2022.3.20 教会創立59周年記念礼拝「罪人の友」マルコ福音書 2章13~17節

 


今朝は王寺教会にとって、59年目の創立記念の礼拝です。いつものお祈りの時間に、今回は教会の歴史を振り返るために今までの沢山の写真をプロジェクターで見せてもらいました。天に召された懐かしい方々の顔も見えます。また、「ああ、自分はあの時あんなに若かった…」なんてため息や笑いも。そして、神様はずーっと昔から私たちを守っていてくださったんだという感慨が胸に迫ります。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。59回目の教会創立記念日を兄弟姉妹と共に迎えられたことを感謝いたします。スライドを共に見させていただきました。私たちは毎週集まっていますので、代わり映えしないように思うこともあるかもしれませんが、このように1年を3秒に縮めて見ますと、歴史が紡がれていったのだと分かりますね。
 イエス様の教会の動きには、急激な変化と緩やかな変化があると思います。この穏やかな変化はほとんど感じることができないほど小さな変化です。しかし、私はこの穏やかな変化に心を留めていることがとても大切だと考えています。
 我が家の子どもたちは数年前まで赤子でした。歩くことも寝返りをうつこともできませんでした。でも、今では走り回っています。不思議なことです。そのように主によって成長させていただいている子どもたちですが、まだ危なっかしいところもあります。歩く時に下を向いて歩くのです。一歩一歩、足を踏み出すところを注意してみているのかもしれません。一生懸命なのは良いのですが、数メートル先の横断歩道を見ていなくて危ないことがありました。
 教会は集まることと散らばることを心臓の鼓動のように繰り返しています。このリズムを保っていただきたいと願っています。リズムは同じように繰り返すのでリズムと言います。同じように繰り返さないのは不整脈と言います。箴言21:5《勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべて慌てる者は損失を招くだけだ》と書いてあります。イエス様は目を覚ましていなさいとおっしゃいました。十字架を前にして、聖書で語られてきた十字架の日が来たのに、眠っているのですかと弟子たちに言われました。目を覚ましていなさいとは、知恵に目を留めていなさいということです。箴言はそのように言っていますね。知恵とは、自分で見えない場所に何があるかを教えてくれる声のことです。この方向に歩いたらあの場所につくよと教えてくれる人の言葉です。私たちにとってそれは神のことばである聖書の知恵です。
 右足を出して、次は左足、えっと、次はもう一回左足を出してみようかな、いや待てよ。。。そのように神経質にならないようにしてください。さっき右足を出したのか、何センチ何ミリ進んだか、分からなくても大丈夫です。からだで染み込んだリズムで動いていれば大丈夫です。むしろ神経質になると不用意に他人を傷つけることがあります。気をつけてください。集まることと散らばること(礼拝と働き、祈りと愛、山と群衆)の鼓動を保ちながら、足元ではなく、先を見て、壮大な神の働きに目を覚ましていられるようにしましょう。聖書は神の知恵です。その緩やかな変化はほとんど感じることができないかもしれません。しかし何年分も振り返って見るなら、見えてくるはずです。千里の道も一歩からです。
 今日の聖書箇所をお開きください。マルコの福音書2:13-17(68ページ)【聖書朗読】
 
