私たちの主は「それにもかかわらず」のお方です。神の恵みは「それにもかかわらず」の恵みです。聖書を読んで分かることは、主はいのちのお方であって、のろいを祝福に変えてくださるということです。神の民は、その歴史の中で、何度も「それにもかかわらず」を経験してきました。
イエス様は、弟子たちを決して見捨てないとおっしゃって、聖霊をお遣わしになりました。《見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)》と言われた約束の成就として、聖霊が与えられました。聖霊は私たちの内に住んでいてくださいます。その聖霊は、私たちにみことばを悟らせ、またみことばを思い出させてくださるお方です。私たちが慌てふためいてしまう出来事に遭遇したとき、波を見て沈んでしまったペテロや、嵐の小舟で眠っていたイエス様を叩き起こした弟子たちを思い出すのです。しかし、彼らは「それにもかかわらず」イエス様の弟子とされていました。ペテロは海から引き上げられ、嵐は静められました。私たちも人生の様々な場面で、「それにもかかわらず」を経験します。聖霊は信じる者たちに救いの確信を与えてくださると言いますが、私たちが経験を通して与えられていく確信は、「私が主を喜ばせる素晴らしい人になれた」という確信ではなく、神の恵みが圧倒的に深いこと、神の愛が考えられないほど大きいことの確信であると思います。「それにもかかわらず」主は私たちを救ってくださるのです。
今日もみことばを通して主を知りましょう。聖書をお開きください。ルカの福音書8:40-56(129ページ)【聖書朗読】
ヨセフ会のみなさまにあわせた聖書箇所を祈り求めていたところ、会堂司ヤイロにイエス様がしてくださったことを思い起こしました。
ヤイロは会堂司でした。会堂(シナゴーグ)は、エルサレム神殿の他にユダヤ人たちが礼拝する場所でした。エルサレム神殿での礼拝は、生贄をささげ、全焼の煙と共に祈りをささげる儀式がメインでした。一方、会堂での礼拝は、聖書を朗読し、詩篇を讃美し、祈るプログラムがメインでした。神殿では祭司が仕えていましたが、会堂では、そこに集まる地域住民の長老たちが会堂司として交代で仕えていました。聖書朗読の箇所を決めたり、礼拝の司会をしたりしていたようです。ヤイロはそのような社会的立場のある人でした。
またヤイロは12歳くらいの一人娘をもつ父親でもありました。彼はユダヤ人の会堂で仕えていた長老であり、当時、祭司長や律法学者たちが神を冒涜していると見られていたイエス様のところにやってきて、足もとにひれ伏すということは、非常にリスクの高いことだったはずです。しかし、彼は必死でした。娘が死にかけていたからです。ヤイロは、父親としてできる精一杯のことをしたのだと思います。
夫であるということ、また家の父であるということは、社会的な期待と重い責任があります。はじめの時からそうだったのではありません。確かに主は男を先に造られましたが、家の責任者にしようと思ったから先に造られたとはひとつも書いてありません。エデンの園には、神である主が備えられた食物が豊かにありましたし、彼らを攻撃する敵はいませんでした。住むところは備えられていたし、着るものも必要なかったし、病気も災害もなく、道に迷うこともなかったのです。家族が生き延びて幸せに生活するためにアダムが頑張る必要は一切ありませんでした。ただ主が備えられた世界を感謝して楽しみ、「私の骨からの骨、私の肉からの肉」と呼んだ妻と助け合って、祝福に満ちた世界を管理していく生活だったのです。ところが全ての祝福の源である主との関係が破綻してしまいました。アダムは自分の選択の結果であるのろいを受けることとなりました。人に対して茨とあざみを生えさせて反抗する大地を相手に、苦しんで食べ物を得るようになったのです。大地と戦って捻じ伏せなければなりません。効率的に仕事をしなければなりません。チームワークで結果を出さなければなりません。そうやってようやく、短い人生のいくらかの時間を引き伸ばし、大きな苦痛のいくらかを和らげることができました。はじめの時からそうではなかったのに、やがてアブラハム(アブラム)の時代には、父が家族を養い、導き、教え、住むところを備え、敵から守り、救い出し、争いを治める期待と責任を担うようになっていました。それは主がしてくださっていたことなのに、主と断絶し、主を知らなくなった世界では、家の父が担わなければならなくなっていました。
ヤイロもまた、12歳の娘の父でした。彼にも社会的な期待と責任があったはずです。しかし、彼はこの時、死にかけている娘のためにどうすることもできないという状態にありました。何とか助けてあげたい、助けなければならないと思っていたでしょう。しかし命を前にして、人間にできることは限られています。心配したからといって、命を延ばすことはできないのです。人はこのような時に本当に無力です。父であるのに、無力だということは、非常に大きな苦悩となります。
しかし、これは現実なのです。そもそも男が造られ、妻が造られ、家族が生まれていったとき、家族の命を祝福するのは主の役割でした。そのための能力は人には必要なく、与えられていませんでした。そういうわけですから、この壊れてしまった世界において、人は持っていない力を、持っているように期待されているのです。人生のほとんどの時、私たちはこの事実に気が付かないで生活していますが、消えていく命を目の前にする時、この事実と直面することになります。
アブラハムは神の民イスラエルの始まりとなった人です。信仰の父と呼ばれています。彼の人生を振り返ってみると、神である主が家の父(贖い主:ゴエール)にどんなことをしてくださるか気が付くでしょう。アブラハムは信仰の父と呼ばれる割には、実は家族を養い、守り、導き、争いを治めることが上手くできていませんでした。彼が故郷を旅立ったのが75歳であったことも関係あるかもしれません。
