2021.10.10 主日礼拝「ハネムーン時代の愛」エレミヤ書2章1節〜7節a



  

召天者記念礼拝も終え、普通の礼拝の日です。とはいえ、会堂の壁は秋色いっぱいの木々やコスモスなど美しい飾りがしつらえられており、 新しい季節を迎えた心地よさがいっぱい。

「普通」という言葉にしても、人によってそれぞれ意味が変わってくるというお話からはじまりました。違った感受性を持っている人々と協調していく私たちの生活。タイトルのハネムーンの話とは、旧約聖書の時代、エジプトから救い出されたイスラエルの人々と神様の最初の麗しい関係が変化していくお話でした。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師


おはようございます。召天者記念礼拝と墓前礼拝を過ぎ、普段の聖日がやってきました。今日もみなさまとお会いし、ともに主を礼拝できます恵みに感謝いたします。教会には年間の行事がありまして、ある聖日は〇〇礼拝とタイトルがついた特別な日となっています。これらの特別な日は教会にとって祝福の時なのですが、実は危うい日にもなり得るということご存知でしょうか。ある日はどうやって特別になるのでしょうか。一般の話で考えてみますと、例えば成人式はどうやって特別な日になったのでしょう。親が20歳になった時に成人式をしてもらった。今度は子どもが20歳になった時に成人式をしよう。そのような歴史があるでしょう。また周りの人びとを見た時、市町村で成人式が開かれる、友達も参加する。そのような文化があるでしょう。歴史や文化によって、ある日が特別な日になっていくのです。すると、異なる歴史や文化を持っている人々はどうなるでしょう。外国から来たとか、20歳に成人式をする歴史も文化もない人。その人たちにとっては、なにも特別なことはないのです。もし、これらの人たちが一緒に集まったら、特別な日への思い入れに温度差が出てくるということになります。実は教会にもそのような一面があるのです。みんなが一斉に洗礼を受けて、一緒に教会生活を始めるわけではありません。ひとり加えられ、またひとり加えられ。それが教会です。年代も違えば、職種も、出身地もそれぞれです。特別な日に温度差が出てくるのは当然なのです。ですから祝福の日であり、危うい日にもなります。
 新約聖書時代の初代教会は、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンが一緒になるということで多くの問題が起こりました。彼らは文化的に合わないのです。しかし、ローマ人への手紙などをよく読んでみてください。互いに相手を自分より優れたものと思いなさいと言われています。先週の祈祷会で読み始めた本の中で、「楕円形の人間関係」という言葉が出てきていました。ある日を特別と思う方は、その日を特別と思っていない人がいることを感謝しましょう。ある日を特別と思っていない人は、その日を特別と思っている人がいることを喜びましょう。互いに受け入れ合うことでキリストのからだが建て上げられていきます。
 さて、今日の聖書箇所を朗読したいと思います。エレミヤ書2:1-7a(1284ページ)【聖書朗読】
 
