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2025.06.01 昇天日礼拝 「主人と奴隷ははじめからではない」レビ記25:39-46

 




今日はレビ記からの難しい箇所でしたけれども、説教の解き明かしによって神様と私たちの関係の新しい側面を見せていただきました。そして主の忍耐がいかに深く慈しみに溢れているかを知ることができました。

神様の愛が注がれて、不完全な私達や教会が主に喜んでいただける存在と変えられるようにと心から願いました。( rebecca)


礼拝説教 中尾敬一

おはようございます。今日は昇天日礼拝です。ペンテコステの10日前にイエス様が天に昇られたことを共に思い出したいと思います。使徒信条で「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と述べている部分についてです。

主イエス様は十字架にかけられて死んだ後に、イースターの朝に死に勝利して墓からよみがえられました。使徒の働き1章によると、復活されたイエス様は、40日間、弟子たちに何度も姿を現されました。復活のイエス様と会った人々は、500人以上いたと書いてあります(Iコリント15:6)。イエス様と会った人たちは、イエス様から聞き、イエス様を見て、じっと見つめ、自分の手でイエス様に触りました(Iヨハネ1:1)。その後、イエス様はどうなったのでしょうか。死に打ち勝ったのですから、今も生きておられます。では、中東かどこかに行けば、会えるのでしょうか、見れるのでしょうか、触れられるのでしょうか。いいえ。主イエス様はイースターから40日後に(ペンテコステの10日前に)、使徒たちが見ている間に上げられ、そして雲がイエス様を包み、彼らの目には見えなくなられました。今日においても、イエス様は私たちの目には見えません。

「私にもイエス様から聞けたらいいな。じっと見れたらいいな。触れたらいいな」と思いませんか。そうだったら信じるのも、後をついて行くのも、もっと簡単じゃないかと思うかもしれませんね。でも、主は確かな目的をもって、人の目に見えなくなられました。そのことを良く心に留めておきたいと思います。

イエス様が天に昇られた後、天使たちが現れてこう言いました。《どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)》私たちは今日も、主があの時と同じ有様で、おいでになるのを待ち望んでいます。

聖書をお開きください。レビ記25:39-46(225ページ)【聖書朗読】

イエス様がある時、パリサイ人から離婚について議論をしかけられたことがありました。その議論の途中で、彼らはイエス様に言いました。《「それでは、なぜモーセ(律法)は離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか。」》イエス様はこのように答えられました。《「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。(マタイ19:8)》私たちは今、主人と奴隷の関係について律法から学んでいます。今日は「しかし、はじめの時からそうだったのではありません。」というイエス様のことばを心に留めてみましょう。

主と民との歴史を振り返ると、「しかし、はじめの時からそうだったのではありません」とは、何度も繰り返して出てくる事柄でした。例えば、人は神である主に逆らって、罪を犯すようになりました。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。神の民は王様をもつようになりました。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。神の民はバビロンに滅ぼされ、異国の地で支配されるようになりました。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。私たちは、主を知ろうとする時、神である主の譲歩と、それによって民を神の国の義に導こうとする御業を理解する必要があります。

神である主と、神から息を与えられた人間は、はじめの時から主としもべの関係でした。それは本来の姿であり、愛と信頼と平安の祝福された関係でした。人は喜んで主に仕え、その働きはいつも豊かな実を結びました。しかし、人と人の間に、主人と奴隷の関係がもたらされてしまいました。それは罪の結果である、のろいによります。主人と奴隷(しもべ、家来:エベッド)の関係は、はじめの時からそうだったのではありませんでした。ノアの方舟(大洪水)の後日談に、ノアの息子たちの話がでてきます。ノアはこう言いました。《「カナンはのろわれよ。兄たちの、しもべのしもべとなるように。」(創9:25)》とても恐ろしい言葉ですね。「主人としもべ」この関係は、神である主と人の間にあった麗しい愛の関係でしたが、人と人の関係に持ち込まれてしまった今や、恐ろしいのろいとなってしまいました。