 チャールズ・ウェスレーの讃美歌を読みながらレントを過ごしています。今日は罪人を招くために来てくださったイエス様を見たいと思います。
 先週は深い淵の話をしました。私たちは気づかない内に深い淵にはまっています。罪の呪いを受けて苦しんでいるだけではなく、自分自身も呪いの源となってしまっています。しかし、イエス様は罪人の友となるために来てくださいました。イエス様を信じるなら、主はあなたの友となってくださいます。さて、そのようにどなたかに話したとしましょう。すると「それは素晴らしいですね。でも私の罪は赦していただけるようなものではありませんし、イエス様に友となっていただくのは申し訳ないです」と返ってきたことが私には何度もあります。本当にご自分の罪を嘆いておられたのか、体の良いお断りだったのかは分かりません。今日は罪人の友についてお話いたします。
 イエス様が「わたしについて来なさい」と言われたアルパヨの子レビは取税人でした。レビの友人たちは取税人や罪人たちと15節に書いてありますし、16節ではパリサイ人の言葉の中に出てきます。この罪人とは、犯罪人とは違う言葉です。当時のユダヤ人たちが差別していた、あるグループの人たちです。
 イエス様の時代のユダヤ人はローマ帝国の支配下にありました。帝国とは一つの強い国が複数の国を支配している状態です。ユダヤ人の地域がローマ人に支配されていました。どうしてダビデの王国がこのようになってしまったのでしょう。それはバビロン捕囚があったからです。
 先週のエレミヤ書のことばを覚えていらっしゃるでしょうか。7章を読みました。主の民は口先では主を礼拝するようなことを言っていましたが、その行いと行き方はとても矛盾していました。人々は主を脇に追いやっていましたので、主がどのように思っておられるのか見えない状況が、士師記やサムエル記では続いていました。しかし、やがて主は預言者を遣わして、ご自身のことばを告げ、イスラエル人の国を滅ぼそうとしておられることを明かされました。民は主のことばに耳を貸そうとせず、北イスラエル王国はアッシリア帝国に、南ユダ王国はバビロン帝国に滅ぼされ、民はバビロンに引いていかれました。しかし、それにも関わらず主はユダヤ人を見捨てることはなく、バビロンの地で民と共にいてくださったのです。ここに罪人の友となってくださった主の姿があります。イザヤ書11:11-16《その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りの者を買い取られる。彼らは、アッシリア、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シンアル、ハマテ、海の島々に残っている者たちである。主は国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。エフライムのねたみは去り、ユダに敵する者は断ち切られる。エフライムはユダをねたまず、ユダもエフライムを敵としない。彼らは西の方、ペリシテ人の肩に飛びかかり、ともに東の子らからかすめ奪う。彼らはエドムとモアブにも手を伸ばし、アンモン人も彼らに従う。【主】はエジプトの海の入江を干上がらせ、また、その焼けつく風の中で御手をその川に向かって振り動かし、それを打って七つの水無し川とし、履き物のままで歩けるようにする。残されている御民の残りの者のためにアッシリアから大路が備えられる。イスラエルがエジプトの地から上って来た日に、イスラエルのために備えられたように。》かつてヤコブの子孫がエジプトで捉えられていたのは、ファラオが約束を反故にしたからでした。災難によって奴隷になっていたのです。しかし、今回ユダヤ人が捕囚にあったのは、彼らが主を捨てたからです。罪のゆえにファラオのようになってしまったので、主はエジプトに敵対されたように、今度はイスラエルに敵対されたのです。しかしそれにも関わらず、主はバビロンに捉え移された民を買い取るとおっしゃいました。預言者ミカは主のことばに感動して、このように言っています。《あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは咎を除き、ご自分のゆずりである残りの者のために、背きを見過ごしてくださる神。いつまでも怒り続けることはありません。神は、恵みを喜ばれるからです。もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ込んでください。昔、私たちの父祖たちに誓われたように、ヤコブにまことを、アブラハムに恵みをお与えください。(ミカ7:18-20)》
 主はイザヤに語らせたことばの通りに、捕囚から70年たった後、ユダヤ人をエルサレムにかえしてくださいました。南ユダ王国を滅ぼしたバビロン帝国がペルシャ帝国に滅ぼされ、ペルシャのキュロス王がユダヤ人に自分の土地に帰って良いと言ったのです。それでエルサレムに帰り、ついに神殿を再建することができたのです。しかしユダヤ人には葛藤がありました。確かにカナンに帰ってくることができたけれども、そこはペルシャの領土です。独立国家ではありません。ダビデやソロモンの王国とは全然違うのです。ユダヤ人は救われたのでしょうか。主はどうしてユダヤ人の国を元に戻してくださらなかったのでしょうか。_ それはここまで聖書を順に追ってきたみなさんならお分かりいただけるでしょう。大切なのは場所ではなく、制度ではなく、偉大な王国ではなく、民が主に帰り、主が民を贖ってくださるということだからです。抑圧から解放されていること、愛のある社会があること、経済的自由があること、主を礼拝できること、それが主の救い、主の贖いです。ところがユダヤ人の頭の中では、「あのダビデ王国が一番良かった」とすり替わってしまいました。王を求めたことも、神殿を建てたことも主の御心ではなく、ダビデの晩年とソロモンの生き方が矛盾に満ちていたことをすっかり忘れていたのです。
