礼拝説教 中尾敬一
おはようございます。今朝は第3のアドベント礼拝をこどもたちと共に祝っています。こどもたちと共に、あらゆる年代の家族たちと、一緒に主を讃美し、祈り、掟を学び、主に従うこと。これが礼拝の本来の姿です。旧約聖書には、父の家が一緒に神である主を礼拝するべき様子が描かれています。
ところが時が経つうちに、かつては生活の一部としてあった礼拝が、段々と宗教に変わってしまいました。生活の中に礼拝が織り込まれているのではなくて、神を離れた自分本位の生活をサポートするために宗教的な礼拝を守るということになってしまいました。イエス様はこのことを指摘して、パリサイ人や祭司長たちを非難されました。イエス様は《「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」(マタイ19:14)》とおっしゃいました。そして手を子どもたちの上に置かれ、祝福されたのです。
子どもたちには、“礼拝の守り方”を教えるのではなくて、礼拝の意味を教えなければなりません。生きておられる主が私たちと共におられることを教えなければなりません。もちろん年代に合わせて形から入る方法はありますが、それは方法(手段)であって、目的ではないのです。
この世は、祝福が無くならない人生を求めよと教えます。祝福は花が咲いて枯れていくように、一時的なものです。物にしても、人間関係にしてもそうです。ですから、花が枯れる前に、急いで次の花を植えて咲かせなさいと世は教えるのです。その教えのせいで、人々は自分の花が枯れているのに気付くとパニックになってしまいます。しかし、聖書はそのように教えません。祝福が失われた時に、祝福を切望してはいけないよ。一時的なものでは、一時安心しても、次の不安がもっと大きくなり、やがて手を付けられなくなるよと教えてくれているのです。「祝福が失われていても、物がなく、人間関係がズタボロであっても、その最中で平安をもたらすことができる主イエス様に人生の錨を下ろしなさい。そうすれば、祝福を切望する人生ではなく、祝福が追いかけてくる人生になります。」私たちは子どもたちに、このことを教えていきましょう。クリスマスは、神様の愛と希望を教えるのに、相応しい季節です。
聖書をお開きください。ルカの福音書2:1ー20(110ページ)【聖書朗読】
クリスマスのとき、ユダヤの国のガリラヤ地方の小さな村ナザレ出身の処女マリアに聖霊によって男の子が宿りました。ガリラヤ地方とは、奈良県で例えれば吉野郡のような地方です。マリアはそこの小さな村(町と書いてありますが、現代の感覚で言えば村)の出身でした。かたや、正式に婚約中のヨセフは、ガリラヤ地方でマリアと出会ったようですが、もともとはダビデの子孫であり、戸籍はダビデ王の出身地ベツレヘムにありました。当時、彼らの国の婚約とは、現代の状況に置き換えれば、結婚届を届け終わって、これから結婚式を準備していくというような段階でありました。
そのような段階で、突然、ローマ皇帝からの御触があったのです。「ローマ皇帝中の住民登録をせよ」という命令です。最近、国税調査がありました。今ではスマホでQRコードを読み取って、順番に入力したら5分で終わります。でも、2000年前には、そんなことはできません。自分の戸籍がある場所に、期日までに戻って、登録を済ませなければ、恐ろしいローマ皇帝の罰が加えられることになります。マリアはもう出産予定日が近付いており、動物に乗って旅をするなどもってのほかでしたが、皇帝の命令は絶対なのです。
なんとか旅が守られ、ベツレヘムに到着しましたが、ローマ帝国中から人が集まってきたのですから、もう宿屋には場所がありませんでした。そんな中で、マリアは月が満ちて、男の子を産み、その子を布に包んで、飼葉桶に寝かせました。
《さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をして(8節)》いました。ダビデの町ベツレヘムにいる羊飼いと聞いて、何か思い出しませんか。_ 旧約聖書に出てきたダビデ王です。ダビデ王はイスラエルの王になる前、羊飼いをしていました。8人兄弟の中で末っ子で、戦いにも行かせてもらえず、羊の番をさせられていました。しかし、主はダビデの心を見て、彼を王に選ばれました。それ以降、主はイスラエルの王たちを牧者(羊飼い)と呼ばれました。羊飼いとは、神である主の目には、王様に相応しい心をもった人たちでした。
