2022.3.13主日礼拝「深淵からの祈り」詩篇130篇

教会の玄関の花々

急に気温が上がり、花々が一気に咲き始めました。それを見ている私たちも元気が出て、理由なく希望が湧いてくるようです。ウクライナの戦時下にある人々にも希望が与えられますように祈ります。
今日は冒頭に、牧師から、聖書の学びを進めていくときに「黄色信号の時」があるというお話。
「止まれ」と分かっていても、黄色信号を注意して進むこともある私たちかもしれません。思わず耳を傾けました。今日のメッセージでは詩篇130篇より影響を受けたチャールズ・ウェスレーの讃美歌を味わいます。(Re)


[礼拝説教]  中尾敬一牧師

聖書箇所:詩篇130篇(1074ページ)
説教題「深淵からの祈り」
 
 おはようございます。今日も御言葉に心を留める時をみなさまともてますこと感謝です。
《神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。(ヘブル4:12-13)》とヘブル人への手紙は言っています。
 毎週の説教を重ねながら、みなさんを神とその恵みのみことばにゆだねたいと願っています(使徒20:32)。それを信仰もって受け取ってくださっていること感謝いたします。説教では細部までお話ししきる事ができません。時間が足りませんし、人の集中力を考えても長々と話すのは適切ではないでしょう。「さばきつかさのエフタが」と話す時は、すでにみなさんがエフタの出来事をある程度知っている、あるいは後でその箇所を読んでいただけると思って話しています。これからの時代、牧師が少なくなっていきます。ますます神のみことばにゆだねることを意識しています。
 ただし、個人での学びの勧めですが、一定の段階があります。ある所で黄色信号があり、その段階に来たなら気をつけていただきたいことがあります。その段階とは、「学んだことを教えたくなった時」「牧会ケアをしたいと思った時」です。インプットからアウトプットに変わる段階です。みながそうなる訳ではありませんが、賜物によってこの段階に来る時があります。良いことですが、その時は黄色信号です。そのまま進んではいけません。学び方を変えなければなりません。
 世に出回るデマや陰謀論、(またこれは異端問題にも根底でつながることですが、)共通する点は「独学」なのです。自分で調べて自分で学んで、“他の人が気づいていない真理を悟ってしまった”という特徴があります。もちろんそれは真理でもなんでもない誤りです。独学は自分の興味のあることばかり調べて偏った考えを強くしてしまうのです。ですから独学ではなくカリキュラムで学ばなければなりません。先人たちが組み立てた基礎を学ぶための学習計画、つまり学校で学ぶということです。
 インマヌエル教団には信徒伝道者養成講座があります。時々誤解が起こりますが、リーダーを養成しているのではありません。語る賜物、牧会ケアの賜物を与えられている方に、それを用いていただきたいということ、ただしその前にカリキュラムで学んで下さいということです。その人が教会を引っ張る権限を与えられるのではありません。牧師は兼牧であっても残ります。万が一ここに住まなくても牧師は任命され、また役員も選ばれます。リーダーでも、まとめ役でもありません。ですから、信徒伝道者は何人いても良いのです。賜物を用いてくださる方がたくさんいれば、それだけ教会の祝福になります。
 今日の聖書箇所をお開きください。詩篇130篇(1074ページ)【聖書朗読】
 
