2022.3.6主日礼拝 歴代誌第I 29章10~19節「主を探り出す」


イースターの前主の十字架を黙想する節季に入りました。
今回、説教は旧約聖書のダビデ王の最後のところでした。信仰深いダビデでさえ、神様の御心からどんどん離れて王として自分の思いを成し遂げようとする最後の姿を見ました。今まで礼拝説教によってユダヤ民族の歴史に見てきましたが、神への反抗と不服従の数々の場面が思い出されます。今のウクライナの戦争などにも繋がるような系譜。
神様の忍耐、神様の心のお苦しみを垣間見るように見せていただいた時でした。
礼拝説教は、来週からイースターまで、新約聖書よりイエス様のストーリーになります。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

聖書箇所:I歴代誌29:10-19(753ページ)
説教題「主を探り出す」
 
 おはようございます。3月に入りました。教会の暦ではレントと呼ばれる期間に入っております。イースターの前にイエス様の受難と死を覚える期間です。
 ところで、この教会の暦(カレンダー)は2種類のものがあるということ、ご存知でしょうか。2種類あると知らないと混乱してしまうことがありますので、ぜひ知っておいていただきたいと思います。ひとつは中世の教会が作った教会暦です。レントもその一つです。クリスマス、棕櫚の聖日、受難節、イースター、昇天日、ペンテコステなどがあります。もう一つは、主が律法で定めて教えてくださった例祭です。ユダヤ人のカレンダーという時もあります。安息日、過ぎ越しの祭、種なしパンの祭り、初穂の祭り、五旬節、角笛の祭り、宥めの日、仮庵の祭りがあります。レビ記23章に記されています。
 主が定められた祭りは、主の贖いの計画(出エジプト)を忘れずに代々伝えていくために定められたものです。一方で、教会暦はイエス様の一生を表すために定められたものです。すると、イエス様は主の贖いの最重要ポイントでありますので、この2つのカレンダーは重なっているわけです。イエス様の十字架と復活は過ぎ越しの祭の時でした。ペンテコステは五旬節の日でした。この2種類のカレンダーが重なっていますので、よく整理して理解していないと混乱してしまうことになります。
 主がカレンダーを定めなさったそもそもの理由は、主のご計画を民が忘れないようにするため、また周りの人たちが主の救いを知るようになるためでした。そのことを忘れてはいけません。教会のカレンダーは自分の霊性を高めるためにあるのではなく、主の恵みを私たちが思い出すため、またそれを人々に知らせるためにあるのです。まさに《主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということ》です。
 さて、今日の聖書箇所をお開きください。I歴代誌29:10-19(753ページ)【聖書朗読】
 
