2022.2.22主日礼拝「義人はいない」サムエル記① 12章7~25節

 


1月の間は真っ白だった会堂内の壁に早春の飾りが美術部によって施されました。今朝の礼拝の交読箇所であるイザヤ書55章12節以降に描写されている早春の風景、地上に春が来て命の輝きをもたらして下さる神の恵みを表現したかったと聞きました。寒さはまだ厳しいですが、今年も春を必ずもたらしてくださる神様は、私たちの生活にも祝福の約束を必ず果たしてくださるはずだと励まされます。今回はイスラエル最初の王様、サウルのお話です。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。今日もようこそお集まりくださいました。今週も主のみ前で兄弟姉妹と共に安息の時をもてますこと感謝です。一週間はあっという間に過ぎてしまうものですが、今週みなさんと集まって、また来週も集まれるかどうかは主のみ手にあるのだなと思います。今日も主の恵みを味わいながら共に感謝の時を過ごさせていただきましょう。
 また、主の恵みを味わうためには色々な事を主に委ねていなければなりません。安息日にマナを集めてはいけない。これは大切な原則ですね。主への信頼を深く学ぶ日です。主に委ねる人生は、人が考える理想とは違っています。特に能力の高い方々にとってはより難しいことです。私たちが窮地に陥るまで、主の助けが全くないように思える時があるからです。今日取り上げるサウル王は、敵が攻めてきているのに、預言者が決められた時間に来ないという状況に陥りました。イエス様の弟子たちは、プロの漁師でしたが、舟に乗っている時に大嵐にあい、死んでしまうと思いました。その時、イエス様は眠っておられたのです。主に委ねる人生はアップダウンを沢山経験することになります。大体の人は好んでアップダウンを経験したいとは思っていません。それで主を退けて王を求めるのでしょう。しかし主が見ておられる視野は私たちよりも大きいのです。私たちが窮地と思っていることは、主の目から見ればそれほど窮地ではないのかもしれません。本当の窮地は、世界が作り直される時に私たちがどうなるかということです。主の忍耐が終わり、神の怒りが下る時が来ることに関して、私たちは何もすることができません。その日のために主への信頼を学んでいるのです。主はその日が滅びの日になるのではなく、救いの日になることを願って、十字架の贖いを成し遂げてくださいました。
 今日も主の御心を追い求めましょう。聖書箇所をお開きください。Iサムエル記12:7-25(497ページ)【聖書朗読】
 
