富と財は神の賜物であることを忘れないように毎日を過ごしていきたいです。そして与えなさいと言われる主のみことばを実践できるものでありたいと思いました。(megu)
礼拝説教 中尾敬一牧師
おはようございます。先週は、世間ではお盆の週でした。ゆっくり休んだ方、帰省した方、あるいは帰省してきた人を迎えた方、それぞれにあったと思います。
そもそもお盆といえば、仏教と日本古来の祖先崇拝が混じった風習でした。地域によって色々と信仰があるようです。死者の供養とか、帰って来る先祖の霊を迎えるとか、花火を上げるのも三途の川の向こうの人たちのためだそうですし、あの世でお金に困らないようにお金を燃やして送金したり、やぐらを組んで担いで海に入り沖までもっていくとか、いろんな風習があるそうです。いずれの地域でも共通することがあります。それは家族で行う。親戚で、また集落で一緒に行うということです。そして、集まって一緒に食事をします。しかし、ある時代から、都会で就職するために家を離れるということが始まりました。家を離れた都会の人たちが、家族の行事に帰ってくるのが帰省です。帰ってきて親兄弟、親戚の安否を知ることもできます。ところが、大家族が離れて、核家族で生活することが当たり前となってくると、家や村で代々もってきた信仰がなくなってきます。先祖の神の霊を拝むために帰って集まるのではなく、単に家族・親戚・集落の人たちと会うために帰るということになってきました。さらに集落の人たちに会うという目的がなくなり、親戚に会うという目的がなくなり、最近はセパレート帰省(夫婦がばらばらになってそれぞれ自分の実家に帰省)というらしいですが、義理の家族に会うということにも意味を見出さないという社会になってきました。その背後にあるのは、多くの人の愛がますます冷えてきたということでしょう。愛がなければ逃げ出したくなりますし、会いに行っても自分の子どものように愛されないのであれば、労力をかけてでも行きたいと思えなくなります。
神の家族と呼ばれる教会は、毎週集まります。主を礼拝するために、また主に祈るために集まります。礼拝は家族が一緒に行うものだからです。そして主の食卓を家族みんなで囲みます。今まで家族ではなかった人たちが、主によって家族とされて、互いに愛し合うために集められています。この様子は、この世界の中で、宝なのです。
聖書をお開きください。伝道者の書5:10-20(1144ページ)【聖書朗読】
前回は「経済格差の町で御心を行う」と題して、アモス書の御言葉に耳を傾けました。夫婦関係は、家族ではなかった二人の人が、互いに恋慕い、神である主によってひとつとされて、家族となる関係です。夫婦関係のように愛によって結び合わされた関係で人々がつながり、社会が形成されていく世界を、主はお造りになりました。しかし、カインはアベルを殺し、家族を壊して、出ていき、町を作りました。アブラハムとその子孫である神の民は、そのような罪の世界で、宝の民となるように選ばれたのです。ところが、彼らは主に背いて律法に聞き従わず、カナンやエジプトの生き方に倣いました。町には経済格差を生む仕組みがあって、イスラエルの中にも貧しい人々と、大理石で豪邸を建てる人々との経済格差が存在するようになりました。
それにも関わらず、主はあわれみ深いお方です。主に立ち返った者たちの生き方を作り変え、のろいを祝福に変えてくださいます。私たちもまた、主イエス様に贖われ、神の民とされた者たちです(Iペテロ2:10)。経済格差の町に住んでいますが、私たちも神の民として、この町で主の御心を行います。今日は、「経済格差の町で御心を行う」とは具体的に何かという話です。
富の力と、貧しい弱さを箴言は次のように記しています。《人の贈り物はその人のために道を開き、身分の高い人の前にも彼を導く。(箴18:16)》《ひそかな贈り物は怒りを鎮め、懐の賄賂は激しい憤りを鎮める。(箴21:14)》《だれもが、贈り物をしてくれる人の友となる。貧しい者は自分のすべての兄弟たちに憎まれる。友人が彼から遠く離れるのは、なおさらのこと。彼がことばをもって追い求めても、彼らはいない。(箴19:6-7)》《貧しい者は哀願するが、富む者は荒々しく答える。(箴18:23)》富は怒りをなだめたり、自分の成功を買ったり、重要な人への道を開いたりすることができます。適切なタイミングで、相応しい贈り物をためらわずに選ぶことができ、人間関係を発展させることができます。一方で、貧しいと失敗を補うことができず、お願いする時も精一杯泣きつくしかなく、お礼も感謝も十分にできないので、兄弟に憎まれ、友人が離れ去り、むげにあしらわれることになります。