ところが、世の人々は、王様が羊飼いのようであるなんて、全然ピンときません。羊飼いの心が王に相応しいとは全く思っていませんでした。それどころか、羊飼いなんて社会の底辺じゃないかと、見下していたのです。
天使が現れ、天の栄光が周りを照らし、讃美の合唱によって、キリストの誕生の知らせが、羊飼いたちに知らされた!これは旧約聖書から物語を追ってくると、すんなりと流れが繋がります。しかし、神の物語から外れてしまった世の見方からすると、なぜヘロデ王ではなく、ローマ皇帝ではなく、野宿をしている羊飼いたちなのかと思うわけです。主がまず羊飼いたちに目を留め、救い主キリストがお生まれになったことを真っ先にお知らせになったことは、自然なことでした。彼らは国中の人々を主に導く王に相応しい役割を担う人々だったからです。
この世界をお造りになった神である主の目に、尊く高価である人々が、尊敬されず、見下されていることがあります。主が愛をもって造ってくださった世界は、人の悪によってひっくり返ってしまいました。私たちは悲しみ、恐れています。世が定める基準に従って、うまくやっていなければ、辛くひどい目に合わされるからです。神がお造りになった世界はこうではなかったのに。_ 知的能力があり、他者の協力を取り付け、意見をはっきり言って行動し、成果を出して影響力を高め、人の心を動かすような人々が高められる世界になってしまいました。いかにして、天まで届くバベルの塔を作れるか。創世記から何千年経ったというのでしょうか。人類はいまだに同じ事を続けています。主を恐れる人々、主のみこころにかなう人々は、悲しみ、恐れていました。
しかし、主は御使いを遣わし、良い知らせを届けてくださいました。主がお造りになられた秩序が、シャロームが取り戻される時が来たのです。《「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(14節)》底辺か上級国民か、成功者か落語者か、有名人か一般人か、金持ちか貧乏人か。それらの世の秩序は、救い主キリストの到来によって、打ち崩され、平和・平安・神の秩序が取り戻されたのです。
さて、この後、羊飼いたちはベツレヘムまで行って、マリアとヨセフと飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てました。最後は、神をあがめ、賛美しながら、元の場所に戻っていきました。_ あれ?何が変わったのでしょうか。救い主が来て、救い主がいるのを捜し当てて、それで?また元の場所に帰っていった。一体どういうことでしょうか。
このことを思い巡らせていた時、私は以前にある人からかかってきた電話のことを思い出しました。その方は、色々なことで怒っていて、話を聞いてくれと電話をかけてこられたのです。色々なことがあったわけですが、そのひとつとして、こんなことをおっしゃいました。「私は1年前に洗礼を受けたけれども、何も起こらないし、何も変わらないね。洗礼なんか意味なかった。」プンプン怒っておられました。似たような例は沢山あるのではないでしょうか。一生懸命に祈っているのに主人が不倫をやめてくれない。聖書を欠かさず読んでいるのに、息子がアルコールをやめてくれない。礼拝に一生懸命通っているのに、まだ職場で陰口に悩まされ続けている。いつも讃美しているのに、姉とはまだ仲良くなれない。奉仕を頑張っているのに、私に声をかけて友達になってくれる人がいない、結婚相手が見つからない。まだ私は悲しいままだ。まだ私は苦しいままだ。
羊飼いたちは、主が知らせてくださった出来事を見に行きました。そして飼葉桶に寝かせられているみどりごのイエス・キリストを見つけました。それから、神をあがめ、賛美するようになったのです。どのようにしてでしょうか。彼らが帰っていった後で、人々は羊飼いたちを王様のように尊ぶように変わったでしょうか。変わらなかったでしょう。彼らは相変わらず人々から見下されたでしょう。辛い目にも遭い続けたでしょう。しかし、彼らは赤ん坊のキリストを見つけて、「ああ、これか、でも私たちには何も変わらないね」とは言わず、神をあがめ、賛美する人になって帰っていきました。
