2021.10.3召天者記念礼拝 「来るべき都へ」へブル人への手紙13章14節



 日差しが暑いぐらいの秋晴れの日。会堂は久しぶりに人でいっぱいになりました。先に逝去された(天に召された)教会員のご親族方も集われたからです。壁には天国の飾りがしつらえられ、久しぶりの礼拝賛美は牧師先生がたのデュエットで、清らかで美しい空気が流れました。この礼拝は、いわゆる法事という亡くなった方々をお祭りし崇める集会ではないのですと先生。「その方々は今、天国で安息されています。」大変なのは生きて試練を乗り越えていく私たち。召天された方々の人生と神様から頂かれた恵みを知って励まされるのは私たち。

「あなたがたが私にあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)

午後からは霊園に行って教会のお墓の前でお花を献げ、賛美をたくさん献げました。(Re)

【礼拝説教】中尾敬一先生

みなさま。今日はようこそインマヌエル王寺キリスト教会の召天者記念礼拝にお越しくださいました。王寺教会では、毎年、召天者記念礼拝と墓前礼拝を行っております。キリスト教では、人が亡くなる時、神様である主がみ元に呼び寄せてくださった、召してくださったという意味で、それを「召天」と呼んでいます。召天者記念礼拝は、イエス様が私たちよりも先に召してくださった方々を偲ぶ時です。これから私たちも向かっていくところに希望をもって思いをはせる時です。その希望を用意してくださった主に感謝し、礼拝する時です。
 今朝は召天者のご家族もお迎えいたしまして、ともに礼拝の時を過ごさせていただけますこと感謝しております。これからしばらく聖書の説教をさせていただきたいと思います。聖書を開いてお話しますのは、ここには私たちの視野では見ることができない、水平線(地平線)の向こうまでの話が書かれているからです。ここに座っておられます皆様は生きておられますね。まぁ「生きている」という言葉の定義もなかなか哲学的なところがございまして、心臓が動いているということなのか、脳が活動しているということなのか、色々と科学的な議論があるところですが。細かいところは専門家にお任せするとして、私たちは生物学的に生きています。そうですから、私たちが考えられる範囲は私たちの目で見える水平線までということになります。しかし、聖書は私たちが五感で知るよりも大きな世界を知らせてくれています。
 聖書は私たち人間の人生が故郷へ帰る旅路だと示しています。私たちは初め、神である主に創造され、主が用意してくださったこの地球に置かれました。しかし、その故郷から迷い出てしまったのです。もちろん私たちは以前として地球に住んでいます。別の星に移り住んだわけではありません。しかし、誰がここに人を置いてくださったのか忘れてしまいました。主はそのような私たちを決して忘れることなく、「わたしはここだ、わたしはここだ」と声をかけて、み元に帰ってくるようにと願ってくださいました。先程、お名前を読み上げさせていただきました召天者のおひとりひとりは、人生のある時に主イエスと出会われました。主イエス様のみ元が人の故郷であることを信じました。死を乗り越えられた今は、主の元で安息に入り、新しい世界を待っておられます。
 新約聖書の中で、使徒パウロがこのように言っています。《私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。》生きている時には、キリスト、つまりイエス様が苦しみを通られたように、イエス様の弟子である自分も苦しみを通っている。しかし、それはイエス様の姿を人々に知らせていると言います。ですから、辛いけれども素晴らしいことだと。一方で、「死ぬことは益だ」と言いました。彼は続けて《私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。》とも言っています。
 「死ぬこと」と言いましても、パウロは死に際の話をしているのではありません。亡くなる前に病と戦われたこととか、色々と大変なところを通られた方もおられることでしょう。亡くなる前が人生最大の困難だったという方もおられるはずです。「死ぬことは益だ」とは何事かと思われるかもしれませんが、パウロが言っていたのは亡くなる直前の事ではなくて亡くなった後の事です。
 ある人の例を出しましょう。ある時、ちょっと目を離した隙に子どもが誘拐されて、誰かに殺されてしまい、犯人が誰か見つからないままになっていた人がいました。「あの時、側から離れなければ、目を離していなければ。どんなに怖い思いをしただろうか。どんなに痛かっただろうか。」と考え続けていたそうです。しかし、神様がある時に夢を見せてくださったと言います。あの子が、多くの子どもたちと、またイエス様と一緒に楽しく遊んでいる姿を見ました。
 私たち“生きている”人々の水平線は、心臓がとまるまで、脳が停止するまでのところまでしか見えません。「死ぬこと」と聞けば、水平線間近を想像するのも無理はないことです。しかし、聖書を読むと、宇宙ステーションからの眺めが見えてきて、死んだ後には良いことがあると分かってくるのです。そこにあるのは、パウロいわく《世を去ってキリストとともにいること》です。
 王寺教会では、年に一度、召天者記念礼拝と墓前礼拝をもっています。これは「供養」ではありません。お参りでもありません。日本人は伝統的に、生きている人が亡くなった家族のために祈ったり、お供えをしたりすることで、あちらの世界にいる家族が不自由しないように考えてきました。しかし聖書によりますと、「世を去ってキリストとともにいる」人には、《もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない》のだと言います。そうですから、私たちは亡くなった家族のために一生懸命に何かをする必要性はないのです。むしろ逆です。世にいる私たちは日々苦労しながら生きていかなければなりません。私たちの方に苦労があり、励ましと希望が必要なのです。召天者記念礼拝は、私たちが何かをしているのではなくて、実は私たちが励ましと希望を受け取っているのです。