富の利点を考える時、人々は富があればどんなに人生が楽になることかと思います。富がなければ、どんなに悲惨な人生になるだろうかと思っています。経済格差の町には、富への羨望があるのです。
ところが、聖書は経済格差の町を次のように生きるように教えています。《富を得ようと苦労してはならない。自分の分別によって、これをやめよ。あなたがこれに目を留めると、それはもうないではないか。富は必ず翼をつけて、鷲のように天へ飛んで行く。(箴23:4-5)》今日開いた伝道者の書でも、富を得ようと努力することは益にならないと言っています。《風のために労苦して何の益になるだろうか。(16節)》富を作っていくことは非常な労苦です。1代で富を築いた人を見れば、みな多くを犠牲にしながら、夜も昼も働いて、それを成し遂げているでしょう。しかし、財産が増えると、それを狙っている人たちがくっついてきます。労働者はその仕事が富を生み出すかどうかに関わらず、働いた時間の分だけ給料を求め、さらに多く、さらに多く、それを求めます。富のために心配が増えます。富は不運な出来事で失われます。死ぬ時に労苦によって得たものを何一つ持っていくことはありません。
富と財は、良き物を楽しみ、食べたり飲んだりして、楽しく素晴らしい時間を過ごすことを可能にします。神である主は、ご自分の子どもたちに素晴らしい時間を過ごしてほしいと思っておられます。主が定められた祭りの時には、豊かな食事が用意されました。主は「家族やレビ人、寄留者、孤児、やもめとともにすべての恵みを喜び楽しみ、町囲みの中で食べて満ち足りなさい」とおっしゃいました。ここにはイエス様の例え話に出てきた金持ちの姿はありません。「私の倉、私の穀物。さあわがたましいよ、食べて飲んで楽しめ」と言っていた自己中心な人です。主の願いは、神である主が気前よく与えてくださった恵みを、隣人とともに喜び楽しみ、満ち足りることです。それで、民の中に経済格差があるのを見たとき、主の怒りがくだったのです。主の掟を守っていたなら、民の中に貧しい人はおらず、すべての人が豊かに生き、良き物を楽しんでいたはずなのですから。
これを聞いて、どう思われますか。「そうだそうだ。私たちが住んでいる町にも経済格差があって、これはおかしい。主の御心がなるべきだ。」と思うでしょう。ところで、私たちの主は不思議なことをお命じになるお方です。昔あるところに、夫に先立たれたやもめが息子と一緒に暮らしていました。蓄えていた粉でパンを作って食べていましたが、ついに底をつきはじめ、一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけになってしまいました。彼女は、最後に2、3本の薪をあつめ、帰って行って、自分と息子のために最後のパンを焼き、それを食べて死のうとしていました。薪をあつめていると、一人の人が近づいてきて、彼女に言いました。「一口のパンを持ってきてください。」その人は、預言者エリアでした。主はエリヤに《わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている(I列17:9)》と言っておられたのです。やもめが主のことばに従って、パンを与えたとき、なんと奇跡が起こり、かめの粉が尽きず、壺の油がなくならなくなりました。
もう最後のパンを食べて死のうと思っていた貧しいやもめに、主は「与えなさい」と命じられました。「この社会に経済格差があるのはおかしい!」と考えている人のうち、おそらく半分以上の人が「だから私も分けてもらえるべきだ」と思っているのではないでしょうか。しかし、今、あのやもめ以上に困窮している人はおられるでしょうか。主は「与えなさい」とおっしゃっています。
この不思議な命令を理解する鍵は、「富と財は神の賜物である」という事実にあります。《人を富ませるのは【主】の祝福。人の苦労は何も増し加えない(箴10:22)》のです。経済格差の町で、昼も夜も懸命に働き大変な労苦を重ねて富を得ようとしてはなりません。それは風のために労苦するようなもの。富は必ず翼をつけて、鷲のように天へ飛んで行きます。富と財は苦労によって増やすべきものではなく、神の御心を行うために、天から与えられるものです。
