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2025.08.24 主日礼拝「いのちのパン」ヨハネの福音書6:1-15

 





今日は5つのパンと2匹の魚のお話しでした。イエス様は有り余るほどに恵みを与えてくださるお方です。いのちのパンを与えてくださる主イエス様を信じます。(megu)


礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。今日もようこそお集まりくださいました。《神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(IIコリ6:2)》

説教は、第1に神のことばである聖書を解き明かすものです。聖書には人の正しい信仰、正しい姿勢、正しい行い(聖い信仰、聖い姿勢、聖い行い)が教えられています。しかし、私たちは聖書との向き合い方を間違えないようにしましょう。聖書(律法)の行いは私たちを救わないからです。一度、罪を犯した人が、今この瞬間は善い行いしかしていませんから、有罪にしないでくださいと言って通るでしょうか。スピード違反が駄目なんて私は気付いていなかったんですよ。だから今からは守りますのでいいでしょ?と言って通るでしょうか。聖書は私たちを罪に定めます。ひとり残らず、みな神の前に罪を犯し、死を宣告され、永遠の裁きを受けることになっています。聖書を読むと、自分の罪が分かるのです。

しかし、主は立ち返るなら赦そうとおっしゃいました。不思議ですね。それは、主イエス様が十字架にかかって罪を肩代わりしてくださったからです。罪がちゃんと処理されたからです。聖書との正しい向き合い方は、罪を知って、イエス様のみもとに行くことです。主のみもとに救いの恵みがあります。

「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」これもまた神である主の恵みです。聖い信仰、聖い姿勢、聖い行いを知って、「今度は聖なる者としてください」と祈り、恵みによって新しい祝福の人生を歩むことができるからです。

聖書をお開きください。ヨハネの福音書6:1-15(187ページ)【聖書朗読】

今日の箇所でイエス様と出会ったのは、ピリポとアンデレです。出会ったと言ってもピリポとアンデレはイエス様の弟子でしたから、出会ったと言うより、常に一緒にいたのですが。しかし、彼らはイエス様とのやり取りを通して、「神を体験」しました。イエス様と出会うとは、外で偶然ばったり会うことを言っているのではありません。今置かれている状況の中で、神である主が生きて働いておられることを知ること、また私と一対一でコミュニケーションを取って、私の人生に御業をなされる主の姿を見ることをクリスチャンたちは「神体験」とか、「イエス様と出会う」と表現してきました。

さて、ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた頃、イエス様の奇跡によって病人が癒やされるのを見た人々が、5千人以上も大挙して、イエス様一行の後をつけてきました。イエス様は山におられましたので、大勢の群衆が山を登ってくるのが見えました。イエス様は群衆の様子を見て、何を思われたでしょうか。

イエス様は、その後、奇跡によってパンと魚を増やし、成人男性だけで5千人(女性や子どもを入れるともっと多く)の人々に望むだけお与えになりました。過越の祭りが近づいていた頃ですから、イエス様は出エジプトの救いを思い出しておられたことでしょう。「出エジプトを忘れないようにしなさい、そのために過越の祭りを行いなさい。」これが主の命令でした。出エジプトとはエジプト脱出からカナンの相続地分配までの一連の出来事です。民は荒野で天から降るマナをいただきました。マナを降らせてくださったのは、三位一体の神である主ヤハウェでした。イエス様は、いま、町から離れた山の上で食事を必要としている人々に、主が来られたことを示そうとなさっていました。

イエス様はご自分が何をしようとしているのかを知っておられました。そしてピリポを試すために、このように言われました。《「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」(5節)》何を試されたのでしょうか。主は何を意図しておられたのでしょうか。《「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」》と言われました。ピリポはすぐに計算しました。「いや、どこから買ってくるにしてもお金はどうするの」と思ったでしょう。《「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」(7節)》「だから無理です」ということですね。でも、イエス様の質問は「どこから買って来るか」でした。パン(日々の糧)はどこから来るのでしょうか。みなさんはどう思いますか。

今度は、その様子を見ていたアンデレが、イエス様に言いました。《「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」(9節)》言い換えれば、「あるものしかないですね。少年が持っているパン五つと魚二匹。あるのはこれだけです。これではどうにもなりません。」_「どこから」というイエス様の質問に、アンデレは「いまここにあるものから」と答えました。これは世間で一般的にある考えだと思います。「あるものを分けるしかしょうがない。いまあるものは限られているから、全員が満腹になることはできない。」と人々は言っていませんか?

