2021.9.26主日礼拝「主に仕えられるようになる」出エジプト記4章21節〜23節










今回は献児式が持たれました。幼児洗礼とは違います。親が子供の人生を神様に委ね神様から祝福していただくように祈る式です。今回は二人の幼児が受けました。可愛らしい子供たちの声と姿が教会堂を明るくします。気候も涼しさが増し、秋の到来が感じられます。コロナ禍のなかでも希望が少し見えてきました。聖書交読のなかの、詩篇139編12節「あなたにとっては、やみも暗くなく、夜も昼のように明るいのです」のみことばに励まされます。(Re)

【礼拝メッセージ】中尾敬一先生

聖書箇所:出エジプト4:21-23(105ページ)
説教題「主に仕えられるようになる」
 
 おはようございます。本日は献児式を予定しております。思いがけないことでしたがこうして献児式をもたせていただけることは私たちにとっても恵みです。子供たちは主からの人たちです。子どもがいることは本当に恵みですね。私たちの喜びの源です。しかし一方で、「主からの子どもですか、それならお返しします」と言いたくなる瞬間も、子育ての中にはあることです。でも、主が託してくださったということは、助けもまた主から来るということです。主の祝福と助けをいただきながら一日一日を楽しんで過ごしていただきたいと思います。幼子の上に主のみ守りがあり、健やかに成長していかれますようにお祈りしております。
 以前、奥本たけし兄が書かれ、クリスチャン新聞に掲載されていたコーちゃんという4コマ漫画がございます。あれを読んでいますと、子供の純粋な信仰が描かれていまして、面白いなと思いますし、このような信仰を大人になって忘れてしまっていないかなと思います。聖書の中にもサムエルという人がいまして、その生まれから子供時代がIサムエル記のはじめに書いてあります。彼は母親であるハンナの祈りの応えとして与えられた子供でした。ハンナは子供が与えられ、乳離れした後で《この子を【主】におゆだねいたします。この子は一生涯、【主】にゆだねられたものです。》と言って、祭司の家にサムエルを預けました。献児式のひとつのモデルです。《少年サムエルは、【主】にも人にもいつくしまれ、ますます成長した。》と書いてありまして、王寺教会の関係の子どもたちも、そうあってほしいと願っています。イエス様もまた《神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。》と聖書に書かれています。
 サムエルはある日、「サムエル、サムエル」と呼びかける声を夜中に聞きました。祭司のエリ先生が呼んでいるのだろうと思いましたが、違いました。主が呼んでおられたのです。私たちも説教を聞きながら、この牧師は何を考えて今日の話をしているのだろうと思っていることがあるかもしれません。そういう私もそのようなことを考えていたことがありました。でも、本当は主が何かを語っておられるのかもしれませんね。《【主】よ、お話しください。しもべは聞いております》と、子供のような信仰に立って、聖書を通しての語りかけに耳を傾けてみましょう。主が今日の私たちのために何千年もかけて準備してくださったのですから。
 聖書をお開きください。出エジプト4:21-23(105ページ)【聖書朗読】
 
