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2025.08.31 主日礼拝 「土地を奪う町で善を行う」I列王記21:1-19


主から与えられた自由の賜物に感謝し、他人の自由を操作したくなる罪を認めて悔い改めて、今週1週間も善を行うものでありたいです。(megu)



礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。ようこそお集まりくださいました。私たちの罪のために十字架にかかり死んで、3日目によみがえってくださった主の御業を今日も思い出しましょう。贖われた者たちとして、日々、恵みをいただいてきました。兄弟姉妹と共に主に感謝しましょう。

かつて主はシナイ山でモーセに、さとしの板をお与えになりました。それは2つの石板で、主ご自身がそこに十のことばを記されたものです。ひとつめのことばは《あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。(出20:3)》でした。続いて《あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。(出20:4-5)》と書いてありました。偶像礼拝と聞きますと、他の神を礼拝することかなと考えるかもしれません。しかし、それだけではないのです。金の子牛事件がありました。モーセが石板をいただいていた頃、民は山の下で、エジプトから私たちを救ってくださった主ヤハウェを作ろうと言って、金の子牛の像を作って拝んだのです。それは他の国の神々ではありませんでした。ヤハウェの像を作ったのです。しかし、主はこれに大変お怒りになりました。主は生きておられ、その時、まさにシナイ山に降りてこられて、モーセと話しておられのに、民は金の子牛の像を作って、それを主だと言っていたからです。主はただおひとり、生きておられるお方なので、私たちは直接、主とコミュニケーションを取らなければなりません。テレビの中のアイドルを、まるで自分の家族のように言う人たちがいます。「私はあの人をよく知っている。アイドルのあの子はトイレに行かないんだ」とか。それは本当に本人を知っていることになりません。キリスト教徒だからキリストを礼拝している、主を礼拝していると思っていても、本人(主ご自身)と違うものを想像しているなら、それも偶像礼拝になってしまうのです。

そうならないように、私たちには聖書があります。生涯を通して聖書を探求すること。これは主が定められた恵みの手段です。そして、読んで調べるだけでなく、このお方に祈ることです。そして3つ目に聖餐にあずかること。聖書の探求、祈り、聖餐は古くから言われてきた恵みの手段です。自分で思いつくままに、これが良いと思うことをするのではなく、主が定めてくださった方法を用いましょう。

聖書をお開きください。I列王記21:1-19(641ページ)【聖書朗読】

「他の人とどのような関係をもって人生を歩むのか」というテーマで、町について学んでいます。この町というものに、主がどう思っておられるのか。そこに住む私たちは、町が抱える問題を認識しながらも、聖なる民としてどのように生きるべきか。人間関係を壊していく町の仕組みに対して、私たちはイエス様の平和の使者として、どうやって人間関係を建てあげる人々となっていくのか。(それはもちろん、私たちの努力によってではなく、神の恵みと私たちの従順によって与えられる賜物です。)それらを教えられています。

今日は土地についてです。町の仕組みは土地を奪います。神の民イスラエルにとって、土地とは何だったでしょうか。彼らは、エジプトで奴隷になっていましたが、そこから救出され、荒野を通って、約束の地にやってきました。かつて主はアブラハムに約束されました。《わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。(創17:8)》主はこの約束を覚えておられ、民に約束を果たしてくださいました。ヨシュア記の後半には、「〇〇部族の誰々の家に、どこどこの町」と並んでいます。すべての家族に土地が割り当てられたという記録なのです。

土地は永遠の所有として主が一人ひとりに与えてくださったものでした。生まれたら、土地を持っているのです。この土地は、人の最後の財産でした。どうしても生活に困窮して、どうしようもなくなった時に、最後の手段として土地を売ったのです。しかし主は、ヨベルの年を定めて、たとえ土地を売ってしまったとしても、また元の所有者に返されるようにされました。50年毎に借金は帳消しになり、土地は主が定めた所有者のもとに戻されます。主はある人が他の人の土地を所有することを良しとされませんでした。今回の出来事にも背景には、主が土地を与えてくださったという前提があったわけです。

サマリアの王アハブは、城から周りの土地を眺めていました。そこには自分の土地と、他の人の土地が並んでいました。アハブは、ナボテが持っていたブドウ畑、周りの土地と一緒に眺めながら、あたかもナボテの土地が自分の土地であるかのように、こう考えました。「あのあたりは野菜畑にしたらいいなぁ」しかし、その土地は、主がナボテの家に永遠の所有として与えてくださっていた場所でした。アハブは、その土地をどうしたら良いかと考えるべきではなかったのです。アハブはそのことをひとつも悪いとは思っていませんでした。「もっとよいブドウ畑と取り合えよう、あるいはそれ相当の代価を銀で支払おう」とまで言ったじゃないかと、怒ってしまいました。主ヤハウェが測量してくださって、測り縄をおろしてくださった境界線を尊重する気持ちがひとつもなかったのです。

アハブ王の妻イゼベルは、さらに悪を行いました。彼女自身は王ではないのに、夫の名と判子を使いました。不正な裁判を開かせて、裁きを曲げ、ナボテを罠にかけて、殺してしまったのです。主はすべてをご存知でした。復讐の神である主は、彼女を裁かれ、II列王記9章で、復讐が成し遂げられました。

