礼拝説教 中尾敬一牧師
おはようございます。宣教月間の4週目の聖日です。私たちはこの朝も、使徒信条に告白されているように、私たちの罪のために身代わりに死に、よみがえってくださった主イエス様を宣べ伝えています。
ところで、イエス様は宣教が伝える人の伝道によるだけで成り立つものではないことを教えてくださいました。伝えられた人の側にも受け取り方があるのだとおっしゃいました。種を蒔く人のたとえ話があります。みことばを聞いても悟らないなら、道端に落ちた種のように鳥がやってきて種を食べてしまいます。イエス様のことばを聞いたなら、気にかけて受け取り、信じて従わなければなりません。後にしておこうとそのへんに置いておいたら、忘れ去ってしまいます。またみことばを受け取っても忍耐がないなら、みことばのために困難や迫害が起きると、すぐにつまずいてしまいます。岩地に落ちた種のように、根が十分に伸びていかず、太陽の熱に焼かれてしまいます。またみことばを聞いても、一心にイエス様に心を向けていないなら、茨の中に落ちた種のように、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさいでしまいます。永遠のいのちは、災害によって無くなってしまうものではないし、富と交換することはできません。みことばを聞いて悟るなら、良い土に撒かれた種のように、鳥に食べられることなく、根をしっかりと伸ばし、茨に邪魔されることなく、目を出して成長し実を結ぶことになります。
福音を伝えられたのなら、忘れ去る前に、困難や迫害があっても、思い煩いや誘惑に目をやらないで、主イエス様のことばをしっかり受け取り、信じて従うことです。永遠のいのちがすでに用意されています。神の宣教は伝える人がいなければ始まらないのですが、受け取る人がいなければ完成することはないのです。
聖書をお開きください。ヨハネの福音書5:1-18(184ページ)【聖書朗読】
今日はベテスダの池でイエス様と出会った38年も病気にかかっていた人の話です。
ユダヤ人の祭りがあったと書いてあります。福音書において「祭り」とは、巡礼の礼拝を意味しています。エルサレムという都に大きな神殿がひとつあるのですが、ユダヤ人たちは年に3回、決まった時に、帝国中からエルサレムに旅をしてきて、エルサレム神殿で動物の生贄をささげて礼拝をするのです。四国にもお遍路と呼ばれる巡礼がありますね。神殿や寺院に出かけていって礼拝するのが巡礼です。イエス様もまた祭りのたびにエルサレムに旅行しておられました。
そんな中で、イエス様はベテスダの池を通られました。その池はエルサレム神殿の門から目と鼻の先(数百メートルほど)のところにありました。その池の周りは、ぐるっと取り囲むように5つの回廊がついていて、そこには病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていました。どうやら、その池では病気が癒やされる奇跡が起きると言われていたようです。
イエス様がそこに来られた時、大勢の人が回廊に横になっている中で、一人の人に声をかけられました。38年も病気にかかっている人でした。38年とは本当に長い期間です。彼はどのようにして人生を過ごしてきたのでしょうか。どのような苦しみがあったのでしょうか。彼と同じように長年、苦しみを抱え続けている方はおられるでしょうか。
医者が匙を投げた病気も治ると噂になっていた池に集まっていた人たちにとって、病気や障害は最も大きな人生の問題でした。これが治ることなしに他のことは何も考えられないし、何もすることができないと思っていたでしょう。彼の言葉から伺い知れることがあります。《「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」(7節)》彼の考えは病気のことで完全に固まっていて、それが治る方法も「たったひとつ、この池の奇跡で治るしかない」と思い込んでいました。「天使が水を動かした時に、誰よりも先にこの池に入らなければならないんだ。でも自力では出来ないから、誰かが私と一緒にこの場所でじっとその瞬間を待っていて、その時に私を担いで水に入れてくれなければ。何とかして、そうしてくれる人を見つけなければ」と思っていたのでしょう。長年抱え続けてきた苦しみに縛られてしまって、周りの人が首を傾げるようなことに、「これは絶対こうなれなければならないんだ」と固執し、結局誰からも相手をされないということがあるのではないでしょうか。
イエス様は驚くことをなさいました。イエス様は彼に言われました。《「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した》のです。イエス様の癒やしは、彼が38年間苦しめられて、これが解決法だと思い込んでいたのとは異なる方法でした。治癒の力があると噂されていた池によってではなく、イエス様はご自分の言葉によって、彼の病を癒やされたのです。あなたが抱える問題の解決はどこにあると思いますか。
病気がすっかり癒やされた男性でしたが、実はイエス様は彼の病に一番の問題があるとは考えておられませんでした。あの時、池の回廊には大勢の人たちが横になっていました。病気がこの世界の一番の問題であるというなら、イエス様はひとり残らず癒やして行かれたでしょう。しかし、主はそのようになさいませんでした。病気や障害以上に、私たちが人生の最大の問題として心に留めるべき事柄があるのです。
イエス様はこの男性の病を癒やされると、その場を立ち去られました。彼はその事をそれほど気にしていなかったようです。それよりも38年苦しめられた病気がすっかり良くなって、嬉しくなっていたのでしょう。他の人たちに、《「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」》と言われて、「はて」と思いました。癒やしてくれた人が誰であるか知らなかったのです。イエス・キリストを知らないということ、これは大きな問題なのです。
