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205.12.28 年末感謝礼拝「良い知らせの日」II列王記7:3-15


今年最後の礼拝メッセージでした。
みなさん良いお年をお過ごしください。(megu)


礼拝説教 中尾敬一

おはようございます。2025年最後の聖日となりました。21世紀に入って四半世紀が過ぎたことになります。身近なことだけを考えれば、毎年同じように繰り返す一年のように思えることもありますが、世界は確実に変化しています。同じ年は二度無いということです。今年はどのような年だったでしょうか。主との関係がどのように深められてきたでしょうか。

主がどんなお方であるか思い巡らす時、この年末にひとつのことを思いました。主はどんなときにも、語り続けてくださるお方だということです。聖書を読みますと、民が主の御前に山あり谷ありの歩みをしています。ある時には主に聞き従い、ある時には主を忘れ。しかし、そのおかげ(?)で、聖書にはあらゆる場面における主のことばが記されているのです。

私には無駄だなと思う時間があります。我が家には子どもたちの歯磨きをする時間が決まっています。歯ブラシを用意して、座って「さぁ、歯磨きの時間だよ」と言います。子どもは布団の上を走り回っています。あと2周くらい待ってあげようか。待ってから「歯磨きだよ」と言います。まだこっちに来ないで回ってる。「歯磨き」と言う。3度目、4度目。時計を見て、10分過ぎ、15分過ぎ。「いい加減にしろ!」となるわけです。アモス書に、主のことばを聞くことの飢饉を送る!(アモス8:11)と書いてありますが、主のことばを全く聞かない民に、主がどんな気持ちでついにそう言われたのか分かるようになりました。でも、それだけしても、続けて読んでいくと主のことばがあるのです。そして、さらには、イエス様ご自身が来てくださいました。

どんな場面にも主の語りかけが聖書を通して語りかけ続けています。毎週、御言葉を開きますのに、メッセージが絶えることはないのです。そして同じように教会暦を繰り返しているように思えますが、同じ年は二度ありません。いつもいつも新しいメッセージです。主の深いあわれみ。神の恵みを味わいましょう。

聖書をお開きください。II列王記7:3-15(662ページ)【聖書朗読】

一年を振り返る年末感謝礼拝です。主の御前にある私たちひとりひとりの歩みと、教会の歴史には大きな関わりがあることを、今朝は覚えさせていただきたいと思います。

列王記は第1と第2を合わせて、イスラエル王国の歴史を記した書です。ダビデ王からソロモン王への継承に始まり、イスラエル王国が分裂して、最後はバビロン帝国に滅ぼされ、民が捕囚となるまでを記しています。その途中で、神である主はエリヤとエリシャという預言者を民に遣わして、主に立ち戻るようにと語られました。今日の箇所はエリシャの時代の一場面です。

イスラエル王国は南北に分裂して、バビロン捕囚への道を進んでいました。それが大きな歴史の潮の流れでしたけれども、そのような歴史をまるで気にしていない人たちがいました。いえ、気にしていないというか、彼らの人生にとってはそんなことを考えている余裕もなかったのです。彼らはツァラアトに冒された4人の人たちでした。ちょうどその頃、サマリヤの都はアラム軍によって兵糧攻めにされていました。サマリヤは大飢饉に見舞われていて、本当ならば救援隊による食糧支援が必要なくらいでした。アラムの王はこの時にサマリヤを打ち取ることができると考えて、都を包囲し、兵糧攻めにしたのです。町の中は異常事態となり、人の子どもを食べる人たちさえ出たと書いてあります。

このような場面で人々が考えるのは、どのようにしたら私たちは助かるだろうかということでしょう。兵隊は戦えるだろうか。どのように軍を動かしたら良いだろうか。同盟を組んで、日頃からお金を渡していたあの国は、助けてくれるだろうか。どうやって連絡を取ったら良いだろうか。その国の政策、また実行と結果が記録され、世の中ではそれを歴史として見ていくわけです。