 その後、ペルシャ帝国はローマ帝国に征服され、イエス様の時代がやってきます。ユダヤ人たちの約束の地はローマ帝国の領地となっています。ユダヤ人の頭の中は独立国家を取り戻したいという思いで一杯になっています。サドカイ派、パリサイ派、エッセネ派、熱心党、ヘロデ党。様々な立場の人達が熱心なヤハウェ信仰により独立国家を取り戻すことを求めていました。ところが、中には独立国家に興味がない人たちもいたのです。ローマ帝国から仕事をもらって税金を集めている取税人、また遊女たち、その他の人たちです。彼らは「罪人」と呼ばれていました。
 《イエスは道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。》アルパヨの子レビは本当の贖いを求めていました。「罪人」と人々から呼ばれているゆえに、主から離れてしまって深い淵にいる自分の姿をよく知っていました。彼は主イエス様と出会った時、主イエス様に従ったのです。イエス様はレビの座っているところにやってきて、「わたしについて来なさい」とおっしゃいました。またあなたの座っているところにも来て、「わたしについて来なさい」とおっしゃっています。
 王寺教会はイエス様に従った人たちの群れです。土地を占領しようとしたり、富を沢山築き上げようとしたり、偉大な組織を作り上げようとして集まったのではありません。イエス様に「わたしについて来なさい」と言われて、イエス様の贖い求めた人たち。十字架の贖いをいただいて集められた人たちの群れです。主は罪人の友となられました。
 私たちは今、神の知恵に目を向けているでしょうか。それとも足元を見ながら歩いているのでしょうか。主の贖いを忘れてはいけません。私たちの願いを偽物と取り違えてはいけません。福音を伝えましょう。贖いを待ち望んでいる人に、イエス様が来られたことをお知らせしましょう。
 チャールズ・ウェスレーの讃美歌を読んでみましょう。 ①イエス様 私の主よ 熱心に聞いてください あなたの堕落した被造物の叫びを あなたが罪人の友であることを示してください 私を高いところに引き上げてください 地獄の抑圧的な力から この地と罪から解放し あなたの父の恵みの回復へ またあなたの完全な平和へ導いてください ②このゆえに ああ 私は嘆き悲しみます 救いようのない不信仰の中で しかし あなたは私の哀れな心を変えることができます 私の罪と悲しみを癒すことができます あなたのみ名による救いが 死にゆく魂に与えられます そして すべての人が あなたの働きによって いのちと天国への権利を求めることが許されます ③私はあなたの血と義だけを 切に求めます 私の現在の平和と永遠の平和は どちらもあなたから出ています 神聖ないのちの川は あなたから出て その泉に流れ あなたの愛を知る者は皆 天使の喜びを知ります ④ああ そして あなたの義を 私に教えてください 与えてください あなたがどれほど良いお方か どれほど真理と恵みに 満ちておられるか 私に味わわせてください あなたは今ここで赦すことがおできになります 私は証ししたい 信仰によって義とされて生きたい また その信仰の中で生涯を終えたい
 
 
お祈りいたします。《イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」》
 
 天の父なる神様。私たちを愛し、導き、守り、養い、自由を与えるために、群れの上に絶えず目をとどめておられる主よ。あなたの御名を賛美いたします。
 あなたは本当にあわれみ深いお方です。あなたから離れて、自分勝手に生きていた私たちの背きを見て、いつまでの怒り続けることがなく、あわれみによって、咎を取り除いてくださいました。あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。アブラハムに約束された祝福を決して忘れることなく誠実に果たしてくださいました。私たちの不義とあなたの義がどうして私たちの救いとなるでしょうか。それは私たちの滅びにしかならないはずです。もしあの十字架がなければ。
 罪人の友となり、私たちの咎を背負ってくださったイエス様。私たちの座っているところにやってきて招いてくださった主よ。今日も私たちはあなたを求めます。富ではなく、権力ではなく、あなたこそ私たちの贖いです。
 いつも目を覚ましておられ、エルサレムに向かって進んでゆかれた主よ。すぐに眠りに落ちてしまうあなたの弟子を顧みて、みことばによって私たちの目を覚ましてください。59年間導いてくださったように、これからもこの群れを御心に従って導いてください。御国が来ますように。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。



0 件のコメント:

コメントを投稿

Pages