今日の箇所の出来事には、「罪」について対称的な見方が示されています。ユダヤ人たちが考えていた“罪”、そしてイエス様が指摘された本当の「罪」です。ユダヤ人たちは、安息日に床を取り上げて歩いている、また安息日に床を取り上げて歩くように言った人がいると気が付きました。彼らにとって、安息日に床を取り上げて歩いた人と、またそうするように言ったイエス様は“罪人”でした。神が定めたルール(律法)を守っていないではないか!と言うのです。18節にはこう書いてあります。《ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。》
しかし、イエス様が安息日の本来の意味をよく知っておられ、神のみ心に背くことは一切しておられませんでした。それは旧約聖書をじっくり学んでみるとよく分かります。今日はその話を深く掘り下げませんけれども、イエス様は安息日に神である主がなさるに相応しいことをしておられたのです。安息日とは、「神である主がこの世界を造られたことを覚える日」「主が私たちの日々の糧を恵みによって備えてくださることを覚える日」「しもべたちが主人の支配から守られて、仕事をしなくても良い日」「負い目(負債、借金)が赦される日」です。だから自分の人生を自分で成り立たせようと仕事することはやめて、神である主に目を向けなさいと言われたのです。ところがユダヤ人たちは「仕事をしてはならない」という部分しか話を聞いていませんでした。「それがルールなんだ。ルールを守れば神様に喜ばれるんだ」と思っていたわけです。彼らの考えによるとナザレのイエスは大変な罪人であり、殺すべきだと考えるほどだったのです。
しかし、罪とはそのような事を指すのではありません。イエス様は後になって、エルサレム神殿の中で癒やされた人を見つけました。後というのがどれくらい後なのか分かりませんが、少なくとも池で癒やされて、神殿で再会したのですから、数時間から数日は後のことでしょう。本当に病が良くなったのか確かめるに十分が時間があったと思います。イエス様は言われました。《見なさい。あなたは良くなった。》この時、彼はあの日イエス様が言われた言葉「良くなりたいか」を思い出したでしょう。あの会話はちょっと噛み合っていませんでした。「良くなりたいか。」「主よ。池の中に入れてくれる人がいません。」「起きて床を取り上げて歩きなさい。」良くなりたいのはそうでしたが、彼の答えは「池の中に入れたら何とかなるんだけど」、イエス様の招きは「わたしのことばを信じて従いなさい」でした。噛み合っていませんね。でも彼はイエス様の言われたとおりにしてみました。それから後になって「見なさい。あなたは良くなった」とイエス様が言われたのです。あなたが思い込んでいた方法ではなく、わたしに従ったら良くなったでしょうとおっしゃったのです。
イエス様は続けて言われました。《もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。》彼が抱えていた本当の問題は、イエス様が誰であるか知らなかったということです。神であり、主であるお方を知らなかったということです。「神を知らないことが罪だなんて、全然そんな気にならないよ。罪悪感なんて全然感じない。例えば、約束を守れなかったとか、世話すべき人をお世話しなかったとか、任された仕事が十分に出来なくて周りに負担をかけてしまったとか、怒って誰かを傷つけてしまったとか、困っている人を助けなくて後で思い出したとか、そんなことがあれば罪悪感を感じて、私は悪い人間だなと思うこともあるけれど、神を知らなかったら、それが一体何なのだ。私は何も感じない。」このように思っている人は沢山いるのではないかと思います。聖書は、私たちにいのちを与え、愛と恵みをもっていのちを支え続けておられる神である主を知らないこと、また神を離れて自分の知恵に従って歩み続けることを罪だと言っています。
38年も病に苦しめられていた人を癒やしたのは、あの池だったのでしょうか。いいえ、主イエス様でした。彼はこの度、大きな病から癒やされましたが、次に困難がやってきた時、何を探したら良いのでしょうか。第2のベテスダの池のような、次の困難に救いを与えてくれる何かをまた探すのでしょうか。そんな必要はありません。彼はすでに神である主イエス・キリストを知っているのですから。いつもイエス様のことばを信じて従ったらよいのです。
永遠のいのちは、テストに合格したら自動的に降ってくるものではありません。この地上のいのちが勝手に生えてきたいのちではないのと同じように。神である主が母の胎にあるうちから、いのちの息を吹き込んで与えてくださったいのちであるように。永遠のいのちも、イエス様から与えられるのです。19節以降にイエス様の教えが記されています。永遠のいのちを得るために、イエス様を信じること。「いのちを得るためにわたしのもとに来なさい」とイエス様が言っておられることが書いてあります。
神を知らなかった罪を悔い改め、私たちのために十字架にかかってくださったイエス様を信じて、永遠のいのちを共にいただきましょう。
お祈りします《イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。》
天の父なる神様。ご自分を民にお知らせになられたお方。神の民はエジプトから救い出された時、あなたを知りました。荒野でマナを食べた時、あなたを知りました。ヨルダン川を渡って約束の地に入った時、あなたを知りました。
私たちのいのちは、あなたから与えられ、救われ、養われ、豊かにされたのです。ところが、人は神である主を忘れてしまいました。私たちはあなたを知らない世界に生まれてきたのです。しかし、あなたは私たちを捜して救うために、天から降りて、私たちのところに、谷の奥深くにまで降りて来てくださいました。あなたが私たちの間近におられることを、私たちは知りませんでした。
しかし、いま、あなたを知らずに生きてきた罪を悔い改めます。恩知らずであった私たちをお赦しください。どんなことがあっても、主よ、あなたに救いを求めます。あなたは私たちの救い主。私たちはあなたの民です。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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