 モーセが書いたと言われる聖書の中の聖書、創出レビ民申命記(モーセ五書、律法)とその約束の実現であるヨシュア記を読み終えまして、士師記から歴代誌のあたりに入っています。さばきつかさからソロモンの時代です。この部分には様々な人間のドラマがあります。主を礼拝しながら、実際には主に頼っていない人々がどうなるか。主に頼っている時と頼っていない時がマーブル模様のようになっている人の姿。やがてマーブル模様がさらに混ざって、均一になり、「主がただ中に住んでおられる民」から、他国と同じように王様と神殿をもつ国になってしまった姿が書かれています。人類学、心理学、社会学などに興味がある方には、非常に興味深い出来事が次々に出てくる箇所です。しかしながら、せっかく安息の時と思って、神様の純粋な慰めの御言葉を聞きたいと願っている時には、あまり開きたくない箇所かもしれません。
 王寺教会ではコロナ禍に入りましてから、いくつかのオンライン集会も行っています。ある時、ある方が「YouTube配信を見るのはいいけれども、Zoomはちょっと。。」というようなお話を伺いました。Zoomだと自分の姿が映るからということでした。またある方は、高校生時代の写真と比べると変わったなと思うことがあるとおっしゃっていました。
 聖書は「神の啓示」とも言われます。私たちが知らないことを神が明らかに示されたという意味です。そこには主ご自身のことが書かれています。主がどなたか、何をしておられるのかが書いてあります。私たちは主の愛の姿をみて、救いを知るのです。それは本当の慰めです。しかし、それと同時に、聖書は人間の姿を鏡のように私たちに見せています。私たちは「自分のことは自分で分かっている」と思うのではないでしょうか。でも、実際には鏡がなければ、寝癖がついているかどうかすら気付かないのです。
 さて、今日はサウル王についてみていきたいと思います。ダビデ、ソロモンまでいって、どうしてサウル王に戻るのかと思われるかもしれませんが。一旦、ダビデとソロモンの姿を見た後で、サウル王の姿を再確認すると、最初とは違う感想が出てくるのではないでしょうか。果たしてサウル王の失敗はそこまでひどかったの?と思いませんか。特にダビデがバテシェバ事件でウリヤを殺したり、ソロモンが外国の神々を礼拝したりしたことと比較すれば、罪は罪でも微罪であるような気がしてしまいます。
 サウル王はイスラエルで最初に選ばれた王でした。サムエルが息子を次のさばきつかさに任命した時、イスラエルの長老たちはそれがマズイことになると思って、他国と同じように王様を立ててくださいと言いました。それは主を退けることであり、主の御心を損ないました。主は「私が王を選ぶ」とおっしゃり、3つの不思議をなさってサウルを王に選ばれました(Iサム9-10)。その時、サウルは王にはなりたくなかったのです。彼は自分の家で畑を耕して生活していた普通の人です。イスラエルに王が立つことは、主の最も喜ばれることでないと知っていたでしょう。そのような王に指名されるとは、どんな気持ちになったことでしょう。彼はくじが当たった時、《荷物の間に隠れて》いたと書いてあります。また続けてこのように書いてあります。《神に心を動かされた勇者たちは、彼について行った。しかし、よこしまな者たちは、「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と言って軽蔑し、彼に贈り物を持って来なかった。》
 サウルが王になってから。ある時、ペリシテ人の軍隊が海辺の砂のように多く集まり、イスラエルを攻めようとしていました。イスラエルの兵士たちは震えながらサウルに従っていました。サウルはその時、主を礼拝する場所にいたのです。主に信頼しようとする姿があります。サウルは国内から霊媒や口寄せを追い出していました。これを見ても、強力な軍隊を築き上げて、軍事力によって他国を寄せ付けなかったダビデやソロモンと対照的です。ダビデは後年にこの軍隊を数え、軍事力を誇ろうとして主の御心を損なっています。対照的に、敵が迫ってきていても主を礼拝することを優先しようと努めたサウルでしたが、サムエルがいなければ全焼のいけにえを捧げることができません。しかし7日間待ってもサムエルは現れませんでした。それで、兵士たちはサウルから離れて散って行こうとしていました。この状況を想像してみてください。どれだけのプレッシャーだったでしょうか。「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と平然と言う人たちがいました。立候補したわけでもない、推薦を受けたわけでもない、選挙で選ばれたわけでもない。ただ主ご自身が選ばれました。今日お読みした箇所でも、絶対に雨など降るはずのない時期に、雷と雨があったので人々は恐れてサウルを王としました。もし主が黙っておられたら、サウルには何もないのです。資質も教育も訓練も地盤も何もなかった普通の人なのです。サウルは人々の言動や自分自身の心からかかるプレッシャーに勝てませんでした。もしこの時、サウルが絶体絶命の状態まで耐えて主を待ち望んでいたら、どれだけのことを主は成してくださったでしょうか。サムエルは《【主】は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。(Iサム13:13)》と言っています。燃える火の炉に投げ込まれたシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを思い出してください(ダニ3:18)。
 サウルの2つ目の失敗は聖絶のものを残しておいたことです。サウルは罪を認めて、見逃してくださいと言いましたが、主の任命は取り去られてしまいました。一方で、私たちはついついダビデと比べてしまいますが、ダビデは自分の欲のためにウリヤを殺しました。
 ダビデとソロモンの姿を見た後で、サウル王のことを考えますと、どうでしょうか。サウルは王位から退けられ、ダビデの王国は永遠に堅く立ちました。納得いきますか? モーセの失敗を思い出しますね。エリヤの失敗とも似ています。サウルはこの後、深刻な被害妄想に駆られるようになっていきます。ダビデが次の王として選ばれていることに気が付き、ダビデは私をおびやかすと考えるようになりました。それは真実ではありませんでした。ダビデは決してサウルに害を及ぼそうとしませんでした。何度もそれを証明し、サウルも時々、妄想であることに気が付いたのですが、再び妄想がやってきて、ついには滅びに至りました。
