2022.4.3主日礼拝「暴虐から救われる」出エジプト記15章1-9節


受難週が近づいてきました。教会の壁面に美術部によって、少し変化が加えられました。イエス様のゲッセマネの祈り、そして、十字架が私たち信じる者の心の風景にだんだんアップされてくるようにと聞きました。
世界では戦争がやむことなく続いています。世の罪を担ってくださったイエス様の苦しみが私たちにも迫ってまいります。
今回は社会派のクリスチャンと福音派のクリスチャンでは聖書の読み方にも違いが出てくることを知りました。( Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。桜が満開の中、新しい年度に入りました。桜にも色々と種類がありますが、どれも美しいですね。あれほどまでに木々を美しく彩ってくださる主が、私たちの必要をいつも備えてくださっていることを覚えたいと思います。

 今年のイースターは例年よりも遅くて、桜の木は緑になっているかなと思いますが、来週は受難週(十字架の週)、再来週はイースターとなります。会堂の壁には教会の姉妹によって飾り付けられておりますが、先週と変化が加えられていることお気づきでしょうか。受難週を思い出させる絵となっています。これを見て、福音書の出来事を思い出し、思い巡らせていただければと思います。

 主はご自分の民に、ひとつひとつの出来事をしっかり覚えておくように言われました。過ぎ越しの祭りや五旬節が主によって定められたのもそのためです。どんな歴史があったのかあらゆることを通して子どもたちに語り伝えなさいとおっしゃったのです。そして、どのような出来事が起こったのかを知っていることは、聖書を読むための基礎になります。イエス様を始め、ユダヤ人たちはどのような出来事の中で、この御言葉があったのかを分かっていました。ところが、イエス様の弟子たちがあれほどユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの一致に心を砕いていたにもかかわらず、中世以降の教会はユダヤ的考えを排除していきました。律法の例祭よりも、新しく作った教会カレンダーを重視したり、といった具合です。そうして背景の出来事と御言葉を切り離して読むようなことも起こり始めました。聖書をパラパラめくり、「あ、いい言葉があった」とこっちから切り取り、あっちから切り取り、それらを合体させてしまうようなことも起こるようになりました。私たちも御言葉の意味よりも、響きが良いとか、言い方が心に刺さるとか、そのようなことを重視していることはないでしょうか。聖書を読む時は、その部分の背景をよく思い出し「ズームイン」を心がけてください。
 この一年間、聖書の全体像の話を続けてきました。(まだ半分も来ていません。)それは聖書の一節一節から語られている、主のことばを受け取る基礎となるからです。イエス様の時代のユダヤ人は、子どもの頃から生活の中のあらゆることを通して、それを学ぶことができました。年間のカレンダー、神殿などの建物、伝統的な食事、あいさつ、様々なことを通してです。このレント、受難週、イースターもそのような時のひとつとなるように願っています。
 今日の聖書箇所をお開きください。出エジプト記15:1-19(125ページ)【聖書朗読】
 
