礼拝説教 中尾敬一牧師
おはようございます。待降節の2週目に入っています。兄弟姉妹と共に主を待ち望みましょう。
私たちは生きていく上で色々なものを必要としています。衣食住は基本的な必要です。またいくら物が整っていたとしても、人間関係が平和と愛と尊重に満ちていなければ、生きていくのは難しくなります。そして、人にとって最も重要で欠かせない必要は、神である主との愛の関係です。いくつかの必要は、満たされない時期があっても、何とかなります。お腹が空いたなと思っても、家に帰ったらご飯があると思えば、何とかなります。もちろん、妻と仲が良くて、帰りを待ってくれていて、美味しいご飯を作ってくれているという前提がありますけれど。でも、たとえ妻と喧嘩しても、主が回復を与えてくださって、愛が深まることがあるのですから、希望があります。
どうしても、一瞬たりとも欠かすことができない必要があります。それは主との関係です。なぜなら全ての備えと救い、癒やしは神である主から来るからです。ですから私たちはどんな時にも主を待ち望むのです。
子育てをしていてあることが分かりました。親が愛する子どもに最良のものをあげようとするとき、時に子どもたち自身が望まないところを通らせなければならないということです。健康にすくすく成長してほしいと栄養満点の食事を作っていたら、夕方のお菓子を少しだけにしようと言うことがあります。悪者から守られて自由に生きられる力がつくようにと思っているなら、ちゃんと宿題をしなさいと言うことがあります。子どもたちは嫌がって泣くこともありますが、それは親の愛でしょう。
主が私たちを山の上に連れて行こうとされ、私たちが付いていくと、同じ木に囲まれた登り坂、、。付いてこなければ良かったと思うかもしれません。しかし、やがて眺めの良い稜線に出て、山に登らなければ見ることができなかった素晴らしい景色に息を飲むでしょう。私たちを変わらずに愛してくださる主こそ、人生に一時も欠かすことが出来ない必要です。主を待ち望むとは、何と幸いなことでしょう。
聖書をお開きください。マタイの福音書2:1-23(2ページ)【聖書朗読】
クリスマスは降誕節とも呼ばれます。主イエス様は、創世記1:1の時点で、すでにおられたお方でした。ヨハネの福音書にはこのように書いてあります。《初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。(ヨハネ1:1-3)》この方とはイエス様のことです。イエス様は聖書の歴史の3分の2が過ぎたところで、天を離れ、人となって処女マリアからお生まれになりました。
そういうわけですから、神である主に選び出され、主の民として数千年の時を歩んできたユダヤ人たちは、このお方を知っていたのです。イエス様が降誕される前から、主を知っていて、キリストが救い主として来てくださることを待ち望んでいたはずでした。
ところがイエス・キリストがお生まれになったとき、実際には何が起こったでしょうか。今日の箇所にはヘロデ王と、東の方から来た博士たちが登場します。ヘロデ王はローマからユダヤ人の国を任されたユダヤの王様です。神である主を知っていて、キリストが来てくださることを待っているはずの側の人です。一方で東の方から来た博士たちはユダヤ人ではありません。メソポタミアの方からやってきた異邦人です。旧約聖書時代からイスラエルの神であられた主を、知っているはずがない側の人たちです。
ところが、マタイの伝えるところによると、東の方から来た博士たちがイエス様を礼拝しに、はるばるやってきました。彼らはキリストの星が上るのを見たのでやってきたのです。一方でユダヤ人の王様であったヘロデは、都から目と鼻の先(10km)にあるベツレヘムで、キリストがお生まれになったことなど全く気が付かず、気が付いた後には、なんと殺してしまおうとしたのです。
博士たちはイスラエル民族とは関係のない人たちでしたので、旧約聖書で預言者たちが伝えた主のことばによって、イエス様を知ったのではありませんでした。旧約聖書を読めば、憐れみ深い主がキリストを遣わし、民をお救いになると預言されており、イエス様の降誕を知る手がかりになります。しかし彼らは旧約聖書を読んだのではありませんでした。星を見たのです。古代バビロニアが発祥と言われていますが、かつて占星術と呼ばれる学問がありました。メソポタミア人たちは、天で起こることが未来の前兆であると信じていたようです。天体観測をして、星の動きと国家や王家の行く末を結びつけたのです。現代にも天文学がありますが、これは科学であって、天体の様子と人間の行動を結びつけることはしません。しかしながら、科学が現代の学問であるように、占星術は当時の学問だったわけです。博士たちは最先端の学問によって、特別な星が昇るのをみて、礼拝すべき方がお生まれになったと知って、東の方からやってきたのです。
クリスマスはキリストの誕生をお祝いする日。だいたいの人はそのくらいは知っています。テレビをつければ、ケーキだとか、ケンタッキーチキンだとかクリスマスのCMがながれます。ショッピングモールに行けば、入口にクリスマスツリーが飾られていて、クリスマスの讃美歌が流れていて、毎年おなじみのお祝いシーズンになっています。どこの宗教でもお構い無しに歓迎して、お祝いしてしまうのは、さすが八百万の神々をもつ日本らしいなと思うかもしれません。しかし、教会に来ると、ちょっと違うんです。教会にはクリスマスを楽しく賑やかに過ごそうとする人ではなく、イエス様を礼拝している人たちがいます。だから教会に来たらビックリすると思います。「え、本気でやってるの?」そうなんです。本当にイエス様を礼拝しています。「なんで日本に住んでいるのに、日本の神を拝まないで、ユダヤ人の神を礼拝しているのか。」このクリスマスの出来事に答えがあります。新約聖書は、はっきりと書き記しています。ユダヤ人の王としてお生まれになったイエス様は、ユダヤ人だけでなく、(いやむしろ、ユダヤ人たちはイエス様を拒否したので)ユダヤ人以外のすべての国の人々に礼拝されるお方であるということです。神である主は、ユダヤ人ではない私たちを、「わたしの民」と言われます。私たちは、このお方を「私たちの神」と呼んでいます。
