ペンテコステおめでとうございます。天に昇られたイエス様は、エルサレムにとどまって祈っていた弟子たちの群れに、約束通り助け主としての聖霊を注がれました。罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けた人たちには、今日でも賜物として聖霊が与えられています。
ペンテコステのときに聖霊に満たされた人々は、神殿に集まって礼拝し、家々に帰っても食事の礼拝をしていました。その心には喜びと真心があったと書かれています。私たちも今年のペンテコステを喜びと真心の礼拝によって記念し、祝いたいと思います。
ペンテコステの出来事は使徒の働き2章に書かれています。少し長いですが、2章全体を読んで、何が起こったのか思い出してみましょう。聖書をお開きください。使徒の働き2章(233ページ)【聖書朗読】
主イエス様はイースターから40日後に天に昇り、人の目に見えなくなられました。イエス様はこの日のことを、予め多くの人々に、また弟子たちに伝えておられました。《わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。(ヨハネ13:33)》と言われたとき、ペテロは《「主よ、どこにおいでになるのですか。」…「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。(ヨハネ13:36-37)》と言いました。トマスは《主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。》と言いました。弟子たちが動揺していたことが分かります。主イエス様と数年間を共に過ごした人々でさえ、イエス様の姿が目に見えないことは大変な不安でした。現代の私たちは最初からイエス様を目にすることができませんので大変です。主はそのことを良く理解しておられました。動揺する弟子たちにイエス様はひとつの約束をなさいました。《わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。(ヨハネ14:16-18)》
このように、約束の聖霊は、イエス様が目に見えなくなっても弟子たちが見捨てられてしまったと思わないように、いつまでもイエス様とその教えをおぼえていて、主が帰ってこられるまで待っていられるようにと、ひとりひとりに与えられたのです。事実、私たちの手元には、聖霊に動かされた人たちが神から受けて書き残した聖書があります(IIペテロ1:20-21)。イースターから二千年以上経ちましたが、私たちはイエス様が何とおっしゃったか、何をなさったかた知っています。これは当たり前のことではありません。目に見えなくなってしまったら、直接会った人々は覚えていられるかもしれませんが、後の時代の人たちはイエス様を思い出して、帰って来られるのを待つなんて、まず不可能でしょう。しかし、聖霊が私たちの内にいてくださることによって、私たちは目に見えないイエス様を知ることができるし、いつも忘れないで、帰りを待ち望むことができるのです。
ペンテコステの日、イエス様の弟子たちは約束の聖霊を待っていました。すると聖霊が彼らに下り、皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、外国語で話し始めました。なぜ外国語で話し始めたのかというと、その時、エルサレムには天下のあらゆる国々から敬虔なユダヤ人たちが集まっていたからです。イースターがあった過越の祭りや、ペンテコステがあった五旬節は、どちらも律法に定められた三大例祭であって、都上りの祭りだったからです。それぞれの居住地から旅をして、エルサレム神殿で礼拝する巡礼祭でした。5節に「住んでいた」と書いてあるのは、過越の祭りから五旬節まで2か月弱ありますが、わざわざ地元に帰って出戻るのではなく、そのままエルサレムに滞在する多かったので、「2か月近くエルサレムに滞在していた」という意味です。彼らは捕囚以来、世界のあちこちにバラバラにされてしまったユダヤ人たちでした。何世代もするうちに、ユダヤ民族の言葉は分からなくなってしまっていましたが、主を恐れる信仰を持ち続けていたのです。年に三回の巡礼祭を守って、遠い国から時間もお金も労力もかけて、エルサレム神殿に礼拝に来ていました。聖霊に満たされた弟子たちが外国語で話し始めたのは、このユダヤ人たちに、彼らが分かる言葉で語りかけるためでした。主はご自分の弟子たちを見捨てられませんでした。また世界のあらゆる国々に散らされてしまった民を見捨てておられませんでした。
さて、聖霊に満たされたペテロは、敬虔なユダヤ人たちを前に、聖霊によって何を語らされたのでしょうか。何か、父なる神様の時代があって、次に御子イエス様の時代があって、その次は聖霊の時代がきたということで、「よし、次は私の番だよ~」という感じで、聖霊が何か新しい時代の天からの啓示をペテロに語らせたのでしょうか。いいえ。イエス様が旧約聖書を解き明かされ、わたしについてきなさいと言われたように、聖霊なる主はイエス様を指し示し、人々が実は主であるイエス様を十字架にかけてしまったことに気付かせ、そしてイエス様に背く人生を改めて、イエス様に聞き従うことを教えました。イエス様がおっしゃっていたことと変わりません。父・御子・御霊は三位一体の神、主です。