 ヨシュア以後からソロモン王までの時代を見てきました。今日は主の働きに焦点を合わせたいと思います。そう思いますが、予め申し上げておきますと、今日はスッキリしない話になるかもしれません。この時代の特徴は「主が脇に追いやられている」のです。私たちは主の姿を見たいので聖書を読んでいますが、主の姿を見ようと思っていると、そこに人間たちが立ちはだかっているのです。「ちょっと、そこどいてよ。見えないから。ちょっと、邪魔~!」という状態がここにあります。主の姿がヒョッと見えて、人の後ろに見えなくなり、ある時は影が見えて、またヒョッと現れて見えなくなる、という感じです。ですから非常にじれったい。しかし、みなさん。よく考えてみると、この状況は現代の世界と似ていると思いませんか。神を脇に追いやるどころか、そんなものは存在しないと言い、人間の人間による人間の世界が広がっています。確かに人が空想によって作り出した宗教(哲学)がいくつもあることは事実ですが、それは主が存在しないことの証明にはなりません。色々なことが邪魔になって、主の働きの繋がりがほとんど見えないのですが、あのカナン時代は私たちにとって注目に値するメッセージを残しています。
 そういうわけで、私たちが知ることができる主の働きは断片的です。また滑らかな繋がりを見つけることが難しいということ、ご了解ください。スッキリしないですが、私たちから見える情景はそういうものです。
 1.主が関わっている様子が全く見えない。さばきつかさのひとりエフタは敵と戦う前に主に誓願を立て、戦いから《無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を【主】のものといたします。私はその人を全焼のささげ物として献げます。(士師記11:31)》と言いました。主の返答が記録されていません。戦いに勝ち、無事に帰って来たとき、出てきたのはエフタの娘でした。父と娘のやり取りがありますが、主がどうしておられるのか全くわかりません。主がこれに関わっておられるのかいないのか、何もわかりません。一番じれったい事例です。
 2.人が知らないところで主の意志があって事が起こる。祭司エリが息子たちを諌めた時のことです。エリの息子たちは主の天幕で女性たちと性的な罪を犯していました。《息子たちよ、そういうことをしてはいけない。》とエリは言いますが、息子たちは父の言うことを聞こうとしませんでした。そこにはナレーションが入っていて、《彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが【主】のみこころだったからである。(Iサムエル2:25)》と書いてあります。エリの息子たちがファラオと同じ道を辿ったということです。頑なになり続ける人はやがて頑なであることをやめられなくなってしまいます。エリも息子たちも、誰も主の声を聞こうとしませんし、気にしてもいないようです。しかし、主のみ心が背後にあることを知ることができます。主の影が見えるのです。
 3.人の行動に主が働いて成功させてくださる。人の計画が主によって成功する。オテニエルは、あまり有名ではありませんが、さばきつかさのひとりです。士師記3:10にはこうあります。《【主】の霊が彼の上に臨み、彼はイスラエルをさばいた。彼が戦いに出て行くと、【主】はアラムの王クシャン・リシュアタイムを彼の手に渡されたので、彼の手はクシャン・リシュアタイムを抑えた。》「彼が戦いに出て行くと」から始まっています。彼が計画し、戦ったのですが、主の手助けがありました。またダビデの神殿建設もこれに当たります。神殿建設は主から出た計画ではありませんでしたが、主はそれを成功させてくださいました。
 4.人の行動を主が力づけるあるいは主が押し留める。人が行動した時に思っていた以上のことが起こる。さばきつかさのデボラがバラクと共に、シセラと戦った時、《【主】は、シセラとそのすべての戦車とすべての陣営の者を、剣の刃をもってバラクの前で混乱させられた。シセラは戦車から飛び降り、自らの足で逃げた。(士師記4:15)》とあります。その後、シセラはヤエルの天幕に逃げ、そこで彼女の手によって倒されました。
 5.主が働いて、起こるべきことが起こる。ギデオンの息子アビメレクは、後継者としての地位を確立するために、ギデオンの70人の息子たちを殺しました。アビメレクは最後にひとりの女性が投げた石によって死んでしまいます。彼の物語はこう締めくくられています。《こうして神は、アビメレクが兄弟七十人を殺して自分の父に行った、その悪の報いを彼に返された。(士師記9:56)》
 6.主が主導して事が起こる。士師記2章を思い出してみてください。この時代に入って最初に開いた箇所です。イスラエルが主を捨てて、他の神々に仕え、主の怒りを引き起こした時、《主は彼らを略奪する者の手に渡して略奪されるままにし、周りの敵の手に彼らを売り渡された。》エリの時代に主はイスラエルをペリシテ人の手に渡され、神の箱は奪われ、エリの息子たちも戦場で死にました。主がペリシテを動かし、イスラエルを彼らの手に渡されました。
 7.主の霊が下り、人が動かされる。サムエルはイスラエルを敵から救うことに全く興味がありませんでした。しかし、《【主】の霊は、… 彼を揺り動かし始めた。(士師記13:25)》と書いてあります。
 8.人の行動なしに、主が働かれる。《【主】はルツを身ごもらせ》、ハンナの祈りに答えて、彼女にサムエルと5人の子供を与えられました。神の箱がペリシテ人に奪われた時には、ダゴンの像を倒し、人びとを腫物で打たれました。(Iサムエル5章)
 以上、8通りの事例を出しました。カナン時代のイスラエルに主の姿を見ようとすると、断片的に主の働きを見ることができます。私たちは主の働きを中心に見たいと思って聖書を読みますが、カメラは人の行動を映していて、その合間から覗き込むしかないという状態です。とてもじれったいですね。でも、現代も似たようなものだと思いませんか。哲学者ニーチェが神は死んだと言ってから約140年です。神がどうのこうのだって?寝ぼけた人が見間違えたのさ、と言う現代人ですが、聖書を見れば「新時代の価値観」ではありません。はるか昔、古代にも人間中心の世界があったと聖書は教えています。
 今日開いた箇所はダビデの言葉です。彼は主の働きが人々の後ろに隠れてしまう時代にあって、主を認める人でした。《あなたは、すべてのものの上に、かしらとしてあがめられるべき方です》と賛美しています。この箇所から作られた讃美歌が現代にもありますね。「威光・尊厳・栄誉」という讃美歌です。ダビデのように主を認める人は幸いです。しかし、このダビデの言葉にはオチがついています。彼自信の人生のようです。山型になっていて、素晴らしいね、素晴らしい、あれ、なんでやねんと、上がってオチてしまうのです。その言葉の締めくくりは、《わが子ソロモンに全き心を与え、あなたの命令とさとしと掟を守らせて、すべてを行わせ、私が準備してきた宮を建てさせてください。》となっています。「私が準備してきた宮」... その宮は要らないと言われたのではなかったでしょうか。今日の箇所の前後を見渡すと、「ダビデ王が大いに喜んだ(29:9)」「全会衆は主と王の前にひれ伏した(29:20)」とあり、主が何と語られたか、主のことばはおろか、ナレーションすらありません。25節に、王の威厳をソロモンに与えられたと書いてあるだけです。この時代をよく表している箇所です。現代でもあるのではないでしょうか。私はある時、有名な牧師が牧会している教会の方と話をしたことがあります。その方に私はこう言いました。「この教会はいいですね。あの先生の説教を毎週聞けるなんて、毎週が聖会ですね。」ところがその方は「ん?… まあ、う~ん」という感じでした。あれはどういう意味だったのでしょうか。
 そうして、ソロモンの後に次の時代がやってきます。預言者の時代です。脇に追いやられていた主が預言者を通して、主のことばを語られる時代がやってきます。今までのことが何だったのか、主は何を考えておられたのか、明かされるのです。
 さばきつかさと王が治めていたころ、民は災いが去ると主を捨ててしまったといいます。自分たちがカメラの真ん中に映るようにし、主を脇に追いやってしまいました。それでも何も起こらなかったのは、主が民を期待し、忍耐し、またある意味で格闘しておられたからです。箴言1:24-33にはこのような主のことばがあります。《わたしが呼んだのに、おまえたちは拒んだ。手を差し伸べたのに、耳を傾ける者はなかった。おまえたちはわたしの忠告をすべてなおざりにし、わたしの叱責を一つも受け入れなかった。わたしも、おまえたちが災難にあうときに笑い、恐怖がおまえたちを襲うとき、あざ笑う。恐怖が嵐のようにおまえたちを襲うとき、災難がつむじ風のようにおまえたちに来るとき、苦難と苦悩がおまえたちを襲うとき、そのとき、わたしを呼んでも、わたしは答えない。わたしを捜し求めても、見出すことはできない。それは、彼らが知識を憎み、【主】を恐れることを選ばず、わたしの忠告を受け入れようとせず、わたしの叱責をことごとく侮ったからだ。それで、彼らは自分の行いの実を食らい、自分が企んだことで腹を満たす。浅はかな者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす。しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである。》大切なことは、災いのない日に私たちがどうするかということです。
 しかし、それにも関わらず、主は災いの日に私たちの叫びを聞いて救ってくださいます。それが聖書が伝えていることです。これを主のあわれみといいます。ただし、決して忘れてはいけないのは、主があわれんでくださる時、主の心には痛みがあるということです。不誠実な人とお付き合いされたり、結婚されたことのある方はおられるでしょうか。その痛みです。レントの間は主イエス様の苦難と死を覚えましょうといいます。その苦難はなにゆえですか。イエス様の苦難は私たちの不誠実さのゆえです。
 あの時代のように、主が脇に追いやられて人々の後ろに隠されてしまっています。神などいないと人々は信じています。しかし、箴言の著者はこういうのです。《もしあなたが悟りに呼びかけ、英知に向かって声をあげ、銀のように、これを探し、隠された宝のように探り出すなら、そのとき、あなたは【主】を恐れることをわきまえ知り、神を知ることを見出すようになる。》
 