 ジョン・ウェスレーの弟であるチャールズ・ウェスレーの讃美歌を今日も紹介したいと思います。お配りしました讃美歌の歌詞をさっと見ていただきますと、出エジプトのことであるとお分かりいただけると思います。
 出エジプトとイエス様の十字架は関係があるのでしょうか。関係あります。大いにあります。イエス様が十字架にかかられたのは過ぎ越しの祭りの時でした。過ぎ越しの祭りは、主の民がファラオから解放されたことを覚えておくための記念日です。また福音書にも、「エルサレムで成就しようとしている出エジプト」(エクソダス:出発、ルカ9:31注)と変貌山の箇所に書いてあります。
 そのように言いますと驚かれる方もおられるかもしれません。出エジプトを特に強調してきたのは社会派のクリスチャンたちだからです。福音派の教会の説教で出エジプトの解放を語るのかとびっくりされるかもしれません。社会派は抑圧からの解放と平和を強調し、福音派は罪の赦しによる神との和解を強調してきました。どうして同じ聖書を読んでいるクリスチャンの間で、このように意見が割れてしまったのでしょうか。それは聖書にはどちらの救いについても書いてあり、イエス様の十字架の贖いはその両方を包括しているからです。主の救いは私たちが考えついたり、感じたりするものよりも、さらに大きく深いのです。そしてチャールズ・ウェスレーの讃美歌に出エジプトを元にした歌詞があるのは心に留めて置きたいことです。こっち派だからこっちだけを考える、あっち派だからあっちだけを考えるとすべきではありません。
 私たちはそれぞれの人生で経験してきている事柄によって、「救い」と聞いた時に連想することが異なっています。救いとは何からの救いでしょうか。私たちは何に悩み苦しんでいるのでしょうか。_ 例えば、親から虐待を受けている若者が、別の人に危害を加えて良心の呵責をおぼえている場合。何かの依存症にかかっている方が誰かに危害を加えた場合。ニワトリが先か卵が先かのような話ですね。一体何が最初に解決されるべき問題か、人々は色々と考え、それぞれの意見を持っているのではないでしょうか。聖書はこのことについてとても丁寧に語っています。主は私たちの外にある問題も、内にある問題も、どちらにも光を当て、すべての問題から私たちを贖ってくださるのです。どちらかだけ解決しようと言われるのではありません。どちらかを先に解決しようとおっしゃるのではありません。あのイエス様の十字架によって一度にあらゆる問題を取り扱い、私たちを救ってくださるのです。
 クリスチャンの信仰が成長していくということは、主の贖いの深さと広さをより大きく知っていくことでもあると思います。奴隷状態からの解放、病の癒やし、孤独からの回復などの面から主の救いを経験してきた人たちは罪の問題を軽くみる傾向があり、神の前に謙遜に生きることが難しいことがあります。いじめられっ子からいじめっ子に変わってしまったのに全く気付かないこともあります。一方で罪の赦し、恥の解決、神との和解、心の平安などの面から主の救いを経験してきた人たちは病や社会問題を軽視する傾向があり、ヨブの友人たちのように、苦しむ人をさらに追い込んで責めることがあります。すべての人の人生は、自覚しているかどうかは別として、どちらの問題も抱えていると聖書は語っています。主はあの十字架と復活において、すべての問題から私たちを贖い出してくださいました。
 さて、今日の視点は出エジプトです。主の民がファラオから解放される前、主は十の奇跡を用いてファラオに対峙されました。その最後の不思議な業は、イスラエル人以外の家ですべての長子が死んでしまうというものでした。十の奇跡は、ぞれぞれ当時のエジプトの神々を圧倒する業となっています。エジプトにおいて、あらゆる神々の上に君臨していたのはエジプトの王ファラオでした。ファラオはイスラエル人を迫害し、生まれてくる男の子を殺していたのです。主はエジプトの人たちが頼っていた空しいものたちを次々に打ち負かせ、最後にファラオを打ち負かされました。ファラオが流した血が自分のところに返ってくるようにされたのです。その時、イスラエル人は子供が殺されるという災いが過ぎ越されるように、羊を屠って、その血を家の鴨居に塗るようにと言われました。その言葉の通りにしたイスラエル人の家は災いが過ぎ越され、誰も死ぬことがありませんでした。この羊は、十字架で死なれたイエス様を指し示すものです。
 ローマ人への手紙の中で、パウロはこのように説明しています。《キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。(ローマ6:3-4)》鴨居に羊の血を塗るという行動は、イエス様の十字架の死にあずかることを指し示しています。そのように重ねていくなら、イエス様の十字架によって、ファラオのように私たちを苦しめてくるものから私たちは守られ、救われると分かるのです。事実、新しい天と地が創造される時、主を王として迎える人は残され、主に従わない人たちは残されることがありません。神は私たちの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださいます。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもありません。以前のものが過ぎ去るからです。(黙示録21:4)