 イエス様が十字架にかかられる前のことです。イエス様は弟子たちに「わたしはこれから十字架にかけられて殺されます」とお伝えになりました。弟子たちはびっくりして動揺しました。しかしイエス様はこのように言われたのです。《これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。》死を乗り越えるということは、本当に大変なことだと思います。私たちはそれを通ることを恐れます。それはクリスチャンであっても同じです。通った後が良いことを知っていても、それを通らなければならないことを感覚的に恐れるのは普通のことでしょう。しかし、聖書の言葉に心を留めてみてください。死から復活されたイエス様のことばが聞こえてくるでしょうか。「勇気を出しなさい」とイエス様は言っておられます。イエス様とともにいる家族も同じ様に私たちに呼びかけているのではないでしょうか。
 先に召された方々は、苦しかった時には留まっておられません。私たちの記憶はあるいは苦しそうな姿で止まっているかもしれません。しかし時計は確実に動いていて、召天者のおひとりひとりは安息にいれられています。そして私たちに『「勇気を出しなさい」とイエス様が言っているよ、私もそう思うよ』とおっしゃっているのではないでしょうか。実は私たちの方が励まされています。
 今お話していますことは、聖書から分かることを基にしています。私がそうだったら良いなと考えて話しているのではありません。聖書は牧師が書いたものではありません。また一人の教祖が書いたのでもありません。ひとつの組織が作ったものではありません。1500年もかけて、様々な人々がそれぞれの必要に迫られて書いた書物が集められたものです。ここには数え切れないほどの人々の証言の積み重ねがあります。互いに利害関係のない多くの人が関われば関わるほど信憑性が上がってくるでしょう。普通ならば支離滅裂になるはずの寄せ集めの文章ですが、神である主がおられて、私たちに真理を教えてくださっていることが明らかになっています。それで、私たちは聖書は神の言葉だと言っているのです。ここには希望があります。
 かつて釈尊は欲をもたないことが幸せにつながるとおっしゃっていました。それも人々に称賛されてきた偉大な哲学でしょう。主イエス様は、求めさない、希望を持ちなさいと言われました。どうしてでしょうか。そうおっしゃったイエス様自身は、不正の裁判にかけられ、無実にも関わらず、十字架という残酷な刑に処せられて殺され、生涯を終えなさいました。求めた結果、希望をもった結果、このような結末になるなんて嫌なことではないでしょうか。しかし、宇宙ステーションから眺めて見るなら、見え方は全く変わってしまいます。神である主を信じて召されていった人たちには《もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない》安息があるのです。そして主イエス様の再臨の日をそこで待っています。
 主イエス様は一度地上に来てくださって、神である主が存在することを示してくださいました。そしてもう一度戻ってくる時に、この世界を新しく作り直すと約束してくださいました。これが再臨の日です。(会堂の後ろの方に飾られています絵は、ヨハネの黙示録で描かれている新しい天と地の様子をイメージして作られたものです。今日のために準備されたものですので、ぜひ後でもご覧いただければと思います。)召されていった人々はイエス様のみ元で再臨の日を待っています。私たちはこの世界で再臨の日を待っています。どっちが大変かといいますと、実は私たちの方が大変です。安息で待つのと、苦難の中で待つのと比べたら、私たちの方が大変なのです。しかし、私たちには希望があります。そして天からの励ましがあります。ヘブル人への手紙13:14《私たちは、いつまでも続く都をこの地上に持っているのではなく、むしろ来たるべき都を求めているのです。》召天者のおひとりひとりが来たるべき都を求められたように、みなさまも同じ都を求めていかれますように願います。ここに希望があります。
 
 
 お祈りいたします。《私たちは、いつまでも続く都をこの地上に持っているのではなく、むしろ来たるべき都を求めているのです。》
 
 天の父なる神様。私たちを創造し、息を吹き込み、この世界においてくださった主よ。あなたのみ元に帰っていった主にある家族を、今日も安息のうちに入れてくださっていますこと心から感謝いたします。あなたの大きな愛を思い、心からみ名をあがめます。今年も召天者記念礼拝をもつことができました。ありがとうございます。天候も守ってくださってありがとうございます。午後には墓前礼拝があります。どうぞ祝福してください。
 ここに集まることができた、あるいはYouTubeを通して参加することができたおひとりひとりを、どうぞこの一年も守っていてください。「勇気を出しなさい」と声をかけてくださり、ありがとうございます。この先、どこかの時点で死を乗り越えなければならないと考えますと、恐ろしい気もしますが、しかし確かな希望がありますから感謝です。十字架の死からよみがえって、弟子たちに姿を表してくださり、復活の希望が確かなものであることを教えてくださいました。主イエス様、あなたこそ私たちの希望の光です。
 あなたを信じて歩む私たちの旅路を守り、来たるべき都へ導いてください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

0 件のコメント:

コメントを投稿

Pages