 先週の祈祷会から、レント、受難週、そしてイースターへとつながる説教を始めております。今年はチャールズ・ウェスレーの讃美歌を取り上げて行きたいと思います。チャールズ・ウェスレーはジョン・ウェスレーの弟であり、英国教会(聖公会)の司祭でした。ジョン・ウェスレーと共にメソジスト運動を指導し、特に多くの讃美歌を作詞した人です。
 今日の讃美歌は別紙に印刷して週報に入れてあります。先程賛美しました「千歳の岩よ」と同じメロディで歌える讃美歌となっていて、日本語訳は私が訳したものです。(誤訳があるかもしれません。)
 詩篇130篇からインスピレーションを受けたこの詞は、「深い底から私は叫びます 主よ 私の祈りの言葉を聞いてください」と始まります。さて、深い淵(深い底)とは何のことでしょうか。今日は深い淵のお話です。それが分かれば、後は味わうだけです。優れた芸術作品を説明するというのは野暮なことです。芸術は感じること、またこの詩を自分のことばとして、また群れの信仰として紡いでいくことです。
 レントはイエス様の荒野の40日間を思い出す時期です。イエス様は荒野で聖書を思い巡らし、神の御心(ご計画)に心を留めておられたことでしょう。みなさまもそれぞれの祈りの時に、聖書を思い巡らしてみてくださったでしょうか。ひと時、あれこれお願いする言葉を停めて、聖書が書き残している歴史について思い巡らし、自分の歩みと重ね合わせてみられたでしょうか。
 旧約聖書を初めの時代から思い出してみてください。天地創造があり、エデンの園がありました。アダムの息子たちカインとアベルからノアの方舟があり、バベルの塔がありました。それからアブラハムが選ばれ、アブラハム・イサク・ヤコブの時代の後に、一族はエジプトに移住しました。エジプトで奴隷になってしまった民は主に贖われました。ファラオから解放され、愛の律法が与えられ、自分たちの土地が与えられ、主を礼拝できるようになりました。ところが、主の民は約束の地で平和になった時、主を脇に追いやってしまいました。言葉と行動に矛盾がある時代でした。ダビデの言葉は詩篇の中にいくつも編入されるほど素晴らしいものでしたが、彼の生き方は特に人生の後半には矛盾だらけでした。(ダビデの言葉の通りに生きたお方はダビデ自身ではなくイエス様です。)ここまで私たちは一緒に読んできました。イエス様の時代にはまだ1000年ほど届きません。
 この後、預言者たちの時代から捕囚時代、捕囚から帰還した後の時代となります。その時代を少し覗いてみましょう。エレミヤ書7:3-15(1299ページ)《イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。あなたがたは、「これは【主】の宮、【主】の宮、【主】の宮だ」という偽りのことばに信頼してはならない。もし、本当に、あなたがたが生き方と行いを改め、あなたがたの間で公正を行い、寄留者、孤児、やもめを虐げず、咎なき者の血をこの場所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、わたしはこの場所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住まわせる。見よ、あなたがたは、役に立たない偽りのことばを頼りにしている。あなたがたは盗み、人を殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに犠牲を供え、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。そして、わたしの名がつけられているこの宮の、わたしの前にやって来て立ち、「私たちは救われている」と言うが、それは、これらすべての忌み嫌うべきことをするためか。わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた──【主】のことば──。だが、シロにあったわたしの住まい、先にわたしの名を住まわせた場所へ行って、わたしの民イスラエルの悪のゆえに、そこでわたしがしたことを見てみよ。今、あなたがたは、これらのことをみな行い──【主】のことば──わたしがあなたがたに、絶えずしきりに語りかけたのに、あなたがたは聞こうともせず、わたしが呼んだのに、答えもしなかったので、わたしの名がつけられているこの家、あなたがたが頼みとするこの家、また、わたしが、あなたがたと、あなたがたの先祖に与えたこの場所に対して、わたしはシロにしたのと同様のことを行う。わたしは、かつて、あなたがたのすべての兄弟、エフライムのすべての子孫を追い払ったように、あなたがたをわたしの前から追い払う。』》エレミヤは民に主のことばを伝言しましたが、民はそれを真剣に受け入れませんでした。そして国は滅びてしまいます。
 国が滅びた後、民は捕囚として連れて行かれますが、70年後にエルサレムに帰ることができました。最も宗教熱心な人たちがエルサレムに帰ってきました。それがイエス様の時代のユダヤ人たちです。彼らは自らを神に立ち返って聖なる生き方をしていると考えていました。ところが、イエス様が来られた時、多くのしるしがあったにも関わらず、イエス様をキリストとして信じませんでした。過ぎ越しの祭のとき、敬虔なユダヤ人たちはエルサレムに集まっていました。いい加減な人たちは祭りのために神殿に集まったりしません。私こそ誰よりも献身していると思っていたユダヤ人たちは、あの過ぎ越しの祭のときピラトの前で、ピラト自身が「あの人がどんな悪いことをしたのか」と言っているにも関わらず、「イエスを十字架につけろ!」と叫んだのです。
 自分で何をしているか分からないユダヤ人が落ち込んでいた深い淵。これは私たちが陥っている深い淵です。イエス様はエデンの園の後すぐに地上に来られませんでした。待つ必要があったからです。人が深い淵に陥っていることを、ひとつひとつ白日の下に晒す必要があったからです。聖書は誰かがこたつで書いたものではありません。実際の歴史を生きてきた人たちが書いてきたものです。「なんだって、アビメレクが地下室に逃げている人たちを焼き殺した?ひどいことするなぁ。」でも、私は先週のニュースで「地下室に隠れている人がいるのに手榴弾を投げ込んだ」と聞きましたよ。
 神様が天地を創造し、恵みを与えてくださった。神様は私を苦難から救い出してくださった。いい話ですね。ほとんどの人は喜んで話を聞くでしょう。しかし、悔い改めなさいと言われたら、ピンとこないのです。罪の呪いに苦しんでいることは分かるけれども、呪いの源になっていることに気が付かないのです。聖書はかなりのページを割いて、人が深い淵にいることを明らかにしています。丁寧に、丁寧に、時間をかけて、あなたが自分でそれを見出すまで。_ イエスなど知らないと言ったペテロは何に気が付いたのでしょうか。釘の跡に指を突っ込むまで信じないと言ったトマスは何に気が付いたのでしょうか。誰よりも主に献身していると思ってステパノを殺したパウロは何に気が付いたのでしょうか。詩篇130:3《【主】よ あなたがもし 不義に目を留められるなら 主よ だれが御前に立てるでしょう。》不義とは約束を守らないということ。神の恵みを受けた者として相応しい生き方をすると誓ったのに、それを守らなかったということです。私たちは深い淵に落ち込んでいるのです。
 チャールズ・ウェスレーの讃美歌を見てみましょう。「①深い底から私は叫びます 主よ 私の祈りの言葉を聞いてください 永遠の死が迫っています イエス様 主よ 私はあなたに叫びます 地上のか弱い子を助けてください あなたの力のすべてを私の内に示してください ②あなただけが私の呼びかけを聞くことができます 祝福をうけた救い主 すべての人の友よ あなたは私の絶望的な状況をよくご存知です 私の罪の呪いを取り除いてください あなたの豊かな恵みで私を救ってください 赦しの愛で私を救ってください ③どうしたらあなたの恵みを見つけられるでしょうか 救い主 祝福された方 人となられたお方 私の祈りを受け入れていただけないのでしょうか? 私が求める恵みは与えられないのでしょうか? 言い伝えられてきたあなたの恵みはどこにあるのですか イエス様の御名の力は? ④あなたの愛の恵みを動かす言葉を 見つけられるでしょうか その言葉はすでに発せられていないでしょうか あなたの死に私は関わっていないのですか? あなたのあわれみを求めます 主よ あなたの心の願われることを求めます ⑤私はあなたを決して放しません あなたの恵みをすべて知るまで 歓迎の音を聞かせてください お話ください もしあなたが赦してくださるのでしたら お語りください 迷子を見いだされるようにして下さい 語りかけ 死にゆく者を生かしてください ⑥あなたの尊い愛こそ私の求めです 主よ あなたの十字架は私に語りかけます あなたの痛みと血の汗によって あなたの知られざる悲しみの深さによって み足の元であえぐ私を救ってください 救ってください ああ あなたの贖われた者を ⑦私のためにしてくださったことを考えてください ああ 主よ カルバリの上で あなたの死に際のうめき声と息 あなたの尊い死によって 私は祈ります 私の死にゆく魂の叫びを聞いてください 取り去ってください ああ 私の罪を取り除いて下さい」
 讃美歌はここで終わっています。祈りの歌です。主から祈りの答えはあるのでしょうか。詩篇130:7-8《イスラエルよ 【主】を待て。【主】には恵みがあり 豊かな贖いがある。主は すべての不義から イスラエルを贖い出される。》この話はイースターまで続きます。
 