 8月から9月にかけて、出エジプトについてお話をしてまいりました。イエス様の十字架による贖いが、イエス様の出エジプトであったことから、出エジプトを理解する学びに入っていきました。出エジプトはあらゆる支配からの救いであると知っていただくために、4つの要素(側面)をお話してまいりました。さて、今日はイスラエルのその後を見ていくことにいたします。エジプトを出た後のイスラエルの姿は、イエス様の十字架を信じた私たちの姿と重ね合わせることができるからです。
 エジプトのファラオと対決し、圧倒してくださった主は、イスラエルの民に約束してくださいました。主が彼らの王、また神となってくださり、抑圧者や霊的な支配から守ってくださること、所有地を与えて経済的な自由をもつこと、律法を与えて人々の間に愛のコミュニティをもたらしてくださること。そういった約束でした。ここで「約束」という言葉に心を留めていただきたいのです。「約束」_ 約束って何ですか。私が娘に「誕生日にお人形を買ってあげるね」と約束したとしましょう。約束ということは、その言葉を言った時には、娘はお人形は受け取っていません。しかし、もし私が誠実であって、娘の誕生日がやってくれば、約束されたお人形は必ず手に入るわけです。問題は「もし私が誠実であれば」という部分でしょうね。誕生日がくるまで、私と娘との間には様々な人間ドラマが起こり得ます。皆さんは約束という言葉を聞いて、どのような経験を思い出しなさるでしょうか。エジプトを脱出したイスラエル人は主からの約束をいただきました。
 約束をいただいたイスラエル人は荒野に入りました。この荒野を舞台に、様々なドラマがありました。それは主と民のドラマ、主とモーセのドラマ、モーセと民のドラマでした。時にそれは感情的なぶつかりあいであり、情熱的なやりとりでした。民は主の約束を疑ったのです。皆さん、イスラエルは何年間くらい荒野で希望をもっていたと思いますか?何年間くらい忍耐した後で、主に不満を言ったのでしょうか。_ なんと3日です。3日(出エジプト15:22)。あの紅海でエジプトの軍隊から守られて、主に向かって讃美をし、《【主】は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。》と歌って、ミリアムがタンバリンを手にとって喜び踊ってから、たったの3日後!カナンに向けて荒野の旅を始めた民は、水がないと言って不平を言い始めたのです。
 そのように言いますと、イスラエルを笑ってしまうでしょうけれども、想像してみましょう。荒野は人の住んでいない土地でした。そこに入るには準備が要るのです。入る前に食料や水の準備をし、オアシスまでどのくらい距離があるのか計算し、ルートをあらかじめ計画して入るべきところです。しかし、イスラエル人はそのような準備をしていませんでした。エジプトからやっとのことで脱出し、荒野がどんなところか知らずに、モーセに連れられてやってきたのでした。あとどのくらい歩けばカナンに着くのか。これから歩く歩数と、エジプトに帰る歩数を考えたら…。そのような状況でした。どう考えても先のない状況。ところが、イスラエルの民はそれから40年間も荒野で生きることができたのです。どうしてでしょうか。主が共におられたからです。モーセは旅の最後に、これまでを振り返ってこう言っています。《私は四十年の間、荒野であなたがたを導いたが、あなたがたが身に着けている上着はすり切れず、その履き物もすり切れなかった。(申29:5)》
 当時の民の様子がわかる箇所を開いてみたいと思います。民数記11:1-10《さて、民は【主】に対して、繰り返し激しく不平を言った。【主】はこれを聞いて怒りを燃やし、【主】の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。すると民はモーセに向かってわめき叫んだ。それで、モーセが【主】に祈ると、その火は消えた。その場所の名はタブエラと呼ばれた。【主】の火が、彼らに向かって燃え上がったからである。彼らのうちに混じって来ていた者たちは激しい欲望にかられ、イスラエルの子らは再び大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」》民はエジプトでどのような仕打ちを受けていたのかすっかり忘れてしまっているのです。思い出してください。彼らは生まれてきた男の子たちを殺され、重い労役を課されて、むちを打たれ、生活は苦しかったのです。しかし彼らが思い出しているのは肉、魚、きゅうり、すいか、にら、玉ねぎ、にんにく。主は約束の地で、すべての物を豊かに与えてくださると約束してくださっていたのですが、民は「今すぐ、ここで、それが欲しい!」と大声で泣いたのでした。