目に見えない霊というのは、古今東西いろいろとあるわけで、最近は観測できない物の存在を一切認めない人も多いですが、「聖霊なる主よ。導いてください」とクリスチャンたちが祈るときに、Aさんを導く霊と、Bさんを導く霊が同じかどうかどうやって分かるのでしょうか。あるいは何かの解明されていない物理現象が作用しているのか、それとも聖霊が働いてくださっているのかどうやって分かるのでしょうか_ あのペンテコステの日、マッティアを含めた12人の使徒たちがそれぞれに外国語で人々に語りかけていました。誰が何語で何を語ったのか詳しくは書いてありません。ペテロが語りかけた内容だけが記されています。(ペテロは何語で話したのでしょうか。)しかし、当時あの場所には少なくとも3千人以上いたようですが、37節を見ると、どの言語で聞いた人も《心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った》のです。その答えはすべての人に同じでした。「悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」使徒たちは、別々の言語を話しましたが、一致して主イエス様を証ししました。事前に打ち合わせていたわけではありません。みな同じ、おひとりの聖霊に満たされ、同じ聖霊に導かれて、まさに異口同音に「十字架で殺され、よみがえられたイエス様は主である」と証ししたのです。聖霊は主イエス・キリストを証しします(Iヨハネ4:2)。今日でも同じです。物理現象には当然ながら意志はありませんので、世界のあちこちに住んでいる人々を、またある時代と別の時代の人たちを、一致させて動かすことはありません。インドの仏教と日本の仏教が全然違うものになったように、こっちの国のクリスチャンとあっちの国のクリスチャンが全然違うことを言っていたり、江戸時代のクリスチャンと令和時代のクリスチャンが違うことを信じていたりするはずではないでしょうか。しかし、世界のどこに住んでいても、どの時代に住んでいても、私たちは十字架にかかって死に、3日目に墓からよみがえられたイエス様を信じ、イエス様が主であると証ししています。これは聖霊によるのです。
ペテロは33節で、《今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊》と言いました。聖霊は目に見えないはずです。それは、12人の使徒たちが別々の外国語を話し、イエス様を証ししている様子を目にし、その使徒たちの言葉を耳にしているということでした。それはありえない光景だったので、人々は聖霊が働き、聖霊が語っていると目と耳で分かったのです。今日、2025年6月8日、私はエルサレムから遠く離れた国で、日本語で、イエス様が主であると証ししています。ペンテコステの日に日本語で語った使徒は、多分いなかったと思います。でも、ペンテコステの日に使徒たちに語らせた同じ聖霊が、あれから二千年以上経った今日、この国でもあの国でもあらゆる言語で、主イエス様を思い出させ、主であると証しさせています。よく考えてみれば、これはありえない光景です。主イエス様とその御業が語られているとき、私たちは聖霊を目にし、耳にしていています。
イエス様が主であると証しされたとき、敬虔なユダヤ人たちは心を刺されました。彼らは誰よりも主を愛していると思っていたからです。多くの犠牲を払って巡礼に来ていました。ところが、心から恐れ、愛していると思っていた主は、50日前の過越の祭りの時に彼らが「十字架にかけろ」と叫んだ末に十字架にかけられたイエス様だったのです。彼らは心を刺されました。後にサウロがダマスコの途上で受けたショックと同様のものでした。私たちもまた、聖霊がイエス様を証しして語るとき、心が刺される経験をします。私たちを形造り、愛してお世話してこられたお方を、私たちは知らないと言い、十字架につけてしまったからです。
さて、私たちはどうしたらよいのでしょうか。罪を赦していただくために、悔い改めてバプテスマ(洗礼)を受けなさいと、聖霊なる主はペテロに語らせました。バプテスマを受けるなら、賜物としてすべての人が聖霊を受けます。この箇所だけを読むと、洗礼を受けたら、その次に聖霊を受けるように理解できます。後の出来事では、例えばコリントではバプテスマを受けた後に聖霊を受けた人々がいました(19:5-6)。しかし、サウロ(パウロ)は聖霊に満たされてからバプテスマを受けたようですし(9:18)、カイサリアの人々も聖霊が下ってからバプテスマを受けています(10:44-48)。主の名による洗礼と聖霊による再生(ヨハネ3:5、テトス3:5)の関係は、詳しくは明かされていませんおそらく型にはまった手順ではないのでしょう。しかし、分かるのは、主の御名によるバプテスマと聖霊によって新しく生まれることは切り離せないということです。人の側の「主イエス様に言われた通り従う」という、公に現される決意と、聖霊が信じる者を再生させ、刷新してくださることは、切り離すことができないのです。
今日においても、私たちは主イエス様が証しされるとき、聖霊を目にし、耳にしています。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしれはならない」と聖書は語っています(ヘブル3:7)。
お祈りします《「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」》
天の父なる神様。御子のお願いに答えて、もう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも私たちとともにいるようにしてくださったお方。私たちの主よ。
今日においても、イエス様が弟子たちに話したすべてのことを私たちが思い起こすことができるのは、助け主なる聖霊がわたしたちにすべてのことを教えてくださったからです。こんなに長い年月が経ち、またエルサレムから遠く離れた土地に住む私たちさえ、決して見捨てることをせず、平安を残してくださり、ありがとうございます。
いま、私たちはイエス様が御父のみもとに去って行かれたが、私たちのところに戻ってこられることを知り、信じています。イエス様が帰ってこられるその時まで、主が教えてくださったことに聞き従い、いつも待ち望みます。世に寄留している私たちをいつも助けてください。
私たちがあなたからいただく賜物のうち、一番のものは聖霊なる主です。どうか私たちを満たしてくださって、御霊の実をいつも結ばせてください。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。
0 件のコメント:
コメントを投稿