お祈りいたします。《【主】よ深い淵から私はあなたを呼び求めます。主よ私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。》
 
 天の父なる神様。すべての良いことを約束し、そのことばの通り成就してくださった主よ。あなたの深い愛とあわれみに心を留めています。あなたの忍耐は長く、あなたの愛は私に届くほど深いものです。深い淵にいる私たちの叫びに耳を傾けて下さい。
 私たちをイエス様のおられる荒野に連れて行ってください。主の民は荒野で失敗しました。マナに飽きたと言い、肉を食べられたエジプトに帰りたいと言いました。地中を流れる川の真上で、飲水がなくて死んでしまうと言いました。モーセが帰ってこないからと、ヤハウェの像を金で作りました。カナン人が強そうなのを見て、先に進むことをやめました。モーセを退けて、新しいリーダーを立てエジプトに帰ろうとしました。モーセさえも失敗し、傲慢な心でメリバの岩を打ちました。人は何と深い淵に落ち込んでいることでしょう。しかし、主イエス様。あなたは人の失敗を成功に変えてくださいました。呪いを祝福に変えることのできるお方はあなたの他にいません。
 今年もカルバリの丘に向かって、霊的な巡礼を始めたこの群れを顧みてください。巡礼の旅路を守り、私たちを深みから引き上げ、ついにあなたの復活にあずからせてください。

 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。 

         (写真はふーみんさんより)


0 件のコメント:

コメントを投稿

Pages