今日はアハブ王とイゼベルの悪行に注目しましたが、実際、他の人の土地を奪う、買い取って返さない、境界線を移動させるということは、他の民も行っていたようです。公共のためではなく、より大きな富への欲望が主な理由でした。聖なる民としての生き方を守らない民に、忍耐深い主も、ついに怒りを発せられ、預言者を遣わされました。預言者ミカは主のことばを告げました。《あなたはオムリの掟と、アハブの家のすべての慣わしを守った。あなたがたは、彼らのはかりごとに従って歩んだ。(ミカ6:16)》オムリ王は土地を金で買って、そこに町を作り、その町の名をサマリヤとした人物です(I列16:24)。アハブ王は今日の箇所に出てくる王です。土地を売買できると考えている王たちの慣わしを守ったと、主は非難されました。また預言者ホセアはこう伝えました。《ユダの首長たちは、地境を移す者のようになった。わたしは彼らの上に激しい怒りを水のように注ぐ。(ホセ5:10)》こうして、彼らは永遠の所有地を失うことになってしまいました。アッシリアとバビロンに北王国も南王国も滅ぼされ、二度と土地を取り戻すことはありませんでした。ペルシャの時代にエルサレムに帰ってきましたが、そこはペルシャ帝国の支配地であり、自分たちの土地ではありません。ペルシャがギリシャに、ギリシャがローマに変わりましたが、土地がないことは変わりませんでした。(しかし、あわれみ深い主は、悔い改めて主に立ち返った民に、新しい天と新しい地を創造すると約束してくださいました(イザ65:17)。今は、地上の土地を期待するのではなく、新しいエルサレムがイエス様と共にやってくるのを待ち望んでいます。)

さて、町の仕組みは他人の土地が隣同士で存在することをゆるしています。家族の土地があり、周りは兄弟の土地であり、一帯を離れた向こうに、隣の一族の土地がある村々とは違います。主がひとつひとつの家族に与えてくださった土地という感覚を弱くさせ、単に売買して移動させても、何とも思わなくさせる作用があります。アハブ王はお金があったので、他人の土地をパズルのように操作することに何のためらいもありませんでした。イゼベルは権力を利用することを知っていたので、奪い取ることも平気でした。現代の日本では、生まれてきた人に土地が割り当てられる制度はありませんので、古代イスラエルと全く同じように私たちの生活に当てはめることは出来ません。しかし、神である主は一人ひとりに、生まれながらの自由をお与えになっています。かつてダビデ王はこのように歌いました。《【主】は私への割り当て分 また杯。あなたは 私の受ける分を堅く保たれます。割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい 私へのゆずりの地です。私はほめたたえます。助言を下さる【主】を。実に 夜ごとに内なる思いが私を教えます。(詩16:5-7)》この時、ダビデは実際の土地のことを言っていたのではありません。自分の心のなかに主が来てくださって住んでくださる。その領域のことを言っています。私たちの人生には、財産にしろ、心の領域にしろ、決して売り買いされるべきではない、奪われるべきではない、その人に必ず返されなければならない、自由の賜物が主から与えられています。

富や権威は、良いことのために与えられているのです。しかし、人には神から与えられている範囲で満足したくない、他の人に与えられている自由も、自分のものであるかのように操作したいという欲望があります。どんな人にもある罪の性質です。「あの場所は野菜畑にしたほうが絶対に良いよね。ブドウ畑はあっちのもっと良いやつと交換すれば良いんだし、その方が絶対に良い」と思って、ところが他の人が自分と同じように考えていないと分かると、泣き出したり、怒り出したり…。そんな心を自分の中に見つけることがありますよね。そして、この世では、お金を渡せば他人の自由も買えるんじゃないかとか、権力があればできるじゃないかという考えが当たり前のようにあるのです。しかし、聖書は、アハブの慣わしを主の目に悪であると言っています。

誰もそんなこと取り締まっていないし、やったもん勝ちじゃないと思うでしょうか。ナバルは殺されてしまったし、アハブは生き延びたじゃないかと。しかし、それは今しばらくの間だけです。ローマ人への手紙にはこのように書かれています。《神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神にはえこひいきがないからです。…神のさばきは、神がキリスト・イエスによって、人々の隠された事柄をさばかれるその日に行われるのです。(ローマ2:6-11,16)》

神である主が、地上の命を究極的に大切なものと考えておられないことに、私たちは時々困惑します。ナバルが死なないで済むように助けてくれたら良かったのにと。私たちは今すぐに正義の裁きをしてほしいと思っているからです。生涯に渡って、度々自由を脅かされるのは、我慢できないと考えています。しかし、主は永遠の視点で物事を見ておられます。《主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。(IIペテロ3:8)》主イエス様が帰ってきて、正しく治めてくださる日が来ようとしています。

聖書はこう言っています。《失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。(ガラテヤ6:9)》

お祈りします《彼にこう言え。『【主】はこう言われる。あなたは人殺しをしたうえに、奪い取ったのか。』また、彼に言え。『【主】はこう言われる。犬たちがナボテの血をなめた、その場所で、その犬たちがあなたの血をなめる。』》

天の父なる神様。生きておられる私たちの岩、私たちの救いの神。あなたは善を行う者たちのために復讐されるお方。敵から私たちを助け出されるお方。実にあなたは向かい立つ者から私たちを引き上げ、不法を行う者から救い出してくださいます。

神であるあなたを恐れない、人間の罪は何と醜いものでしょうか。人々は巧みに本心を隠しながら、他の人の領域を自分のものであるかのように使いたいと考えています。それは主であるあなたが愛をもって、一人ひとりに与えてくださった永遠の所有でした。町に住む私たちも日々、影響を受け、人間関係を壊してしまう罪の性質に対して、心が鈍くなっています。どうか私たちをあわれんで、お救いください。

《あなたの上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたのものを奪い取る者から、取り戻してはいけません。》と教えてくださったイエス様。あなたの模範に従います。やがて与えられる、いと高き方の大きな報いを待ち望みます。

主よ、遅れないで来てください。《見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。(黙22:12)》と約束してくださったことをどうか思い出してください。結局のところ、この短い地上生涯で奪われることよりも、永遠の新しい地でいのちを与えられることの方が重要だからです。

われらの岩、救い主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。






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