 今日はちょっと物騒な箇所ですね。日曜日は心休まる平和なことばを聞きたいものです。「ちょっと、こんな箇所を礼拝で開かないでくださいよ」と言われてしまいそうな気がいたします。しかし、ここにも私たちに平安をあたえるメッセージがあります。
 出エジプトのあがないについて、数週間にわたってお話してまいりました。「イエス様の十字架の救いと聞いて思い浮かべるものがとても小さい範囲のことだった。十字架の救いはこんなに広く、深いものだったのかと初めて知った」とご感想をいただいております。ところが、みなさま。イエス様の十字架はさらに広くて、実は出エジプトだけではなく、捕囚からの帰還も、この後に見ていかなければなりません。出エジプトはどちらかというと社会派の教会が強調して見てきたことであり、捕囚からの救いは罪の赦しという、福音派が強調して見てきた側面です。どちらも聖書に書いてあります。イエス様の十字架の意味はそれだけ大きいのであり、私たちは「やれ社会派だ、福音派だ」とキリストのからだの中で争うのではなく、互いに尊重し合うべきです。
 さて、その話はもっと大きな話、今の話は出エジプトです。今日は順番で行けば、贖いの4つ目の要素となりますが、4つ目のと言うよりも、これまでの3つの要素を束ねると言ったほうが良いかもしれません。「主に仕えることができるようになる」という救いです。
 23節に「仕える」という言葉がでてきますが、これはアダムがエデンの園を耕した時の「耕す」と同じ単語です。また礼拝の一連の行動を指す時にも、この単語が使われていて「礼拝する」とも訳せます。律法で「6日間働いて、7日目は安息日とせよ」言われている箇所の「働く」もこの単語です。主に託されたことを行う、私たちに本来与えられた役割を担う、主が願われるように働くということ。それが主に仕えることであり、礼拝になるわけです。
 エジプトにいたイスラエル人たちは主に仕えることができない状況に置かれていました。
彼らの仕事はエデンの園でのアダムの仕事とは違っていました。アダムには仕事のノルマはありませんでした。収穫物を納めるために働いていたのではありませんでした。また生活の糧を得るためでもありませんでした。主が創造してくださった世界を耕して、豊かに発展させていく仕事でした。そこには自由がありました。耕しなさいという御心がありましたが、どこを耕すか、どんな種を植えるかは自由でした。しかし、エジプトでのイスラエル人の仕事は奴隷の労働でした。それは過酷で、生活を苦しめるものでした。仕事は細かく指定され自由はありません。イスラエル人たちはムチで打たれ、また子どもたちを殺されるという残虐な仕打ちを受けていました。彼らはファラオに対抗する力を持っていませんでした。モーセが初めてファラオと会い、イスラエル人たちを解放するように言った時、ファラオは《【ヤハウェ】とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。私は【ヤハウェ】を知らない。イスラエルは去らせない。(5:2)》と言って、奴隷の労働をさらに重くしてしまいました。イスラエル人たちは《これは悪いことになったと思った。(5:19)》と書いてあります。彼らはファラオに対抗する力がなく、何とか現状が悪くならないように願いながら、こっそりと子どもたちが殺されないように守りながら、日々を過ごしていたのです。
 そこに主は来てくださって、ファラオに真っ向から対抗されました。いや、対抗というより圧倒と言うべきでしょう。主はこう言われました。《イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。》ファラオはイスラエルの子どもを殺していたのです。「イスラエルはわたしの子だ」と言えば、「それならば死に値する」と返事が来るでしょう。しかし、主がおっしゃったことは「もし去らせるのを拒むなら、死ぬのはわたしの子ではない、あなたの子の方だ。だから、そうなる前にイスラエルを去らせなさい」ということでした。
 ここでひとつ引っかかるのは、21節で「主がファラオの心を頑なにする」と言われていることでしょう。まるでファラオには選択肢がなかったように読めます。しかし、23節には「もし去らせるのを拒むのなら」と選択肢があります。通常、主がこのように災いの警告をなさる時には選択肢があります。この後、ずっと読み進めていきますと、ファラオの心が頑なになった場面が繰り返し出てきます。最初の方はファラオが主語になって、ファラオ自身が心を頑なにしたと出てきます。後半になると、ヤハウェが主語になって、主がファラオの心を頑なにされたと出てきます。そういうわけですから、ファラオにはちゃんと選択肢があったと言えるでしょう。心を頑なにし続けるうちに、どんどん頑なになり続けていった。そして行き着くところにまで至ったということになります。
 さて、この後、7章以降になりますと、十の災いの話が始まっていきます。杖が蛇になったり、ナイル川が血に変わったり、カエルが大量発生したり、と色々ありました。これは「モーセが主の名によって奇跡を行ってファラオを驚かせた」くらいに思っておられませんか。これは何をしていたかというと、実はエジプトの神々を圧倒していたのです。神々として恐れられていたものを出したり退けたりすることができる主ヤハウェの力が明らかにされました。エジプトで最も偉大な神は太陽でした。9つ目の災いは太陽が隠される災いでした。そして最後の災いで、エジプト中の長子が突然死しました。イスラエルの子どもたちを殺し、神々よりも偉大だと思っていたファラオを圧倒したのです。 12:12《その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。わたしは【主】である。》
 こうして主の民は贖われ、主に仕えることができるようになりました。クリスチャンになってだいぶ経ちますと、クリスチャンになる前の戦いを忘れてしまうことがあります。あるいは私のようにクリスチャンホームで育ちますと、そういう困難を知りません。洗礼を受けたいと願えば、周りが大喜びするわけですから、洗礼を受けたいと思っても大反対にあったり、妨害を受けたりすることがあるとは知らないのです。(別の方面の戦いはあるわけですけれども)しかし、現実には様々な困難があり、クリスチャンになりたいと願っても、イエス様を信じてついていきたいと願っても、そうできない事情を持っておられる方々がおられます。主は何をしておられるのでしょうか。天の王座にどっしりと座って、「わたしを礼拝せよ、さもなくば滅ぼすぞ」と言っているのでしょうか。とんでもありません。主は私たちの幸せを切に願い、座って見ているのではなく、私たちのところに来てくださって、私たちが主に仕えることができるようにしてくださいます。私たちを脅かすものと真っ向から対決してくださいます。いえ、それらを圧倒してくださいます。そして、そのものたちが自らの口で「もう十分だ、ここから出ていって主に仕えよ」と言うようにしてくださるのです。
 とにかく刺激しないように静かにしていよう。本当は教会堂にいってみて、兄弟姉妹と一緒に讃美歌を歌い、祈り、みことばに耳を傾けてみたいけれど、もうこうだから仕方がない。絶妙なバランスで何とか日々のささやかな平安が保たれているのだから、誰も指一本触れないでください。そのように思っておられる方はおられますか。イスラエルはエジプトでそのような状態だったのです。出エジプトの主、イエス様があなたの人生に関わろうとしておられます。あなたのところに来て、あなたのために戦ってくださいます。私たちは祈っています。詩篇50:15《苦難の日に わたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出し あなたはわたしをあがめる。》
 
 お祈りいたします。《イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。》
 
 天の父なる神様。私たちをあらゆる束縛から自由にし、いのちを与えてくださった主よ。あなたのみ名を賛美し、心から感謝いたします。私たちがこのようにあなたのみ名を讃えることができること、それはあなたが私たちを贖ってくださったゆえです。本当にありがとうございます。かつて美しの門で癒やされ、立ち上がり、喜び踊って神殿に入っていった人のように、私たちもこうして教会堂に兄弟姉妹とともに集まり、この場所であるいはインターネットを通じて、あなたに仕えています。何と素晴らしいことでしょうか。心からあなたのみ名をあがめます。
 主よ。どうぞ今日、主のことばを聞いたすべての人のうちに来てください。あなたの贖いを必要としている人々の叫びに目を留めてください。出エジプトの主が、いまも生きておられることを明らかにしてください。あなたの御心に従って救い出してください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

 

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