 続きを読んでみましょう。民数記11:10-15《 モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入り口で泣くのを聞いた。【主】の怒りは激しく燃え上がった。このことは、モーセにとって辛いことであった。それで、モーセは【主】に言った。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのですか。なぜ、私はあなたのご好意を受けられないのですか。なぜ、この民全体の重荷を私に負わされるのですか。私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。私が彼らを産んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『乳母が乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、わたしが彼らの父祖たちに誓った地に連れて行け』と言われるのですか。どこから私は肉を得て、この民全体に与えられるでしょうか。彼らは私に泣き叫び、『肉を与えて食べさせてくれ』と言うのです。私一人で、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。私をこのように扱われるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を悲惨な目にあわせないでください。」》モーセは主の約束を信じていました。燃える柴で主と出会い、ファラオとの対決で主の業を見てきたのです。主への信頼はしっかりしていました。しかし約束を待てないと泣きわめく民を前にして、本当に参ってしまったのです。荒野にはこのようなドタバタ劇がありました。
 ドタバタ劇があってどうなったのかは、それぞれで聖書を読んでいただきたいと思いますが。色々とあったものの、モーセは民をカナンの前まで連れてくることができ、民はヨシュアと共に約束の地に入り、主の約束通り所有地をいただきました。そこで肉も、魚も、きゅうり、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも好きなだけ食べることができるようになりました。そこにはファラオはいません。
 さて、ここまでお話してきまして、それじゃあ何故エレミヤ書を開いたんですかと言われてしまいそうですね。エレミヤ書は預言書ですので、時代的には何百年も後のことです。でも、ここに荒野のことが書いてあります。主は荒野の時代を思い出しておられました。あんなドタバタ劇があった荒野ですが、主は真実の愛、婚約時代の愛を思い出しておられました。イスラエルは荒野でブーブー言っておりましたが、主を信頼することを少しずつ学び、最後まで約束を信じて従った人たちは、確かに所有地をいただいたのです。むしろ、荒野にいた時のほうが、後の時代よりも良かったそうです。
 私たちはいま、ここで何をしているのでしょうか。イエス様を信じて贖われて、洗礼を受けてクリスチャンになって、何をしているのでしょうか。荒野を兄弟姉妹と旅しているのです。約束の地を目指して。主と共に。
 私たちの人生は準備が必要だと言います。荒野に入る人のように、食べ物や水はあるか、オアシスまでたどり着けるか、ルートはどうするか、入念に準備をするのではないでしょうか。しかし、私たちクリスチャンには十分が準備が整っていません。人生に起こってくる様々な出来事に右往左往しています。それにも関わらず今日まで歩んでこれたのは、なにゆえでしょうか。主が共にいてくださって、マナを降らせ、うずらを集め、岩から水を出してくださったからではないですか。私たちはそれを見て、主の約束が確かであることを信じるようになってきたでしょうか。それとも約束のものが「今すぐ、ここで、すぐに欲しい!」と泣きわめいているでしょうか。
 ヘブル人への手紙3:13-15《「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。神に逆らったときのように」と言われているとおりです。》私たちが毎週集まるのは、ひとつは礼拝するためですが、実は互いに励まし合うためでもあるのです。励まし合って、主の約束が確かであることを共に信じ、荒野を旅しているのです。今はとても麗しい婚約時代です。「先週、私はマナをいただいた、うずらをいただいた、岩から出る水をいただいた」と証していきましょう。人々は「なんだそんなつまらない小さな事」と言うかもしれません。しかし私たちが見ているのは、目の前のマナではありません。マナが示している約束のものです。それは主の誠実さの証です。主が誠実なお方であれば、約束のものは必ずいただけるのです。
 
 お祈りいたします。《わたしはあなたがたを、実り豊かな地に伴い、その良い実を食べさせた。》
 
 天の父なる神様。私たちを贖い出し、約束を与えて、今日まで導いてくださった主よ。振り返ってみますと色々とございましたが、何とかここまで来ることができました。ありがとうございます。何度、あなたの前に不平を言い、またあなたに仕える人たちを困らせてきたことでしょうか。《【主】はあわれみ深く情け深い。怒るのに遅く恵み豊かである。主はいつまでも争ってはおられない。とこしえに怒ってはおられない。》この御言葉は真実です。
 もう間もなくイエス様は帰ってきてくださって、約束してくださったものを民に与えてくださいます。その時まで兄弟姉妹と共に荒野を旅する群れを助け導いてください。今週も、私たちには天からのマナとうずら、また岩からでる水と蜜が必要です。どうぞよろしくお願いいたします。兄弟姉妹を支えてください。私たちの証を祝福し、互いに励まし合って、主の日を待ち望むことができるようにしてください。
 感謝して、主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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