「経済格差の町で主の御心を行う」とは、具体的に言うと「与えること」です。神である主が気前よく与えてくださるように、私たちも、たとえ、あのやもめのような状況であったとしても、気前よく与えることです。(念の為に加えると、今日の話は教会に献金しなさいとか、牧師に贈り物をしなさいという話ではありませんので。)神の恵みを兄弟姉妹の間で、また兄弟姉妹の枠を超えて隣人とともに喜び楽しむことです。
気前よく与える人は、ナルドの香油をイエス様に注いだマリアのようです。このぐらいが相場かなというラインを超えて与えるのが気前の良さです。気前の良さを知らない人は、イスカリオテのユダのように「この香油を300デナリで売って、貧しい人に施したほうがいい」と言います。すべて電卓の中で考えています。神である主の恵みは、気前が良く、いつも電卓を超えて与えられています。
イエス様はこのように言われました。《与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。(ルカ6:38)》イエス様の周りにいた人たちは、ほとんど貧しい側の人たちでした。それでも、主イエス様は「与えなさい」と言われました。努力して富を得なさいと言わず、「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます」と教えて下さいました。多くのクリスチャンたちが、これを実践し、その通りだったことを証ししています。
さらに主はこのようにも言われました。《昼食や晩餐をふるまうのなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。彼らがあなたを招いて、お返しをすることがないようにするためです。食事のふるまいをするときには、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、足の不自由な人たち、目の見えない人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。あなたは、義人の復活のときに、お返しを受けるのです。(ルカ14:12-14)》たとえ与えた相手がお返しできないとしても、人よりはるかに気前の良い主がお返しを与えてくださいます。そのようにして、富を得ようと労苦したのではないのに、豊かにされるのです。気前の良い主イエス様は、私たちに何を与えてくださいましたか?ご自分のいのちを与えてくださいました。これほどの気前の良さを、他に見ることはできません。
箴言15:16-17《わずかな物を持って【主】を恐れることは、豊かな財宝を持って混乱するよりも良い。野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。》主を恐れるとは主の命令を守ること。主は、「気前よく与え、主の恵みをともに喜びなさい」と命じられました。豪華なものはそこになかったとしても、そこには愛があります。
お祈りします《実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。》
天の父なる神様。力強い御手と伸ばされた御腕によって、恐ろしい力と、しるしと不思議をもってご自分の民をエジプトから導き出し、乳と蜜の流れる地に導き入れ、その地を民に与えてくださったお方。富む者の財産はその堅固な城。自分ではそそり立つ城壁のように思い描いています。しかし主の名は堅固なやぐら。正しい人はその中に駆け込み、保護されます。
あなたは私たちの豊かな富を与えてくださいました。日々の糧はあなたによって与えられています。時に、私たちの目には十分な富がないように思える時があります。天に備えられている、隣人とともに、またお返しできない人々とともに喜び楽しむ富が目に見えないこともあります。しかし、あなたは「与えなさい」とお命じになりました。そのような生き方を聞いたことがありませんでした。目に見えるもの、予想できる収入の中で計算せよと教えられてきたのです。
どうかあなたがお造りになった愛の世界を、まず私たちのうちに建ててください。私たちはあなたの民です。御心を行うことを教えてください。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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