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2015.06.22 主日礼拝「「落ちてきたパン屑」マタイの福音書15:21-28







私はまだまだ未熟で自分の成長や自分の信仰を高めることしか見えていなかったです。これから少しずつでも、教会の成長につながるような働きをしたいと思いました。(megu)



礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。今日もようこそ、お集まりくださいました。先週もそれぞれに主が通してくださった一日、一日があったことでしょう。主の恵みを思い出して、互いに分かち合い、励ましあって、新しい週の歩み出しとしたいと思います。

主イエス様は私たち一人ひとりに個人的に関わってくださるお方です。色々な人生の出来事を通して、私たちはイエス様と出会い、主が事態に介入してくださることを経験します。主は確かに生きておられて、私たちの内に働いていてくださるのです。私たちは毎週、主が定めてくださった日に集まっています。それは、私たちが集まって、主がしてくださったことを公で感謝し、証を持ち寄って、互いに励まし合うためです。私たちが主の日に集まるのは、自分の徳のためではありません。

かつて初代教会の中に、コリントの町の群れがありました。彼らは色々と課題を抱えたクリスチャンたちでした。その中で、パウロが指導したことのひとつは。コリント教会の人たちが、自分の徳のために、神様の賜物を求めていたことについてでした。彼らは「自分を成長させたい」といつも考えていたのです。しかし、パウロはイエス様の姿を思い出させるように、こう言いました。《あなたがたも、御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会を成長させるために、それが豊かに与えられるように求めなさい。(Iコリ14:12)》《あなたがたが集まるときには、…そのすべてのことを、(教会の)成長に役立てるためにしなさい。(Iコリ14:26)》

「聖日に集まって、何か自分の成長に役立つものをもらい、後の6日間は聖日にもらったものを少しずつ使って、何とか一週間を乗り切っていこう」という意識があったとしたら、それはイエス様の教えと違っています。主は6日間のうちに一人ひとりの人生に現れてくださり、多くの恵みをくださるのです。聖日は与えられた恵みを持ち寄って、(自分を成長させたいと考えるのではなく、)教会を成長させるために賜物を存分に用いて仕え合う日です。私たちがどんな意識をもっているか、今一度、吟味してみましょう。

教会を成長させるとは、組織の人数を増やそうとか、建物を大きくしようとか、財産を増やそうとすることではありません。教会の一人ひとりが、またこの群れが、さらに深く主を知り、主を恐れ、主と強い関係を築いていくことです。教会の一人ひとりが、またこの群れが神の国の生き方で生きるようになることです。仲間は主が加えてくださいます。

聖書をお開きください。マタイの福音書15:21-28(31ページ)【聖書朗読】

今日の箇所でイエス様と出会った人は、ツロとシドンの地方にいたカナン人の女性です。ツロとシドンの地方とは、ユダヤ人たちが住んでいたガリラヤ地域より、山を超えて60kmくらい北にある海沿いの地域です。イエス様の時代では同じローマ帝国内の地域ですが、かつてはイスラエル王国の隣の国でした。そこにユダヤ民族は住んでいません。主を信じ、主により頼んで歩んでいる人はいないだろうと思われている地域でした。

カナンとは、その土地の名前であり、民族名ではありません。アブラハムがこの土地にやってきた時にこの土地にいた人々を、カナン人と呼んできました。ユダヤ民族ではない人、神の民ではない人、外の人たちというニュアンスがこもった表現です。

創世記から始まる聖書の歴史は、これまでずっと、神の民イスラエルの話でした。24節でイエス様は《「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」》とおっしゃっています。これは何のことでしょうか。旧約聖書を順に読んでいくと、神である主のご計画があったことが分かります。

まず大前提として、アダムとエバが罪を犯した時から、人は自分たちの造り主である主を離れてしまい、やがてその存在すらも忘れていきました。バベルの塔を建てた頃には、もはや誰も主を知らないという状況でした。世界は祝福を失い、のろいが地の全面に広がっていたのです。しかし、主はひとりの人アブラムを呼び出されました。彼は主の声を聞いて、主を信じ、主に従いました。

主がアブラムを選ばれたのには計画がありました。主はアブラムにこう言われました。《「あなたは、…わたしが示す地へ行きなさい。…あなたは祝福となりなさい。…地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(創12:1-3)》主はこの世界に住むすべての人をのろいから解き放って、祝福したいと願って計画をお立てになったのです。そのためにアブラムを選び、その子孫を神の民として、彼らが祝福され、そして彼らを通して、すべての人々が祝福されるようにという計画でした。神の民イスラエルだけを選んで贔屓したのではありません。彼らが主の使いとして神の恵みを運び、世界の祝福となるようにという計画であり、こうして全ての人が救われる計画でした。今日のこの場面で、イエス様はそのご計画のことをおっしゃっていたのです。

ところが、神の民が全世界の祝福となるという計画は、全然その通りになっていませんでした。民が主の掟に従わなかったからです。自分たちは神に選ばれた優れた民族だと思い込んでいて、自分たちが救われることは大歓迎なのに、外の人は敵だとしか思っておらず、主の御心を全然理解しないで、主の掟に聞き従わなかったからです。主が人となって地に来てくださった、それがイエス様でした。ところがイエス様が主であると、全く気が付きません。