確かにその場に人間しかいないとしたら、ピリポとアンデレの言うことはその通りだったでしょう。パンを買うにはパン屋さんでお金を払って買うしかありません。たとえパン屋さんに行ったって、「すみません~。パンを5千人分ください」と言ったらどうですか。5千人分もお店に並んでいるわけがありません。ヤマザキパンの工場に電話して、大口の契約をしてください。しかも前もって注文しないと駄目ですよって話ですよね。

しかし、あの時、あの場所にはイエス様がおられました。パンはどこから?_ イエス様は人々を座らせ、パンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられました。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられました。イエス様は天の父に「感謝の祈り」をささげました。お弁当を分けてくれた少年に感謝すべきじゃないかと思うかもしれませんが、イエス様はパン(日々の糧)が天におられる神、主から来ることをおぼえて、感謝の祈りをささげたのです。

いまあるものは十分にないから自力で確保しようとする世界で、主は全員が望むだけ与えられました。さらに余ったパン切れで12のかごがいっぱいになりました。12という数字は、イスラエルの12部族を思い出させるのです。神の民を荒野で養ってくださった主が、ここにおられると気が付いた人もいたことでしょう。主は旧約聖書に記されているように、気前の良いお方です。主が与えてくださる恵みは、十分以上に豊かです。「もったいないから余らないように丁度ぴったりにしておけば良いのに」と思うのが私たちです。しかし主は12のかごいっぱいに余るほどで無駄にならないとされました。このあとスタッフが美味しくいただいたかどうかは書いてありませんが、無駄にはなりませんでした。主は気前の良いお方。そしてイエス様は主です。

この後、人々はイエス様がなさった奇跡を見て、「預言者だ」と言い、王にするために連れて行こうとしました。イエス様は王の王として来られたお方ですね。人々が王にしようとするなら大成功ではありませんか?ところが、イエス様はそれを受け入れず、去っていかれました。どうしてでしょうか。人々はイエス様がなさった病気の癒やしを見て、追いかけてきました。福音書をこのまま続けて読んでいきますと、さらに湖の反対側にまで追いかけてくるのです。それは、イエス様がパンを増やして、望むだけ与えてくださったので、満腹したからでした。彼らの願いはこうでした。《「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」》しかし、イエス様が知ってほしいと願っておられたのは、35節「わたしがいのちのパンです」ということです。主イエス様がいのちのパンであるということです。

私たちは民主主義の国に住んでいて選挙があります。国民が投票権を持っていて、良いと思う人を自分で選んで投票します。ですから、病気を癒やしてくれる人、食べ物を無尽蔵に与えてくれる人を選ぼうとする行動は馴染みがあるのではないでしょうか。しかし、神の民の歴史を振り返ってみますと、本来、民の間には王はいないはずでした。神である主が彼らの王であられたからです。ところが民は王を求めました。主はついにそれをお認めになりましたが、決して彼らには王を選ばせませんでした。主が王を決め、油を注いで任命し、民は従うように言われたのです。

「どれでも、私がいいなと思う神様をいくつか選んだらいいじゃないか」「イエス・キリストって結構いいよね。いい感じ。私は推すわ。」_ 世界を創造し、私たち一人ひとりを創造して、そこに置いてくださって、悪人も恩知らずな者も養っていてくださる主を王に選ぼうとするのは正しいことではありません。間違ったことです。主は王であるので、王の王としてお迎えすべきです。

主イエス様はそんな私たちに、何をしてくださったのでしょうか。人が滅びることを望まず、その罪を身代わりに背負って、十字架で死に、3日目によみがえられました。主イエス様はあなたを捜して救うために来られたのです。あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだとおっしゃいました。(ヨハネ15:16)《私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。(Iヨハネ4:10)》

私たちがもつ本当の選択肢は、どの神を選ぶか、だれを王として選ぶかではなく、神の愛を受け取って、主イエス様を信じるか信じないかの選択肢です。6:47-51《まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。》

主イエス様がいのちのパンなのです。53-54節には《人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。》と書いてあります。イエス様の肉を食べ、血を飲むとは聖餐式のことです。イエス様を信じ、洗礼を受けた人たちがあずかる聖餐式です。信じるか、信じないか、聖餐の恵みを受け取るか、受け取らないか。イエス様が帰ってこられるその日までに、この選択肢を選ばなければなりません。

「聖書には何か良いものがある。説教を聞くことは良い」と思って、今日も聞いてくださったと思います。聖書は人をいのちのパンであるイエス・キリストに導くのです。王であるイエス様を、あなたの人生の主としてお迎えしませんか。

お祈りします《イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。》

天の父なる神様。荒野で民にマナとうずらを豊かに与え、約束の地で、あなたが建ててくださった町々に住ませ、あなたが植えてくださったブドウ畑から食べさせてくださったお方。私たちの主よ。

私たちは、神である主を忘れてしまった世界に住んでいます。お金がなければどうしようもない。あるものを分けるしかないと人々は考えています。しかし、あなたはいのちのパンです。あなたのもとに来る者は決して飢えることがなく、あなたを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

あなたを見たのに信じようとしない私たちをあわれんで、お赦しください。王であるイエス様。もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ込んでください。あなたの救いの恵みを与えてください。あなたを信じて、私たちの人生の主としてお迎えし、聖餐を受け取ります。約束の通りに永遠のいのちを与えてください。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。



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