 サウルはモーセやエリヤと同じように主に応えることができたはずです。モーセがヨシュアに譲り、エリヤがエリシャに譲ったように、主が選ばれたダビデに王位を譲ることができたはずでした。ところが、かつて荷物に隠れて王にならないようにしていたサウルは、主が言われたように王位を退くことをしませんでした。彼の選択はエジプトのファラオが選んだ道です。頑なになり続け、やがて自分ではどうしようもできなくなってしまいました。サウルは戦場で死にましたが、それは彼がイスラエルの王であったからです。王でなければ彼は普通の人なのですから、敵に狙われることはなかったのです。
 それではダビデやソロモンは、サウルよりも素晴らしい人物だったのでしょうか。_ サウル王は平時には自分の家に帰り、自分の畑を耕していました(Iサム11:5)。こういう王様は素晴らしいですね。権力者が暇な時に思いつく計画というのは大抵ろくなものではありません。自分の功績を立てる計画のために人を道具のように使うことがあるからです。ダビデは敵との戦いが止んで、平和になった時、王宮を建て、主の神殿を建てようと思い付きました。王宮や神殿は、ダビデが日曜大工で建てられるのでしょうか。ソロモンが神殿を建てた時、多くの外国人たちが働いていたこと、また多額の献金が集められたと書いてあります。まさにファラオのようです。主は神殿を必要とされないことをダビデにはっきりとお告げになりました。これは、ダビデが自分を神である主よりも上に置いてしまった過ちであり、サウルが王位を取り去られたように、ダビデからも王位が取り去られても全く不思議ではない出来事でした。一体どういうことでしょう。
 この時、主はダビデにこう言われました。《しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。》キーワードは「わたしの恵みは」です。恵みとは受けるに値しないものが、ただで受け取るもののことです。王位が取り去られたとしても、元々受けるに値しないものだったのですから、それが元に戻ったということです。それでは、主は勝手気ままな神なのでしょうか。サウルはダメ、ダビデはヨシとその時の気分で決めたのでしょうか。サウルを試すために絶体絶命に追いやろうと思われたのでしょうか。いいえ、そうではありません。私たちが見ているよりも大きな視野で世界を見ておられるということです。ダビデの王座が残ったのは、ダビデやソロモンが素晴らしかったからではなく、その末からイエス様がお生まれになるという計画が立てられたからです。
 ダビデの罪が軽かったのではありません。イエス様は人々にこう言われました。《シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも多く、罪の負債があったと思いますか。そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。》サウルも、ダビデも、ソロモンも、私たちの模範にはなりません。聖書のこの部分が教えているのは、そのことです。人間の人間による人間のための世界が動いている中で、ただ主だけが私たちのあるべき姿を教えて下さいます。主イエス様だけが私たちの模範です。
 主は私たちに御心を教えてくださいました。福音と呼ばれている計画。明らかにされた神の奥義といわれている計画です。私たちの視野は、自分自身の短い人生とそれに関わる人々の人生を見るのが精一杯でしょう。しかし主は世界のすべての人を滅びから逃れさせようと願って、すべての時代の、すべての地域の人々のすべての歩みを見ておられます。その視点で最善と見える道は、狭い視野の私たちには崖が迫っているように見えることもあるのです。
 主が望んでおられることは一貫しています。ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕え、主がどれほど大いなることを私たちになさったかを、よく見ることです。王に頼ることは偶像礼拝の罪です。主があなたを選び用いられたなら、一日を振り返ってこのように祈りましょう。「主よ。今日あなたの働きに招いてくださったことを感謝します。明日はどなたを招かれるのでしょうか。あなたの御心があなたが招かれる方々によってなされ、人々が主を信頼することを知るようにしてください」と。
 
 
お祈りいたします。《もし、あなたがたが【主】を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、【主】の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、自分たちの神、【主】の後に従うなら、それでよい。》
 
 天の父なる神様。私たちの罪を赦し、子とされる特権をお与えくださったあわれみ深い主よ。この朝も兄弟姉妹とともにあなたのみ名を賛美いたします。あなたのご計画は大きく、みわざには力があります。あなたの目は人のすべての行いに開いていて、それぞれにその生き方にしたがい、行いの結ぶ実にしたがって報いをされます。あなたのきよさを覚える時、一体誰がみ前に立ち得るでしょうか。
 しかし、あなたは私たちの信仰を見て良しとしてくださり、御子の十字架のゆえに私たちを聖なる者としてくださいました。今週も私たちを聖なる働きに招き、用いてくださることを感謝いたします。聖霊なる主よ。私たちはイエス様の似姿に変えてください。イエス様のようにへりくだった心を与えてください。十字架にまで従順で、全く主に委ねられた生き方に倣わせてください。
 主イエス様だけが本当の主のしもべです。人々が御子を見た時、御父を見たのです。どうぞこの群れをきよめてください。人々が私たちをみて天の父とその愛と恵みを知るようにしてください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。



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