「ところが何ということでしょう!」というのが今日の出来事です。さて、ここで、ひとつのことを考えてみましょう。イエス様はなぜツロとシドンの地方に行ったのでしょうか。それはガリラヤから山を超えた先です。ちょっと道を間違えて、境界線を越えてしまったという距離ではありません。行こうとして行かないと、そこまでは行かないでしょう。聖書を読んでいる人がいそうもない地域です。「イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていない」のならば、こんな場所に来ている場合ではないはずです。イエス様はどうされたのでしょうか。お忍びの休暇か何かでしょうか。_ いいえ。イエス様はわざわざこのカナン人の女性に会いに来られたのです。

この女性は、まさか私が住んでいる場所にナザレのイエス様がいるなんて、あり得ないと思ったでしょう。「なんでここにいるの!?こんなことは二度と起こらないわ。」どんな様子で出てきたと思いますか。《「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。(22節)》とあります。

イエス様は黙っておられました。なぜでしょうか。そこにユダヤ人である弟子たちがいたからでしょう。主のご計画は、まず神の民が救われ、祝福を受けて、今度は彼らが神の恵みを運び、すべての人が救われることでした。ということは、今こそ弟子たちの出番なのです。イエス様は黙っておられました。ところが弟子たちはイエス様の意図を全然読み取れません。こんな外国の女は相手にするべきじゃないとイエス様は考えて、煙たく思っておられるに違いないと勘違いしました。弟子たちは近くにやってきて、おそらくヒソヒソと言ったのでしょう。《「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」(23節)》弟子たちは、「なぜこんな外国の土地にやってきたのだろう、ユダヤ人もいそうもないのに。しかも、気が狂った人が突然現れて、恐ろしいったらありゃしないよ」と思っていたのではないでしょうか。この弟子たちと、主に叫び求める女性の差がお分かりでしょうか。

イエス様は答えられました。《「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」》この言葉は誰に言ったのでしょう。答えたのですから、前の言葉に答えたです。前に話したのは弟子たちです。「弟子たちよ。ここはあなたたちの出番です」という意味でしょう。弟子たちは無反応、なぜならさっぱり意味がわかっていないのですから。

しかし、彼女は来て(弟子たちは何もしてくれないのに)、イエス様の前にひれ伏して(礼拝の姿勢)、言いました。《「主よ、私をお助けください。」(25節)》このような信仰をイスラエルではほとんど見ることができませんでした。イスラエルでさえ見られなかったのなら、他のどこで主に信頼する人の声を期待することができるでしょうか。そんな人間の考えを彼女はひっくり返しました。

イエス様は彼女に答えられました。《「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」(26節)》良くないというのは、計画に沿った方法ではないということです。主のご計画は、パンを受け取った子どもたちが周りの人々にパンを分けていくことでした。イエス様がこの場で期待されていたことは、弟子たちが彼女をかわいそうに思って、イエス様のみ名によって祈り、悪霊を追い出してあげるとか、少なくとも彼女の立場に立って、イエス様に助けてあげてくださいとお願いすることでした。弟子たちは周りで聞いていながら、まだピンときません。

彼女は言いました。《「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」(27節)》我が家には幼い子どもたちがいます。食事の時には、食べ物をこぼしてしまうことがあります。でも、こぼそうと思ってこぼしているわけではありませんから、いつ落ちるかは予想できません。彼女にとって、このツロとシドンの地方でナザレのイエス様に出会うとはまさか予想していなかったことでした。子供の手から滑って食べ物が急に落ちてしまったように、目の前に突然イエス様が現れたのでした。彼女はこの時を逃さず、救い主イエス様の前にひれ伏して、救いを求めました。

イエス様は彼女に答えられました。《「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」》直接はこの女性に向かって語られた言葉ですが、弟子たちもよく聞くようにと思って語られたと思います。《わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。(ルカ7:9)》と弟子たちにはお伝えになりたかったのでしょう。エルサレムから遠く離れた場所で、神の民でないカナン人の女性が、主を呼び求めました。イエス様はわざわざ彼女に会いに行かれ、彼女と娘を救われました。

神である主は世界に住むすべての人を救いたいと願っておられます。そのために神の恵みを運んでいく人たちを先に救われました。しかし、先に救われた人たちが機能不全だったらどうするのでしょうか。パンはすべての人に行き渡らないのではないでしょうか。いいえ。そんな時でも、主イエス様はあなたのところにわざわざ出向いて、あなたに現れてくださいます。「まさか世界の片隅に潜んでいる私のところに、イエス様は来られるわけがない」と思うかもしれません。でも、祈ってみてください。沢山の人達が「イエス様が私のところに来られた」と証をしています。

神の国は先の者が後になり、後の者が先になるところです。私は「外の人」だから、大事にされないと思っていませんか。そんなことはありません。むしろ「外の人」の信仰が教会を驚かせるのです。

お祈りします《そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。》

天の父なる神様。ご自分の民をあらゆる民族の中にあって、あなたの宝とされたお方。全世界はあなたのものです。

実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛しておられる主よ。あなたは世界のすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。そのためにツロとシドンの地方にまでわざわざ出向いて行かれました。またある時には、カンカン照りのサマリアの井戸に行かれました。あなたを求める者を、あなたはお見捨てになりませんでした。どうか今日も、あなたを求める者をお見捨てにならないで、叫びに答えてください。

またあなたは先に救われた者たちを、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民とされました。それはあなたの栄誉を教会が告げ知らせるためです。主よ。どうか私たちの目を覚まさせてください。私たちが恵みを受け取ったのは、さらに多くの人に分け与えるためでした。あなたの御心を行うことを教えてください。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。


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