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2025.11.30 待降節礼拝「この身になりますように」ルカの福音書1:26-38、マタイの福音書1:18-25




今日は第一アドベント礼拝でナザレ会バンドによる賛美の証がありました。街もクリスマスのイルミネーションが飾られてなんだかワクワクする季節になってきましたね(megu)


礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。教会カレンダーの新しいシーズンが始まりました。11月の終わりから6月頃まで、半年をかけて、主イエスの生涯とその御業をおぼえます。4つの区切りがあり、待降節、降誕節、受難節、復活節です。その待降節(アドベント)が今日から始まりました。

待降節とは、キリストである主イエス様が地上に来られることを待ち望む期間です。イエス様は確かに2千年前に地に来てくださって、聖霊により処女マリアからお生まれになりました。イエス様は公に姿を表し、多くの人に語り、多くの人の前で十字架にかけられました。多くの人がイエス様がこの世界に来られたことを知っていたのです。ところが、同じくイエス様を知っていた人々の間でも明暗が分かれました。キリストを待っていた人と、待っていなかった人がいたのです。イエス様は《多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来た(マタイ20:28)》と言われました。イエス様は多くの人のために十字架で血を流してくださったのに、永遠のいのちを受け取ったのは僅かな人たちでした。

聖書はこのように言っています。《神の恵みを無駄に受けないようにしてください。神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(IIコリ6:1-2)》

救いを待っている人はおられますか。その人は幸いです。多くの人のために豊かに注がれている恵み、しかし多くの人が無駄にしてしまっている恵みをその人は見出すことになるからです。救いは神の御子イエス・キリストにあります。

聖書をお開きください。ルカの福音書1:26-38(107ページ)、マタイの福音書1:18-25(1ページ)【聖書朗読】

クリスマスはイエス・キリストの誕生をお祝いする日です。誕生と言いますと、私たちは新しい命が生まれたと考えます。それまで存在しなかったものが、息を吹き込まれて存在するものになるというのが、普通の「誕生」だと思います。ところが、イエス・キリストの誕生は、私たちが身近によく知っている誕生とは、ずいぶん異なる様子だったのです。

マリアとヨセフという婚約中の二人がいました。結婚が決まっていて、マリアは結婚の日を楽しみにしていたことでしょう。ところが、神の使いガブリエルが神から遣わされてマリアに現れ、こう言ったのです。《見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。》マリアは戸惑いました。神からの大きな恵みを受けるということは、ある意味で、私たちを戸惑わせることです。私たちが「これくらいなら遠慮せずに受け取れる」と感じられる領域を越えて、豊かに注がれるからです。マリアが表している戸惑いは、神様の計画に圧倒されてのことだったと思います。ただ、横からこの様子を見ますと、彼女の結婚はどうなってしまうのかと心配になります。もしこのまま天使が告げた通りに、マリアが男の人を知らないままに身ごもるなら、人々から、特に愛するヨセフから疑われることになります。

それからしばらくして、ヨセフはマリアが身ごもっていることに気付きました。18節には《聖霊によって身ごもっていることが分かった》とナレーションがはいっていますが、実際にヨセフが「聖霊によること」を知ったのは20節の天使の言葉を聞いた時です。彼は最初、マリアが何らかの理由で身ごもっているという事実に気が付いたのです。マリアはヨセフに何も伝えていなかったようです。伝えるとしても、何をどう伝えたらよいでしょうか。何か言えば言うほど怪しいという状況だったと思います。ヨセフは何も知りませんので、本当にびっくりして慌てたことでしょう。いったい誰の子どもなのだろうか。裏切られた悲しい気持ちであったに違いありません。それでもマリアがさらし者にされないようにと考えているあたり、ヨセフがマリアを大切に思っていたことが垣間見えます。その後、ヨセフがこのことを思い巡らしていたところ、天使が夢に現れて、マリアの胎に宿っている子が聖霊によると伝えました。「その名をイエスとつけなさい」この言葉は、マリアがガブリエルから言われた言葉と同じでした。またマリアの親類エリサベツが証言したこと、彼女の夫で祭司だったザカリヤが預言したことも大きかったでしょう。いくつかの証によって確証を与えられました。ヨセフとマリアは、これによって神のご計画が自分たちの人生にやってきたことを受け入れることができたと思います。彼らは結婚し、生まれた男の子にイエスと名をつけました。

マリアが神様の大きなご計画の中に巻き込まれていくことに戸惑っていた一方で、ヨセフが二人の関係が失われることと愛するマリアに降りかかるだろう恐ろしい罰を心配していました。興味深い違いではありますが、いずれにしても、二人はこの出来事に戸惑ったのです。「救い主イエス様が来られた」この知らせは、まず始めに私たちを戸惑わせることです。みなさんはどうでしょうか。色々な理由で人々は教会を訪ねてきますが、「イエス様があなたを救うために来られました」と言われて、それは素晴らしいことだけれども、まず最初は戸惑ってしまうのではないでしょうか。

ヨセフとマリアが戸惑ってしまったのは、彼らの人生の中だけでは収まらない大きな大きな話が舞い込んできたからです。イエス様の誕生は、単なる新しい命の誕生ではありませんでした。イエス様自身、後に《アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』(ヨハネ8:58)》と言われました。イエス様は初めにおられたお方です。主と呼ばれたお方が、人となって、天からくだり、世に来てくださったのです。ですから、クリスマスは降誕と呼ばれます。このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことの成就だったのです。主が預言者を通して語られたこととは、旧約聖書のことです。