東の方から来た博士たちは星を見て、イエス様のところにやってきました。自分たちの学問に従って、イエス様を見つけました。教会には、色んな人が様々な理由でやってきます。旧約聖書を読んでいて、私が礼拝すべき神様がここにおられると分かったので教会に来ましたという人はほとんどいません。少なくとも私は会ったことがありません。今ここでクリスチャンとして礼拝している方々も、かつてはそれぞれの星を見て、何らかの自分の関心に従って教会にやってきたのです。今も昔も、神様はあなたをそのようにして、御前に導かれるのです。そういえば何で私は教会に来ているんだろう。不思議なことだなとふと思うこともあるかもしれません。でも、不思議なことではありません。星に導かれて、ここにやってきたのです。イエス・キリストは外国の神ではありません。あなたの神です。
イエス様は、ユダヤ人の王として預言されて、降誕されました。ですから、さぞかしユダヤ人たちは喜んだことでしょう、と思いますよね。ところがどっこい。ヘロデ王は動揺し、エルサレム中の人々も動揺しました。ユダヤ人には別の王様がいたからです。ヘロデ大王というローマ帝国に認められた王様がいました。そしてそのヘロデ王はいわゆる暴君だったのです。妻を殺し、復讐しようとした息子たちも処刑しました。「ヘロデの息子になるより、ヘロデの豚になったほうがましだ」という言葉があります。豚はユダヤ人にとって汚れた動物であり、決して食べることがなく殺されなかったので、ヘロデの息子であるより、豚であったほうが安全だということです。またヘロデ王は「私が死んだ時には、すべての家の年長者を殺すように。私の死を喜ぶやつがいてはいけない。人々を嘆かせよ」と言ったそうです。何ということでしょうか。ヘロデ王が気分を害すると、碌なことになりませんでした。だからエルサレム中の人々は、ユダヤ人の王がお生まれになったという知らせに、動揺したのです。現にヘロデ王は、幼子イエス様を特定できなかったので、ベツレヘムとその周辺一帯の2歳以下の男の子をみな殺させました。およそ1000人がその地域に住んでいて、20人程度の男の子たちが殺されたのではないかと言われています。
私たちはクリスマスのニュースをどのように聞くでしょうか。イエス・キリストが王として来てくださった。「これは厄介なことになったぞ」と思うでしょうか。私たちの王様がお生まれになったということは、良くも悪くも私たちの人生を変えてしまう出来事です。王は民に命令することができるからです。イエス・キリストが来なければ、私自身が王様かもしれませんし、あるいは私に影響を与えうる恐ろしい誰かが王様かもしれません。イエス様を受け入れるなら、現状維持はできないということです。現状から王が変わることになります。
しかし、たとえ「厄介なことになりそうだぞ」と感じたとしても、主イエス様を本当の王としてお迎えなさることをお勧めします。このクリスマスの出来事の他に、イエス様がユダヤ人の王として多くの人々に見られた日がありました。それはイエス様が十字架にかかられた日です。イエス様がかけられた十字架の上には、ローマ総督ピラトによって書かれた札が掲げられていました。その札には「ユダヤ人の王イエス」と書かれていました。それもヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていて、周辺の国々からエルサレムに集まった人々がみな読めるようになっていたのです。イエス様はユダヤ人に拒まれた、ユダヤ人の王であり、それゆえに、あらゆる国々からイエス様の御元に導かれてきた人々の本当の王なのです。王様といえば、恐怖によって民を振り回す存在でした。しかし、本当の王であるイエス様は違ったのです。「恐れることはない」と弟子たちに語りかけるお方でした。私たち自身が受けるべきであった恐怖を、イエス様自身が代わりに負い、私たちに平安をもたらしてくださいました。
イエス様を信じようとするなら、厄介なことを乗り越えなければなりません。ヘロデ王が激怒するだろうと予想できるでしょう。厄介だからと現状を維持し続けるなら、いつまでもヘロデ王の支配下で怯え続けることになります。しかし、イエス様を私の王、私の神としてお迎えするなら、ヘロデ王が脅してきても、主が私たちの盾となってくださいます。それを乗り越えれば、あなたを愛しておられるお方、自らの命をも惜しまずあたえるお方の御翼の下にかくまわれて、安心して歩むことができるのです。
星を見て、星に導かれてやってこられたみなさま。その星がとどまったのは教会の上でした。ついにここにきて、あなたが礼拝すべきお方が見つかったのです。そのお方は、主イエス・キリストです。
お祈りします《すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。》
天の父なる神様。かつてイスラエルの民が荒野を歩んだとき、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれたお方。また異邦人である私たちを星によって導かれる主よ。
私たちはユダヤ人の国から遠く離れ、聖書の預言など縁もゆかりも無いところで生まれ育ちました。聖書は全く私たちの関心事ではなく、かつて東方の博士たちが熱心に星を見ていたように、私たちそれぞれの関心事に目を留めていたのです。しかし、あなたは星によって私たちを導いてこられました。どういったわけか、神である主を礼拝する人たちの群れにたどり着いたのです。この群れは神の家族と呼ばれていました。ここは神の家でした。家に入って、イエス様がおられることを知ったのです。
私たちはあなたを前にして、どうすべきでしょうか。私たちは、ひれ伏して礼拝します。あなたは私たちの罪を背負ってくださった、私たちの王、私たちの神です。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。



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