2022.2.27主日礼拝「神に上げられる」IIサムエル記12章1〜14節

先週ウクライナから戦争のニュースが届き、またパンデミックも収まる気配がなく、人々の心に不安がよぎる昨今です。それらから解き放たれて、日曜日の朝、神とお会いできる時間をもてたことにまず感謝。季節は巡り春はすぐそこ。神様の祝福のお約束の実現には私たちは待たねばならない。希望を捨てずに、全てをわかっていて下さるイエス様と共に歩もうという気持ちを新たにした時でした。お話は王になってからのダビデの罪。(Re)

[礼拝説教]  中尾敬一牧師

 聖書箇所:IIサムエル記12:1-14(557ページ)

説教題「神に上げられる」
 
 おはようございます。礼拝と祈祷会を数えて、今年17回目の集まりです。すでに17回、私たちは集まることと散らばることを繰り返してきました。この朝、もう一度兄弟姉妹と主のみ前で恵みを数える時をもてますこと感謝しております。
 こうして心臓の鼓動のように集まることと散らばることを繰り返す私たちですが、教会はひとつのキリストのからだであることを思い出したいと思います。散らばると言っても、おはじきがバラバラに散らばるような様子ではなく、からだを伸ばした時の様子をイメージしていただいたら良いでしょう。私たちが礼拝と聖餐を終えて、それぞれの場所に散らばっていっても、各々が切り離されてしまったのではなく、依然としてひとつのからだなのです。あなたが自分の場所に行った時、それはイエス様の御手がそこに伸びているということであり、からだ全体から切り離されているのではありません。パウロはコロサイの群れに《私は肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたとともにいて、あなたがたの秩序と、キリストに対する堅い信仰を見て喜んでいます。(コロ2:5)》と語っています。
 キリストのからだである教会はひとつしかありません。あらゆる時代やあらゆる地域を含めて、ひとつしかありません。そのことを、私たちは使徒信条の中で「聖なる公同の教会を信ず」と毎週告白しています。本来、教会の集まりは同じ言語の範囲で、また物理的に集まれる範囲でひとつずつであるはずです。ところが実際には同じ町内にいくつもクリスチャンの集会所があります。またオンライン礼拝も言語別にひとつずつで良いはずが、検索すれば同時刻にいくつも見つかります。これは異常事態なのです。どうしてこうなっているかは教会の歴史を学ぶと分かります。「はい、明日からひとつのところで礼拝しましょう」と言っても現実的ではありません。ある意味で士師記のような状態に私たちはいるのです。ひとつであるキリストのからだに切り傷がいっぱい入っています。こうなってしまっている原因のひとつは、教会が主を退けて王を求めているからではないでしょうか。主イエス様だけが教会のかしらでいてくださるように祈りましょう。聖書をよく学んで、主を見失わないようにしましょう。
 カナンでのイスラエル民族を見ると、鏡を見るように教会の残念な有様が見えてきます。一方で、人の目からは沈黙しておられるように見える主が、目に見えないところでどのように働いておられるのかを知ることができます。
 今日の聖書箇所をお開きください。IIサムエル記12:1-14(557ページ)【聖書朗読】
 