イエス様はヨセフの子でなければなりませんでした。なぜなら、ヨセフの子であることで、イエス様はダビデの子としてお生まれになったからです。ヨセフの子であることで、イエス様はダビデの町ベツレヘムで生まれることになったからです。マリアとヨセフは、大変戸惑いましたが、世界の初めから何千年にも渡って進められ、また約束されていた神様の計画が、自分の人生に関わってくることを受け入れました。

今日から始まった待降節は、イエス様の降誕を待つという意味です。何も知らなくて突然来るものを待つことはありません。来るよと知らされていたから待っていたのです。イエス様のお誕生は聖書の3分の2のあたりで出てきます。それより前、3分の2の部分を旧約聖書と言いますが、この旧約聖書全体は待降なのです。この旧約聖書は読んでいただくと分かりますが、誰かがコタツで思想したものをまとめたものではありません。現実の歴史で起こってきた出来事を記しているのです。歴史学的、考古学的に現実の出来事であることが証明されています。世界には宗教の教祖、神と崇められている人が数多くいますが、何千年にも渡って予告があったうえで、その数ある約束をことごとく果たして、約束通りに来られたお方は、イエス様の他に誰一人としていません。平凡に生まれた人が、ある日、神の啓示を受けて特別な人間に変わったという話は山程あります。しかし、何千年にも渡って準備され、その通りに生まれてこられたお方は、イエス・キリストだけです。

マリアもヨセフも、ユダヤ人として旧約聖書を知っていました。彼らの民族にどんな歴史があるのか知っていました。預言者たちが告げた主のことばを知っていました。救い主キリストが来てくださることを知っていました。しかし、それでも彼らは戸惑ったのです。そのような大きな神の計画がまさか彼らの人生に深く関わってくるとは考えていなかったのです。

世界に住むほとんどの人は、ただ自分と家族の人生を考えています。着るもの、食べ物、住むところに困らないで済むように。欲しいと思ったものがいつでも手に入るように。行きたい場所にいつでも行けるように。やってみたいことが自由にできるように。痛みがないように。心配や不安がないように。関わる人々とトラブルが起きないように。人から尊敬されるように。人から愛されるように。自分の人生がそうであるように、親や兄弟、子どもたちの人生がそうであるように。

しかし、みなさん、今日、聖書の言葉があなたに語られました。「おめでとう、恵まれた方(みなさんのことです)。神である主があなたとともにおられます。」「恐れることはありません。あなたは神から恵みを受けたのです。御子イエス・キリストの十字架の贖いによって、あなたの罪の代価は支払われました。主イエスを信じるときに与えられる永遠のいのちが、あなたのために用意されています。」_

マリアは御使いのことばにひどく戸惑って、考え込んでしまいました。その様子を想像できるでしょうか。ヨセフと結婚して、やがて子どもが与えられ、平凡にそれなりに暮らし、神に感謝しつつ幸せに一生を終えると漠然と思っていたでしょうか。あまりにも大きな話が(知ってはいましたけれど)自分の人生に関わる形で実現すると知らされたのです。ヨセフとマリアの人生はこれによって変わってしまいました。婚約中だった二人にとって離別の危機でした。男の子が生まれると、エジプトに逃げなければいけない命の危機がありました。やがて、彼らの愛する子イエス様は、不正の裁判にかけられて死刑に定められ、マリアの目の前で十字架にかけられて死ぬことになりました。

それでもヨセフとマリアは、神様の救いの計画が彼らの人生に起こることを受け入れ、最後までその道に生きたのです。ヨセフは夢を見たあとでもひそかに離縁することはできたし、マリアも子どもを産んだあとでお世話しないで放り出すこともできたでしょう。しかし、何千年にも渡って準備されてきた神の計画を、彼らは自分たちの人生に受け入れました。

あなたはどのように聖書に応答されますか。「おめでとう、恵まれた方」と言われたって戸惑うでしょう。それはそうです。自分の人生をはるかに超える大きな神のご計画が、突然自分の人生にやってくるのですから。さぁ、どうしましょう。「こんなこと受け入れたら私の人生が狂ってしまう」と考えて無視しますか。それともヨセフとマリアのように、神の恵みを受け取りますか。神の御子イエス様があなたを愛しておられるがゆえに、ご自分のいのちを十字架の上で与えてくださったのです。どうか神の恵みを無駄にしないでください。

今年の王寺教会のクリスマスのテーマは、「来て見て聞いて:愛と希望のクリスマス」です。イエス様があなたの人生に救い主として来てくださったことを実際に体験してほしいと願って、このようなテーマを掲げました。聖書の福音は、読んで分かっただけでは何の意味もありません。温泉は気持ちいいですよとパンフレットを見て、読んでいても、実際に湯に浸かって身体が温まる経験をしなければ意味はないでしょう。断絶されていた神様との関係が回復されるよ。永遠のいのちが与えられるよ。読んで「そうか」と思っても、何にもなりません。それを確かに受け取らなければ、意味はないのです。「教会はキリストのからだです」と聖書に書いてあります。今、現在、目に見えるキリストのからだです。イエス様があなたの人生来てくださったことを受け入れる方は、どうぞ教会に来てください。

お祈りします《マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」》

天の父なる神様。はじめにおられ、天と地を創造し、人を形作って、いのちの息を吹き込まれたお方。私たちの主よ。

はじめからおられた主であるお方が、私たちを救うために、人となって世にきてくださいました。その恵みは、歴史的なものであり、この世界の現実です。しかし、私たちの日常の視野からすると、あまりにも壮大な話であり、戸惑いをおぼえます。どうかマリヤとヨセフのように、あなたの救いを受け取る者としてください。

あなたは良いお方です。あなたに従って歩むなら、あなたがお受けになる苦難を私たちも共にすることになるでしょう。しかし、その道は永遠のいのちの道です。インマヌエル。神が私たちとともにおられる。それが何よりの幸せです。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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