おはようございます。先週は休暇をいただきありがとうございました。今日はこうして皆様と共に礼拝できますこと感謝です。
休暇を利用して、一家で石川県の叔母を訪問してきました。もう6年ぶりになります。高速で福井県に入った頃、空や山の色、田んぼ、家の間隔や大きさなど、景色が北陸らしくなりました。その時に、なんとも言えない故郷に来たという気持ちが感じられました。ヘブル人への手紙には、私たちクリスチャンは、自分の故郷よりもっと良い故郷、すなわち天の故郷に憧れていると書いてあります(ヘブル11:16)。自分の故郷に帰ってきて、これほどの感動があるなら、天の故郷に帰った時にはどれほどの感動なのかなと考えていました。
石川県について高速を降り、加賀市の中心部を通りましたが、想像以上の過疎化に驚きました。駅前の一番大きな交差点で、赤信号になり止まりましたら、向こうで青信号になって通った車が2台だけ。本当にびっくりしました。
聖日はインマヌエル小松教会の礼拝に行きました。10名弱のみなさんが集まっていて、私たちは連絡なしに行きましたが、大歓迎してくださいました。司会の方がお祈りされて、「神様、今日もサプライズを与えてくださいました」と感謝しておられました。私たちは特別なことをするために行ったわけではありません。ただその場に現れただけです。でも、その存在が教会の喜びとなりました。教会とはそういう群れです。王寺教会でも、みなさんおひとりひとりが、主を礼拝するためにここにおられるということが、なによりの喜びです。主が与えてくださった恵み。私たちの主への感謝です。今日もみなさまおひとりひとりを招いてくださった主に感謝します。
聖書をお開きください。アモス書5:6-15(1565ページ)【聖書朗読】
「他の人とどのような関係をもって人生を歩むのか」というテーマで、町について、主のみ心を学んでいます。
主が願っておられた人間関係は、夫婦関係を基本的なモデルとする人と人との関わりでした。互いに愛し合い、主の恵みを受けて、助け合って共に働く人間関係でした。しかし、人は神である主と、またその豊かな恵みを拒否して、自らが神のようになって生きる道を選んでしまいました。いばらとあざみを生じさせる土地を捻じ伏せて、神の恵みではなく、私の力によって糧を得ていると考えるようになりました。神である主と人間との関係が壊れた後、人と人の関係も壊れていきました。夫婦関係が壊れました。アダムは「この女が」と言いました。兄弟関係が壊れました。カインはアベルを殺しました。親子関係も家族・親族関係もエデンの園で造られた姿を映すことはできなくなりました。
聖書は町の起源をカインにあるとしています。カインは土地の祝福を失ってしまい、他の人たちが収穫したものを利用して収入を得るようになりました。そして城壁のある町を建てました。主が望んでおられたのとは違う道を、人は選び続けてきました。そして村から町へ、町から都へと向かっていったのです。
考古学の発掘によって、城壁のない村と城壁のある町の違いが分かっています。村では、多少の貧富の差はあっても、住居から判断する限り、村人の生活水準は同じようなものでした。しかし、城壁のある町を発掘してみると、ある家屋は他の家屋よりもはるかに大きく、立派に建てられていました。町には、人々の経済格差を加速させていく仕組みがあったのです。
神の民イスラエルは、宝の民として選ばれ(申7:6)、カナン人や周りの国々の人々とは全く違う生き方をするように命令されていました。周りの人々が神の民を見て、本来の人が造られた姿を思い出して、悔い改め、主に立ち返るためでした。ところが、主の民は、主の掟を捨てて、み心に従わず、かえって周りの国々やカナン人の生き方をまねていくようになりました。農耕と牧畜を中心とした生活から、都市の発展に向かいました。互いを愛し合うことによって社会が成り立つように、主は願っておられましたが、イスラエルは神を知らない民のように、他の人を利用して富を築いて、それを悪いこととは思っていませんでした。
主は羊飼いであったアモスを召して、主のことばを民に語らせました。《【主】を求めて生きよ。(6節)》主を求めて生きるとは、単に「主よ、主よ」と口先で言っているだけではなく、主の掟に聞き従い、み心を行うことです(マタイ7:21)。正義と公正を行わず、町の仕組みを最大限利用して、経済格差を広げていた民に、主は警告されました。町の門は裁判所として使われていましたが、金持ちは裁判官に賄賂を渡して、裁判の判決を曲げていました。正しく裁判を行う者は憎まれていたのです。9節の要塞を破壊するとは、城壁で囲まれた町を壊すということです。貧しい人々を奴隷として、彼らから小作料を取ることは、民の間ではしてはならないと言われていたはずです。切り石の家々とは、大理石の豪邸を指しています。ある人の家がみすぼらしく、ある人の家が必要以上に豪華であることは、神の民にはふさわしくありませんでした。
互いに愛し合いなさいと聖書は私たちに教えています。私たちはその御言葉をいただいて、「私とあの人」というレベルで考えています。それはもちろんそうなのですが、主が命じておられる「愛し合いなさい」という掟は、町全体に及ぶ命令なのです。しかし、私たちが住む町は、「互いに愛し合う」関係によって社会を作ろうとはしていません。それゆえに、クリスチャンが互いに愛し合うことを実行しようとしても、社会の流れと合わないのです。ここに互いに愛し合うことの困難さがあります。
ある人々は、経済格差の問題を政治によって解決しようとしました。極端な社会主義に走った国では、都市から農村に人々を強制移住させ、都市を破壊し、農村での仕事に適しない人々を殺してしまいました。「のろわれた部分はなくしてしまえ」というのが人間の愚かな考えです。でも、農村には問題がないのでしょうか。問題はあります。カインが居場所を失って町を建てたように、今日でも、田舎での愛のない煮詰まった人間関係から逃げ出して、町に出てくる人が絶えません。