 イエス様の弟子であったペテロは、ある時このような経験をしました。使徒の働き12章にある出来事です。イエス様が天に昇られた後の時代に、ユダヤのヘロデ王が弟子たちを迫害していました。ヤコブがヘロデに殺された後、ペテロも捕らえられて牢屋に入れられてしまいました。それは過ぎ越しの祭の時期でした。ヘロデがペテロを処刑しようとしていた日の前夜。ペテロは二本の鎖につながれて、二人の兵士の間で眠っており、戸口には番兵たちがいました。すると主の使いが現れて、ペテロを起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言いました。その時、鎖がペテロの手から外れ落ちました。ペテロは主の使いについて行って、第1の衛所を通り、第2の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開きました。ペテロは寝ぼけて夢でも見ているのだろうと思っていましたが、外に出た時に我に返って言いました。《「今、本当のことが分かった。主が御使いを遣わして、ヘロデの手から、またユダヤの民のすべてのもくろみから、私を救い出してくださったのだ。」》その後、ヘロデはペテロを探しましたが見つかりませんでした。しばらく後のことです。ヘロデ王は王服をまとって王座に着き、人々に演説をしていました。集まった会衆は「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けました。するとどうしたことでしょう。ヘロデは虫に食われて、死んでしまったのです。ヘロデが神に栄光を帰さなかったので、主の使いが彼を打ったと聖書に書いてあります。エステル記を思い出すような出来事でした。
 抑圧に苦しむ方はおられるでしょうか。病気も私たちを抑えつけ苦しめるものと言えるでしょう。主は私たちをイエス様の死と復活にあずからせ、苦しみから解放してくださいます。私たちは希望をもってイエス様が帰ってこられる日を待ち望むことができるのです。
 チャールズ・ウェスレーの讃美歌を読んでみましょう。①主のみ腕よ 私のために起きてください! あなたは海を打ち砕いたお方ではないのですか その大水はすべて干上がりました! あなたは高慢なファラオとその軍勢のおごりを 鎮めなさったのではないのですか 彼らの荒れ狂う誇りを挫かせたのではないのですか! ②あなたは極悪な竜に傷を負わせ 馬と騎手を溺れさせました 栄光と優れた力によって イスラエルは堅固な隊列で行進している間 あの不思議な道を通って意気揚々としています 岸に着くまで つまずきませんでした ③目覚めよ 太古の時代のように 我らの敵であるエジプト人を見よ 地獄の冷酷な暴君がかしらとなっている人びとを 彼は私たちの脱出に激怒し 怒鳴ります そして 彼のすべての力を使って私たちを追います 鉄の炉から解き放たれた力をもって ④「私は追いかけ 追い抜いてやる 逃亡者たちを連れ戻し 私の血の欲望を満たそう 鋭利な嘘の剣を抜き取り 偽証の洪水を浴びせ 反逆者たちに彼らの神が誰かを分からせるのだ」 ⑤まだ近くにいてくれる聖なる神の使いよ 民の後方に移動し 民を守ってくれ 今日 イスラエルのために戦っておくれ ああ 雲と火の柱を敵と民の間に置いてくれ 敵には雲と闇を 私たちには力づける光の炎を ⑥私たちがあなたに救いを求める叫びを聞いてください 不信と恐れの夜な夜なに 敵の力を近づけさせないでください 彼らはあなたを押しのけて通れません あなたは私たちの守りとなってくださるでしょう 嬉しい朝の光が現れるまで ⑦み守りの雲を見よ その中であなたは私たちの魂を覆い隠し あなたの目で異邦人を吹き飛ばしてくださる 高慢なエジプトの軍勢に困難を与え 彼らの虚しく不遜なおごりをまごつかせてください 私たちの内におられるイスラエルの神を侮るのは誰か ⑧凶暴な追っ手の速度を止めてください 恐れと 彼らのたましいを痛める激しい怒りによって 戦車の車輪を外してください すべての人の心からこの嘆きを取り去ってください 「エホバ(ヤハウェ)は彼の民の味方であり 私たちはみだりに主に逆らっている」
お祈りいたします。《ファラオの馬が戦車や騎兵とともに海の中に入ったとき、【主】は海の水を彼らの上に戻された。しかし、イスラエルの子らは海の真ん中で乾いた地面を歩いて行った。》
 
 天の父なる神様。私たちの盾、救いの角、やぐら、逃れ場、救い主であられるお方。あなたは私たちを暴虐から救われます。王でありながら、民を救い出し、守り、必要と自由を与えるために御子のいのちさえも惜しまれなかったお方はあなたの他にいません。仕えられるのではなく仕え、ひとりひとりをおぼえて、愛してくださるお方はあなたの他にいません。あなただけが私たちの王です。私たちを治め、敵から救い出してください。あらゆる抑圧者から助け出してください。病の苦しみから解放してください。悪しき霊から守ってください。
 あなたは私たちの王として帰ってきてくださると約束してくださいました。その日を私たちは希望をもって待ち望んでいます。しばらくの間、この世界は別の王の手にありますが、それはいつまでも続くことはありません。もし、あなたがすぐに神の国をもたらしてくださり、私たちを救い出してくださるなら、あなたの御名をあがめ、人々に福音を告げ知らせることができますように。しかし、主の日まで忍耐を求められることがあるなら、希望もって生きる主の証人としてください。ゲッセマネの主イエス様を思います。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」
 《どうかあなたに身を避ける者がみな喜び とこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり 御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。》
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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