 さばきつかさや王様の時代は民全体がおかしくなり、選ばれた人たちでさえおかしいという話をしています。特に権力者による暴力と抑圧的支配が顕著に現れています。もちろん、これ以前も主に選ばれた人がおかしな行動を取ることはありました。アブラハム・イサク・ヤコブも主のみ心を損なうことを行いましたし、モーセも失敗しています。しかし、自分の一族の命を暴力で脅かしてはいません。ヨシュア記以前では、力は守るためのものであり、敵と戦うために用いられたものでした。
 今日の箇所は、ダビデ王のバテシェバ事件の一幕です。ダビデの生き方はマーブル模様でした。ゴリアテと戦った輝かしい時代と対照的な事件です。ここ数週間の説教を聞いておられる皆様は、どうしてダビデの悪いところばかり注目するのだろうと思っておられるかもしれません。神殿建設とバテシェバ事件の他にもダビデの話は沢山あって、サウル王に命を狙われながらも主に信頼して歩み続けたとか、良い話があるわけです。そんなに悪いことばかり見なくてもと思われるかもしれません。そこには理由があります。ダビデの話は物語調で聖書に記されています。小説のようですね。この物語とか、ナラティブと呼ばれる表現方法は起承転結があるのです。起承転結があって、それ全体でひとつの物語となっています。ひとつひとつの出来事をバラバラにして読むのではなく、起承転結全体を読んでもらえるように書いてあるのです。そうすると、ダビデの物語は山型になっていることが分かります。低いところから始まり、段々と栄えていって、最後は下っていくという全体像です。これはヨセフの物語と逆です。ヨセフの物語はすり鉢状になっています。どんどん下っていき、どん底を経験して、最後は上がっていくという全体像です。皆さんが子どもたちに物語を読んで聞かせるなら、どちらが良いお話になるでしょうか。ビジネスの世界でも、成功した人たちの体験談がもてはやされることがあります。しかし子どもたちに教えるべき大切なことは、その人たちがどのような結末を迎えたかということです。
 人々は主を退けて王を求めました。実はその兆候はサウル王以前から起こっていました。
ひとつがギデオンとアビメレクです(士師記6-9章)。ギデオンは口先では王にならないと言っていましたが、大勢の妻を持ち、70人の息子がいました。これは当時の周辺国の王が多くの妻を持って、子供を沢山生んでいた様子と同じです。ギデオン以前にはこのようなことはありませんでした。彼の側妻から生まれた息子であるアビメレクは、名前を直訳すると「私の父は王」という意味です。戦いの成功を基に王となったギデオンは、その後、自分の家族と民全体に悪影響を及ぼしてしまいました。
 アビメレクはギデオンが亡くなった後、70人の息子たちを次々と殺し、王となりました。民の中にはアビメレクを快く思わない人たちがいて、アビメレクを罵りました。するとアビメレクを軍隊とともにその者たちの町を襲い、人びとを殺して、町を破壊してしまったのです。また神殿の地下室に逃げ隠れた人たちを火で焼いて皆殺しにしてしまいました。しかし、そのアビメレクも最後は一人の女性が投げた石によって死んでしまいました。
 ダビデの物語も頂上に着いてから、下に落ちていきました。彼の場合も家族と民全体が不幸になっていきます。ダビデは神殿を建てようとしました。主に止められて建設を諦めましたが、ソロモンが神殿建設に取り組みました。神殿建設は多額の献金と労働が必要であり、民はソロモンの苦役によって苦しむことになりました。ダビデはヒッタイト人ウリヤの妻バテシェバを召し入れ、ウリヤを殺しました。この時生まれてきた子はすぐに死んでしまいました。そしてバテシェバからソロモンが生まれました。その次に起こったのはアムノンとタマル事件です。ダビデの息子アムノンが異母姉妹であるタマルを性的に暴行したのです。タマルの実の兄はアブサロムです。数年後、アブサロムは機会を得てアムノンを殺します。アブサロムは母の故郷に逃げていきました。数年後、アブサロムはエルサレムに戻ることを許されましたが、ダビデとの関係は壊れていました。アブサロムはその6年後にクーデターを起こし、ダビデと敵対します。ダビデはエルサレムを追われ、アブサロムが優勢になりますが、やがてアブサロムは戦いで死にました。次にダビデは国民の人口調査をし、また軍隊を数えました。これは主の怒りを引き起こし、ダビデの罪のために民のうち7万人が死ぬことになりました。ダビデが年老いると後継者争いが起こります。アドニアとソロモンの2つの陣営による権力闘争です。ソロモンが次の王に選ばれると、アドニアについた人々は粛清されてしまいました。これがダビデの物語の後半です。