それでは、主ヤハウェはアブラムを呼んで、ご自分の民となさったとき、「主人としもべ」をやめさせたのでしょうか。そうではありませんでした。アブラハムの家には当然のように男女の奴隷がいました。その後もアブアハムの子孫たちは奴隷をもつのが当たり前でした。そうなっていたのです。さて、そのような中で、主は民に律法をお与えになり、主の御心をおしえてくださいました。

主はご自分の民イスラエルと異邦人を分けて、おきてを定められました。イスラエル人は《わたしがエジプトの地から導き出した、わたしのしもべである。奴隷の身分として売られてはならない。あなたは彼を酷使してはならない。あなたの神を恐れよ。(42-43節)》と言われました。人はただ主のしもべであって、他の人間のしもべになることはできないということです。はじめの時の状態、エデンの園での状態であり、神の国におけるあるべき姿です。

一方で、周囲の国々から来た者たちに対しては、《彼らの中から男女の奴隷を買い取ることができる。(44節)》と言われました。語尾に注目してください。「買い取ることができる」とあり、奴隷にしなさいとは言われていません。奴隷として買い取らないこともできます。世界の常識のようにする「ことができる」と、含みがある表現なのです。主はそれを推奨しているのではなく、譲歩して許可しているだけということです。主の御心は、すべての人が主のしもべとなり、どんな人と人の間でも「主人と奴隷」の関係が起こらないことです。

このように、イスラエル人と異邦人で対応に差を付けているのは、「しかし、はじめの時からそうだったのではありません」と気が付かせるためでした。「外の世界では奴隷が当然のようにいる。でも、神の民に入っていくと奴隷はいない。」こうして外から民の中に向かう流れができます。異邦人はイスラエル人よりランクが下だという意味ではありません。神の民は世界の中で、すべての人々から観察されて、神である主を思い出させるための存在でした。失ってしまったはじめの時を思い出させることは、神の民の使命です。

私たち教会も、神の国を人々に指し示していく使命が与えられています。世の常識の中で生まれ育ってきた私たちは、神である主の譲歩のなかで、どのように神の国の義を求めていけばよいのでしょうか。共に祈って主の導きをいただきましょう。

さて、ここで、神の国と教会について、思いを巡らせてみたいと思います。教会と神の国は不思議な関係があります。神の国は王であるイエス様によってもたらされます。イエス様は一度、弟子たちの群れに来てくださいましたので、教会に神の国がからしだねのようにやってきました。教会の中にすでに神の国は実現し始めています。しかし、教会は天にあるような完全な神の国とはなっていません。イエス様が再び帰ってこられる時に、教会は完全な神の国に迎え入れられます。教会には神の国のからしだねがすでに撒かれていますが、まだ天のような完全さはなく、神である主の譲歩の中で、完全な神の国を待ち望んでいます。教会は地上の住まいである《幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。(IIコリ5:2)》

私たちは神の国の生き方を学び続けています。しかし、みなさんお気づきでしょう。私たち王寺教会は、神の国の生き方と遠い歩み方をしているということに。他の教会はどうかというのは置いておいてください。私たちは私たちの群れのことを考えてみましょう。「主との関係」を学びました。今は「他の人との関係」を学んでいます。聖書には具体的に、神の国の生き方が示されていました。でも私たちは様々なことを自己流でやってしまって、なんだかまぁまぁ出来てるんじゃないという気持ちになっていましたけれど、具体的に言われてみれば、正しくないことがあれもこれも見つかってきます。主の御心とは、主がこうあってほしいと願っておられることです。主の御心の通りでないならば、(たとえ口先で賛美していても)私たちがイエス様を王として歓迎していないと受け取られるのであり、神である主にとって、そのような場所にいることはとてもつらいことです。主を愛する私たちにとって、主がつらい思いをしておられるということは、耐え難いことではないでしょうか。