アブラムが妻としもべたちを連れて、カナンにやってきた時、飢饉が起こりました。それで、彼は食料を求めて、家族を連れ、エジプトに下っていくのですが、美しい妻のために自分が殺されてしまうかもしれないと思って、妻のサライを妹だと言うことにしました。サライと相談して、彼女も同意の上でそうしたようですが、実際サライはどう思っていたのでしょうか。家族の安全のために自分が差し出されたように思ったかもしれません。しかも、アブラハムは2回も同じことをやっています(創12、20)。しかし、主はいずれの場合も事態に介入してくださって、家族が守られ、食料を得られるようにしてくださいました。
アブラムになかなか子どもが生まれなかったとき、サライは女奴隷ハガルによって跡継ぎを生むように言いました。アブラムは主の約束を待つようにと妻に言うことができず、その助言に従います。その結果、ハガルは身ごもりますが、サライとハガルに争いが起こってしまいました。アブラムは争いを治めることができず、ハガルを守らず、追い出されるままにしてしまいました。しかし、主がここにも介入してくださって、ハガルに語りかけ、争いを治めてくださいました。2回目にハガルとイシュマエルが追い出されてしまったときには、この時もアブラムは無力でしたが、主はイシュマエルの命を救い出し、二人を守られました。
ロトが罪深い町と共に滅びようとしていた時、アブラハムは救出に出かけることができませんでしたが、主は使いを送り、ロトの手をつかんで救い出してくださいました。
モリヤの山での出来事は、最も象徴的な出来事です。アブラハムは自分の息子イサクに命を与えることができず、ただ殺すことしかできませんでした。これは私たちの人生を象徴していると思います。祝福したいと思うのに、その力は私たちにはなく、壊してしまうことしかできないことに気が付くのです。しかし、主は「その子に何もしてはならない」といって止めさせ、何も備えることができなかったアブラハムに代わって、角を藪に引っ掛けていた雄羊を備えてくださいました。アブラハムの生涯を通しての証は、「主の山には備えがある(創21:14)」でした。
父にかけられている期待と責任に対して、それに答える力を私たちは持ち合わせていません。しかし、主はあらゆる事態に介入してくださって、その期待と責任が果たされるように、すべてを成し遂げてくださいます。詩篇にはこのような歌があります。《【主】が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。【主】が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起き遅く休み労苦の糧を食べたとしてもそれはむなしい。実に主は愛する者に眠りを与えてくださる。(詩127:1-2)》
ヤイロは主イエス様のところに来ました。イエス様の足もとにひれ伏して、自分の家に来ていただきたいと懇願しました。マルコの福音書には彼の言葉が書いてあります。《「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」(マルコ5:34)》またマタイの福音書には、娘が死んでしまったと連絡を受けた後にも、こう言っています。《「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」(マタイ9:18)》この出来事には、長血を患った女の人の出来事が挟まっています。彼は一刻を争う状況で待たされていました。イエス様の衣の房に触れて癒やされた人を、わざわざ探して話しかけることに、どれほどの重要性があったのでしょうか。彼女はすでに癒やされていたのに。「死にかけている女の子を助けに行くよりも、優先すべきことだったのでしょうか」と私たちは思ってしまいます。でも、それは命を前にして何もすることができない人間の考えに過ぎません。イエス様は眠る子を起こすように、死んでしまった少女をよみがえらせてくださいました。こうしてヤイロは家族のために最善のことをしたのです。すなわち、命に祝福を与えることがおできになる、力ある主イエス様の足もとにひれ伏して、お願いしたということです。
家族は「お父さんスゴイ!」と言ってくれるかもしれません。しかし、主を恐れるお父さんたちは、自分には力がないことを知っています。主がこの家族を助けてくださったので、責任を果たせたと知っています。そして、子どもたちに教えるのです。「主を恐れ、主に頼りなさい」と。
かつて、神の民を約束の地に導き入れたヨシュアは、こう言いました。《今、あなたがたは【主】を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え、あなたがたの先祖たちが、あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、【主】に仕えなさい。【主】に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は【主】に仕える。(ヨシュア24:14-15)》
お祈りします《これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」》
天の父なる神様。あのダビデ王に「わたしがあなたのために一つの家を建てる」と言われた万軍の主よ。すべての祝福はあなたの御手の業によります。
聖書に書いてあることは、私たちの人生においても、その通りでした。あなたは私たちの家に来てくださり、あなたの山に備えがあることを教えて下さいました。あなたを恐れることが知識のはじめでした。結局のところ、あなたを恐れ、あなたの命令を守ることがすべてであることを学びました。あなたが帰ってきてくださる日まで、私たちは証しし続けます。あなたが私たちの家を建ててくださったと。
社会的な期待と責任に、押しつぶされそうになっている人々を、どうかかえりみてください。私たちが土から造られたことを、思い出させてください。人々があなたの家に帰ってきますように。主であるあなたがすべての備えを与えてくださる家に、帰ってきますように。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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