 今日は2022年2月27日です。奇しくも、私たちは権力者の個人的な行動が国民に悪影響を与えている様子を目の当たりにしています。私たちは21世紀に戦争を始める人などいないだろうと、どこかで思っていたのではないでしょうか。「戦争になるぞ」とは強気な交渉の文句であって、実際に開戦することはないだろうと思っていたのではないでしょうか。ところがあっけなく戦争が始まってしまいました。とても恐ろしく、とても悲しいことです。権力者の前に閣僚が呼び出されて、彼の意見を支持するかどうか一人ずつ問われる姿を見ました。ある閣僚は震えながら、言葉を濁しながら、最後には「支持します」と言わざるを得ませんでした。戦争が始まった今、国民から反戦デモが起こっています。「私たちは戦争しろと願ったことはない」と。しかし、彼らも次々に逮捕されています。日本人はこの後どのようなことが彼らに起こるか予想することができるでしょう。自分たちが願っていたわけではない戦争ですが、彼らは今後数十年に渡って、あるいはもっと長い間、謝罪と賠償を求められることになります。憎しみがあの権力者だけに向けられるということはなく、国民全体が深く恨まれることになります。
 ダビデの物語とヨセフの物語はどちらが良い話でしょうか。ヤコブの子ヨセフは奴隷に売り飛ばされ、騙され、忘れられ、どん底を歩みました。しかし、主は彼を覚えておられ、彼を高く上げなさったのです。物語の最後で、ヨセフは自分を売り飛ばした兄弟たちを前にこう言いました。《あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。(創50:20)》
 主イエス様はどうでしょうか。イエス様は仕えられるためではなく、仕えるために来てくださいました。弟子たちの期待とは裏腹に、決して権力者になろうとはなさいませんでした。ピリピ人への手紙にはこう書かれています。《キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。(ピリ2:6-9)》主イエス様は、父なる神によって高く上げられる歩みをなさいました。
 さて、聖書は鏡のように私たちの姿を映しています。今日、朗読した箇所で、預言者ナタンは、ダビデ王にたとえ話をしました。貧しい人の羊が富んでいる人に奪い取られてしまったという話です。その話を聞いて、ダビデは激しく怒りを燃やし、「そんなことをした男は死に値する!」と言いました。すると、返ってきた言葉はこうです。《あなたがその男です。》「あなたがその人です」_ みなさん。これが聖書が鏡を見せてあなたに語っていることです。「あなたがその人です」
 しかし、ここに良い知らせがあります。福音があります。私たちが値する死は、私たちの身代わりとして御子イエス様に下されたということです。罪のきよめの完全な生贄がイエス様の十字架でささげられたのです。イエス様の十字架が私の罪のためだったと信じ、洗礼によってイエス様の出エジプト(贖い)を経験するなら救われます。では、洗礼を受けた後で、王になってしまった自分を見つけたらどうしたら良いのでしょうか。同じことです。イエス様の十字架を見上げ、恵みを知ることです。多くの人は同じ十字架を見て、恵みを2度見つけます。洗礼を受けた人には聖霊が与えられています。イエス様のようになろうと修行するのではなく、聖霊が私たちをキリストのかたちに変えてくださる恵みに委ねることです。そしてできるだけ早く、このことに気が付かなければなりません。王の行動は周りの人々に悪影響を及ぼしているからです。ダビデはこの時、死にませんでしたが、家族と国民は損害を受けたのです。あなただけの問題ではありません。
 イエス様はひとつのたとえ話を教えてくださいました。《「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」(ルカ18:10-14)》
 神によって高くされる人は幸いです。
 
お祈りいたします。《「【主】は生きておられる。そんなことをした男は死に値する。その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。」》
 
 天の父なる神様。自分を高くする者を低くし、自分を低くする者を恵みによって高くしてくださる主よ。あなたの深い愛のゆえに心から感謝いたします。
 あなたによって贖われ、約束の地を与えられた主の民ですが、ひとつであるはずの民は分裂し、あなたを退けて王を立て、王の振る舞いによって損害を受けてしまいました。私たちは同じ状況を今日の教会に見ています。主よ、どうかあわれんでください。私たちもまた、破れ口に立ち、傷を回復させようとするのではなく、むしろ自らが王となりあれこれと批判して、キリストのからだを壊しています。したくないと思う悪を行っているのです。聖書によって、私たちの姿を映し、「あなたがその人だ」と教えてくださっています。それは痛いことですが、私たちに必要なことです。
 主よ。あなたの十字架をおぼえます。罪人の私たちをあわれんでください。ただあなただけが私たちの王です。あなたの恵みによって、あなたの時に、私たちを高く上げてください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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