しかし、このツァラアトに冒された人たちは、政策を考える人ではありませんでした。軍隊を動かしたり、政策を実行に移していく立場の人でもありませんでした。彼らは治ることのない病に冒され、町の中で生活できず、城壁の外に隔離されていました。家族が運んでくる食事を食べたり、門の入り口に行くと、今で言う炊き出しのように食べ物を寄付してくれる人たちがいたので、与えられたものを食べることができました。彼らがその日、町の門の入り口にいたのはそういうわけです。彼らは言いました。《「われわれはどうして死ぬまでここに座っていなければならないのか。たとえ町に入ろうと言ったところで、町は食糧難だから、われわれはそこで死ななければならない。ここに座っていても死ぬだけだ。さあ今、アラムの陣営に入り込もう。もし彼らがわれわれを生かしておいてくれるなら、われわれは生き延びられる。もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。」》救援計画や軍事作戦を考える人たちには出てこない発想です。救援隊や兵士には思いつかないことです。彼らは立場も能力も気力もありませんでした。敵であっても、行けば食べ物がもらえるかもしれないじゃないかとただ単純に考えたのです。

ところが、アラムの陣営の端まで来た時、彼らは神である主が民のためにしてくださった大いなる業を目撃しました。アラム人たちはヒッタイトやエジプトの軍隊がイスラエルを助けに来たと思い込んで逃げてしまっていたのです。政策によってではなく、軍事作戦によってではなく、ただ主の御業によって民は救われました。彼らは民全体に対する神の救いを見たのです。こうして彼らは聖書に記録を残す人々となりました。

聖書の中の歴史書と分類されるヨシュア記からエステル記を読んでみますと、私たちが一般に歴史書として馴染んでいる物の見方と、ずいぶん違う見方で歴史を記していることが分かります。世の中では、政府がどのような政策を立てたのか、それがスムーズに出来たのか、反対されて動かなかったのか、結果として、人口が増えたのか減ったのか、景気が上向いたのか後退したのか、文化的に豊かになったのか貧しくなったのか、支持率が上がったのか下がったのか、そのようなことが注目されています。歴史に名を残すとは、国全体の政策に影響を与えたり、その実行を担ったり、多くの人々に影響を与えたりできる立場に立って成果を残すということです。一方で、主の御言葉である聖書が示す歴史は、全くそれと異なります。ぜひ良く注目して読んでみてください。聖書の歴史は、主が民に何を語られ、民はそれにどのように応答したか、その結果どうなったかです。主が民に何をしてくださり、民は主の御前を何を行い、その結果どうなってしまったのかです。

神の民の歴史の中で、今日に至るまでおぼえられている人々はどんな人々でしょうか。その人たちはツァラアトに冒された人、幼い奴隷、やもめ、権利のない女性、在留異国人でした。彼らは、民全体に対する主の大いなる救いを目撃し、神の知恵を教え、主の手足として敵の王を倒し、神の良い知らせを伝えました。彼ら自身が大いなる事をしたのではありませんでしたが、彼らは主が成し遂げてくださったことを目撃し、経験し、証しし、伝えたのです。彼らの存在なしに、神の民の歴史はありませんでした。

王寺教会の歴史。それはどこに現れるでしょうか。教会の計画と活動、その成果でしょうか。いいえ。私たちはそれを歴史とは思いません。それらをいくら眺めていても、聖書的な観点で過去を振り返ることはできません。王寺教会の歴史は、実は群れのおひとりひとりが目撃したこと、経験したこと、証ししておられること、伝えておられることの中で見えてきます。主がこの群れ全体のために、どんなに大いなる御業をしてくださっているかをその中で発見することができるのです。