どのようにして。イエス様と出会ったことによってです。イエス様はガリラヤ地方で生まれる予定だったお方でした。もしガリラヤ地方でお生まれになったのだったら、羊飼いたちが会いに行けたはずがありません。でも、救い主は私たちのところに来てくださいました。天使は言いました。「あなたがたのためのしるしです」何のしるし?私たちのための救い主であるしるしです。神である主が私たちを愛しておられるしるしです。「地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」その約束は本当でした。神である主キリストが本当におられるのを捜し当てたので、本当だと分かりました。平和・平安・神の秩序が私たちのために本当に与えられたのです。見ると、そのキリストはみどりごでした。ですから羊飼いたちは、みどりごが成長するまで時間がかかることは分かったでしょう。その約束はここで今すぐではないと分かったはずです。でも、それは単に時間の問題でした。いつか、もう間もなくその日が来るという確かな希望がありました。
羊飼いたちは、もはや恐れていませんでした。痛みの中で生きていける力を持つ人になったのです。そう、イエス様と出会うとはこのようなことです。世の人々は、痛みの中で生きる力がありません。痛みに対してパニックになるのです。うめいたり、叫んだり、怒ったり、暴れたり。「嫌だ嫌だ!こんな痛みは嫌だ!」痛みは癒やされなければ一瞬も平安を保てません。一時的な癒やしでも何でも、とにかく鎮静化さなければいけません。精神を落ち着かせる薬や、専門家のカウンセリングは痛みを和らげる方法です。でも痛みの中で生きる力は与えてくれません。だからお医者さんはこういうのです。「上手に付き合っていきましょうね。」それは果たして救いなのでしょうか。まるで絶対に治りはしませんと言われているかのようです。
しかし、主イエス様は本当の救い主です。神である主があなたを愛しておられると分かったとき、あなたは痛みの中でも生きる力を得ます。もうパニックになって、怒ったり、叫んだり、暴れたり、死んでしまいたいと思ったりする必要がなくなります。相変わらず人々は羊飼いたちを見下すでしょう。優しく扱ってくれないでしょう。帰っていけば前と同じ生活です。もちろん心は痛みます。でも、決して変わることのない主に愛されていることを知れば、パニックにならないで済みます。パウロはこう言いました。《私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。(IIコリ4:8-9)》
そしてその痛みは、やがて主の日に、必ず、完全に消え去るのです。これが本物の希望です。この希望があるからこそ、痛みの解決を、主が成してくださる最善の時(実は一番早い時)に委ねて手放すことができるのです。十字架にかかってくださったイエス様のように。
あなたもそのような人生に変えられたいと思いませんか。今日痛みを繕うことができても、明日を心配し続けるような人生ではなく、痛みの中で、共にいてくださる愛する主にあって力強く生きる人生を歩みはじめませんか。
お祈りします《御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。》
天の父なる神様。愛によって義と公正を行われるお方。貧しい人に良い知らせを伝え、捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるお方。私たちの救い主よ。
あなたは私たちのために来てくださいました。救い主として、私たちの贖い主として、私たちに神の平安を与えるために来てくださいました。解放されることが分かりました。癒やされることが分かりました。敵は退けられることが分かりました。負い目は赦されることが分かりました。ここで今すぐでなくても、それは確かに定められた未来であると分かりました。貧しい人たちは幸いです。今飢えている人たちは幸いです。今泣いている人たちは幸いです。人々に憎まれ、排除され、ののしられ、悪しざまにけなされるとき、私たちは幸いです。それは一時の過ぎ去るものであるからです。あなたが私たちを愛しておられることが分かりました。痛みはやがて完全に消し去られるものであることが分かりました。もはや、嫌がってパニックになることもありません。私たちは痛みを嫌がって他人を害する者ではなく、痛みの中で生きて他人を愛する者に変えられました。イエス様、あなたのように。
《良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。》今週も、私たちを神の救いを告げ知らせる者として用いてください。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。



0 件のコメント:
コメントを投稿