ところで、このような現状を群れの中に見るときに、誤って霊的潔癖症を発症することがあります。自分のことはさておき、群れの落ち度を見て耐えられなくなってくるのです。「この教会には主に従う姿がない。主を心から賛美していない。夫婦が互いに恋い慕っていない。敵を愛していない。こんな状況は聖なる主にとって耐えられないはずだ。主はこの教会にはおられないに違いない。私もここにいるのはやめておこう。」もし、こんな症状が出てきてしまったら、主イエス様を完全に見失ってしまっています。罠に気付いてください。霊的潔癖症はパリサイ人の症状です。イエス様の御姿とは全く違っています。イエス様を思い出してください。クリスマスの日、ご自分を歓迎していない民のところに来てくださったイエス様を思い出してください。「こんな状況ではイエス様はつらいに違いない」というところまではその通りです。ところが、それにもかかわらずイエス様は毎週、私たちの集いに臨在してくださるのです。ここに良い知らせがあります。

クリスチャンが礼拝に集まるのは、心地よいからとか、楽しいからではありません。教会は楽しいと宣伝すべきではありません。私たちが一体何をしているのか聖書によって照らされれば、とても楽しいとは思えなくなるでしょう。でも、主イエス様がここに来られるのです。果たして私たちの群れの心のどこにイエス様の座席があるのでしょうか。学校の教室で、椅子が窓から投げられてなくなっていたら、いじめと言うのではないでしょうか。そんな場所に喜んで行きたい人はいるでしょうか。それにもかかわらず、主は私たちを(ご自分の敵を)愛しておられます。その愛に触れて、喜びが与えられるのです。喜びは、きよくされたい、主の御心を行いたいという渇きに私たちを導きます。

クリスチャンが礼拝に集まるのは、イエス様に従うからです。イエス様に従いますと約束したとき、主は私たちを教会に導かれました。教会はイエス様の宣教の場です。ツァラアトの人に近づき、手で触れて、きよくされたように、こんなめちゃくちゃな私たちのところに来てくださって、抱き寄せて、きよくしてくださいます。だから、私たちは今日も敵を愛するために集まるのです。宣教とは、教会を素晴らしいと見せかけることではありません。こんな教会に来て、私たちを救われるイエス様を伝えることが宣教です。

神である主の譲歩(忍耐)と、それによって民を神の国の義に導こうとする御業がなければ、この世はもうとっくの昔に消え去っているはずです。みなさん、譲歩するのは得意ですか、苦手ですか。特に大切にしている事柄に関して、譲ることは眠れなくなるほど大変なことではないでしょうか。神様ならそんなことへっちゃらと思いますか?とんでもない。預言書をくまなく読んでみてください。主の心を知ることができるでしょう。それでも、主はすべての人を救いたいと願っておられます(Iテモ2:4)。

私たちがそれぞれの場所に散らばっていき、世に遣わされていくなら、神の国とはさらに遠い常識で動いている世界に入っていくことになります。だからそんなところには入らないと言うべきではありません。主は霊的潔癖症の人々が決して近づこうとしない場所にさえ、出ていかれるのですから、私たちも後を付いていきましょう。ただし、世の生き方に染まって生きようとするのではなく、知恵をいただいて神の国の義をもたらしていきましょう。「主人と奴隷」の関係は、人と人の関にはじめの時からあったたのではありません。互いに酷使し合ってはなりません。人間は神である主のしもべです。

お祈りします《彼らは、わたしがエジプトの地から導き出した、わたしのしもべである。奴隷の身分として売られてはならない。あなたは彼を酷使してはならない。あなたの神を恐れよ。》

天の父なる神様。私たちを奴隷の身分から救い出すために、くびきの横木を砕き、私たちが自立して歩めるようにしてくださった主よ。

ただあなただけが私たちの主人です。私たちはあなたに聞き従います。

あなたのみこころに程遠い歩みをしている私たちをあわれんでください。それにもかかわらず、ご自分の約束を真実に守り、私たちのただなかに来てくださる主よ。あなたは天よりも高く、海よりも広いお方です。

主よ。私たちを霊的潔癖症から守ってください。忍耐のない者に、キリストの香りはありません。パリサイ人たちが近づきたくないと思った人に、近づいて、運び、介抱したサマリヤ人のように、私たちもまた、近づきたくないと思う人に行って、友となります。あなたのみこころを行うことを教えてください。

世にあって、神の国の義をもたらすために、日々知恵を与えてください。今週も福音を携えて、私たちは出ていきます。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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