ツァラアトに冒された4人の人たちは、アラムの陣営で敵がひとりもいないことに気が付きました。こう書いてあります。《ツァラアトに冒されたこの人たちは、陣営の端に来て、一つの天幕に入って食べたり飲んだりし、そこから銀や金や衣服を持ち出して隠した。また戻って来てはほかの天幕に入り、そこからも持ち出して隠した。(8節)》それを自分たちだけのものとしていたのです。しかししばらくして彼らは互いに言いました。《「われわれのしていることは正しくない。今日は良い知らせの日なのに、われわれはためらっている。もし明け方まで待っていたら、罰を受けるだろう。さあ、行こう。行って王の家に知らせよう。」(9節)》罰を受けるとは誰からでしょうか。誰から派遣されたわけでもないし、責任ある立場ではないし、一体誰から?_ 彼らは神である主のことを思い出したのです。「この救いを成し遂げてくださったのは神である主ではないか。私たちだけではなく、町で飢えている人々のために、主は大いなる事をしてくださったのに、私たちはそれを伝えないで、自分たちだけで受けている。」主の御前に心を刺されたのです。これは私たちのためでもあるけれど、あのサマリヤの都に住む多くの人々のために主が用意されたものではないか。私たちには主に対して責任がある。この知らせを伝えなければならない責任があると思ったのです。

今日は教会の歴史という大げさと思える話をしています。年末感謝礼拝なんだから、私の一年をささやかに振り返って、静かに神様に感謝をお伝えしたら、それでいいじゃないのと思われるかもしれません。私たちひとりひとりの今年の経験が、教会の歴史と何の関係があるのでしょうか。そういう壮大な話は総会の日とか、創立記念日とか、何周年記念集会の日とかにしてくださいと思えるかもしれません。しかし、聖書的な観点ではどうなのでしょうか。特別な役割があるわけでもない、立場があるわけでもない、能力や、健康や、積み重ねた年数や、様々な一目置かれる要素が見つけられないような人々も、主の御目には歴史に名を残す人たちなのです。その人たちは群れ全体のために主が成し遂げてくださった大いなる御業を目撃し、経験し、証しし、伝える人たちです。私たち個々人の一年は、私のために主がしてくださったことでもあるし、実は群れ全体のために主が用意してくださったものでもあるのではないでしょうか。「今日は良い知らせの日なのに、われわれはためらっている。」と彼らは言いました。私たちもまた、この一年を振り返りながら、よく考えてみましょう。

主がどんなにあわれんでくださったか。どんなに忍耐してくださったか。どんなに救ってくださったか。どんなに備えてくださったか。どんなにこの群れを愛してくださったか。ひとつひとつ思い出し、ひとつひとつ数え、ひとつひとつ証しして、この良い知らせの日を兄弟姉妹とともに喜びましょう。

お祈りします《彼らは互いに言った。「われわれのしていることは正しくない。今日は良い知らせの日なのに、われわれはためらっている。もし明け方まで待っていたら、罰を受けるだろう。さあ、行こう。行って王の家に知らせよう。」》

天の父なる神様。あなたがなさった奇しいみわざと私たちへの計らいはなんと多いことでしょう。あなたに並ぶ者はありません。語ろうとしても告げようとしてもそれはあまりに多くて数えきれません。

この世界はあなたを忘れてしまい。歴史の見方を失ってしまいました。まるで神であるあなたがどこにもおられないかのように、人の業だけを見て歴史を語っています。しかし主よ。あなたは今年もこの群れと共にいてくださったインマヌエルの神です。あなたがどんなに私たちを愛して、あわれんでくださったか、私たちはそれぞれの歩みの中で発見いたしました。どうしてこの恵みを自分だけのものにすべきでしょうか。主よ、私たちはあなたの祭壇の周りを歩きます。感謝の声を響き渡らせて語り告げます。あなたの奇しいみわざのすべてを。

どうか良い知らせを互いに分かち合い、あなたの救いを兄弟姉妹とともに喜ぶようにしてください。今年最後の週においても、あなたの御心を行うことを教えてください。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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