたは私の神だからです。私は立ち去った後で悔い、悟った後で、ももを打ちました。恥を見て、辱めさえ受けました。若いころの恥辱を私は負っているのです』と。エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。(!)──【主】のことば──あなたは自分のために標識を立てて道しるべを置き、あなたが歩んだ道の大路に心を留めよ。おとめイスラエルよ、帰れ。これらの、あなたの町に帰れ。背信の娘よ、いつまで迷い歩くのか。【主】はこの地に、一つの新しいことを創造される。女の優しさが一人の勇士を包む。」》20節を見てください。「わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。」これが主の心です。主のあわれみには心の痛みが伴うのです。しかし、責めるたびにますますあなたのことを思い起こし、あなたをあわれまずにはいられないとおっしゃるお方が、主です。
 イエス様は十字架の上で詩篇22篇を叫ばれました。「エリ、エリ、ラマー、アザブタニ」それはダビデのうめきでした。イエス様自身には何の罪もなかったのです。御父が助け出してくださることを知りながら、このひと時の、永遠のように感じる、神の沈黙の時に、うめき声をあげなさいました。あなたの苦しみのうめきを共に叫んでくださったのです。今もなお、主は私たちのうめきをとりなしておられます。
 またそれは、私たちの罪と咎を担われたお方のうめきでした。出エジプトのように助けてくださいと叫び、しかし自らの罪ゆえにこうなっていると痛感している者たちの叫びを、御父は御子イエス様に負わせなさいました。あの叫びは誰の叫びですか。私の叫び、あなたの叫びではありませんか。主はそのうめき声を聞き、責めるたびにあなたを思い起こし、あわれんで、すべての痛みをイエス様に負わされました。こうして私たちは「帰れ。あなたの町に帰れ。いつまで迷い歩くのか。わたしに帰れ」とおっしゃる主の声を聞いたのです。
 チャールズ・ウェスレーの讃美歌を今日もひとつ読みたいと思います。①私のうめきの向かう先 隠れたところにおられる神よ ご自身を啓示してくださるまで届くことも 知ることもできない神よ 罪人の祈りに耳を傾けてください 自分の血の中で転がりまわっている罪人の祈りを 洗いきよめられておらず 赦されておらず 天国から地獄までと同じくらい 生ける神から遠く離れている罪人の祈りを ②生まれ変わっていない人の子 私はあなたに信仰を求めます 堕落した被造物の痛みを憐れんでください そして 私をこの堕落から引き上げてください あなたを通して私が感じる暗闇は あなただけが取り除けます あなたの永遠の力を明らかにしてください 愛の神よ ③あなたは不信仰の内に閉じこもりました その恵みは私が解放されることを可能にしました 私は望み得ない時に望みを抱いて信じ 真理を知ることを待ちます あなたは私に御名を示してくださるでしょう あなたの光を与えてくださるでしょう 縛られ 抑圧されても わたしはあなたのものです 主の囚人です ④わたしはあなたの敵に仕えません 暴君の鎖を憎みます あなたの囚人を穴から出してください いたずらに私を叫ばせないでください 平安をもたらすあの血を示してください あの契約の血が塗られ 私のすべての悲しみは一度に止むでしょう 私のすべての罪は死ぬでしょう ⑤主よ もしあなたが力であり 降りてきてくだされば 罪の山は取り除かれ 私の不信仰と悩みは終わります もしあなたが真理と愛であるなら 語ってください イエス様 私の心に語ってください あなたが私のためにしてくださったこと 一粒の生きた信仰を授けてください 神様が私のすべてです
お祈りいたします。《【主】を恐れる人々よ 主を賛美せよ。ヤコブのすべての裔(すえ)よ 主をあがめよ。イスラエルのすべての裔よ 主の前におののけ。主は 貧しい人の苦しみを蔑まず いとわず 御顔を彼から隠すことなく 助けを叫び求めたとき 聞いてくださった。》
 
 天の父なる神様。慈愛に富み、あわれみに満ちておられる主よ。レントに入り、受難週を前にして、少しずつ十字架と復活の日に向けて歩んでおります。私たちをここまで導いてくださりありがとうございます。
 私たちひとりひとりにいつも目を留め、すべてのことを知っていてくださる主よ。あなたはわたしたちのうめきもよくご存知です。それが祈りとなり、叫びとなる前から、あなたはそれを知っていてくださいます。またついに耐えきれなくなり、言葉にもならないうめきとなって、天にまで届く時、あなたは聞いていてくださいます。主よ。あなたの助けがあると確信していても、このひと時の苦しみが私たちには耐えられないのです。《主よ あなたは離れないでください。私の力よ 早く助けに来てください。》
 また主よ。私たちが自らの罪を嘆き、うめくとき、私たちの内にあなたの救いを求めるに値する何かがあるでしょうか。《救い出してください。私のたましいを剣から。》と祈りますが、剣を振り回しているのは自分自身ではありませんか。どうかあわれんでください。十字架に現された、あなたのあわれみに伴う痛みを私たちは見ています。あまりに不思議な主の愛。あなたは私たちを愛して下さいました。どうか私たちを贖い、造り変えてください。《主を求める人々が【主】を賛美しますように。… 地の果てのすべての者が 思い起こし 【主】に帰って来ますように。》
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン





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