しかし、主のご計画は、人の思いとは全く異なるものでした。もし、主がのろわれた部分をなくしてしまおうとお考えになったのなら、私たちも、この世界もすでに滅ぼされてしまったでしょう。ところが、主はのろいを祝福に変える計画を立ててくださいました。ここに主の救いがあります。
主は町の仕組みをやめさせようとしたのではありませんでした。経済格差を広げていく仕組みがある町の中で、主の掟を定め、正義と公正を行うようにと言われたのです。社会構造を変えるのではなく、人の心をきよめて、互いに愛し合って生きることを教え、のろいを祝福に変えてくださいました。人間が憧れている大都市は、人が造り上げるのではなく、神である主が建ててくださり、やがて新しいエルサレムとして与えてくださいます。
私たちは、主イエス様に贖われた神の民です。経済格差がすでに存在する世界において、どのように生きるべきでしょうか。特に富に関して、どのように行動すべきなのでしょうか。
イエス様はある時、人々にたとえを話されました。《「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」(ルカ12:16-21)》聖書を読み、主を知ることがなければ、この金持ちの行動が悪いと思う人はほとんどいないでしょう。「彼はラッキーだったね。自分のビジネスで成功して蓄えた富だから、食べて、飲んで、楽しんでも、それは彼の権利だよね。私も彼のように一山当てられたらいいなぁ。少しでも蓄えられたら、食べて飲んで楽しみたいなぁ」と思うのではないでしょうか。しかし主は、このような生き方を愚かと言っておられます。主のみ心に反抗し、滅びに至る生き方です。
神の恵みを喜び楽しむことは、主が願っておられることですが、ただし、《あなたの神、【主】が選ばれる場所で、あなたの息子、娘、男奴隷、女奴隷、およびあなたの町囲みの中にいるレビ人とともに、あなたの神、【主】の前でそれらを食べなければならない。あなたの神、【主】の前で、あなたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。(申12:18)》これが律法でした。「ここにあるのは私の作物、私の倉、私の穀物や財産だ。わがたましいよ、安心しろ。食べて飲んで楽しめ」という生き方は、主に背いています。
箴言30章に登場する、私には知恵がないと認めたアグルは、このように願いました。《二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。むなしいことと偽りのことばを、私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。私が満腹してあなたを否み、「【主】とはだれだ」と言わないように。また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことのないように。(箴30:7-9)》必要十分な富で、主に感謝しながら生きることができたら一番良いのかもしれません。
使徒ペテロは手紙で、地上での残された時を、人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようにと勧めました。イエス様がそう教えておられたからです。そしてこう書いています。《あなたがたは異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけりましたが、それは過ぎ去った時で十分です。異邦人たちは、あなたがたが一緒に、度を越した同じ放蕩に走らないので不審に思い、中傷しますが、彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります。…万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。(Iペテロ4:3-7)》
愛し合うことと、経済格差は関係ありますか?はい、関係あります。主の掟に聞き従うなら、神の民の中には貧しい人がいなくなると主は言われました(申15:4-5)。主はすべての人が豊かに生きられるように私たちを祝福してくださるからです。
お祈りします《善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、【主】が、ともにいてくださる。》
天の父なる神様。ご自分の民を日の出る地と日の沈む地から救い、連れ帰り、都のただ中に住まわせ、真実と義をもって私たちの神となってくださるお方。私たちはあなたの民です。
私たちには分別がなく、あなたがご存知のことのわずかばかりの知恵も持ち合わせていません。創造主であり、恵みの神である、あなたに逆らって作り上げられた町に、何も知らないで住んでいました。預言者があなたのことばを伝えてくれなかったなら、富める者がますます富み、貧しいものがますます貧しくなる世の有り様に無頓着であったでしょう。私の人生がラッキーであればいい、勝ち組に入れたらいいとすら考えていたでしょう。しかし、あなたの義が平和を作り出し、とこしえの平穏と安心をもたらすとき、私たちは平和な住まい、安全な家、安らかな憩いの場に住みます。
残された時の放蕩は過ぎ去りました。もう十分です。私たちは主イエス様の十字架によって贖われました。今は神の国とその義を第一に求めています。あなたからの祝福を兄弟姉妹と共に喜び楽しむことを選びます。あなたの御心を行うことを教えてください。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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