お祈りいたします。《【主】よ、偉大さ、力、輝き、栄光、威厳は、あなたのものです。天にあるものも地にあるものもすべて。【主】よ、王国もあなたのものです。あなたは、すべてのものの上に、かしらとしてあがめられるべき方です。》
 
 天の父なる神様。私たちの主よ。あなたの御名を高く掲げます。
 今日も聖書によって鏡のように私たちの姿を映してくださりありがとうございます。これらの時代は私たちの生きる時代とよく似ています。人が中心となり、すべてのもののかしらで在られるあなたを脇に追いやってしまう世代です。主よ、あわれんでください。想像を超える忍耐と誠実な愛のゆえに、心から感謝し、み名をあがめます。どうか私たちがあなたの心の痛みに気付けるようにようにしてください。あなたがどんなに心を痛めておられるか、私たちは分かっていないのです。不誠実な者を赦してください。
 イエス様。私たちの罪を背負って、十字架にかかってくださったことをありがとうございます。すべての罪を赦して、あなたの食卓に招いてくださっていることを感謝いたします。あなたはすべての人をこの礼拝の場に招いてくださっています。招かれた人たちがその招待状に気が付きますように。そして、ここに次々と加えられていきますように。人々の讃美がみ前にのぼりますように。

 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

           今年は数日遅れましたが、近くの梅林は満開





 

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