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2025.05.25 主日礼拝「信じられない人々に」ルカの福音書24:33-43

 







礼拝は感謝と祈りを持ち寄り、集まる場所だと教えられました。気づけば祈りの叫びばかりを礼拝に持ちこんでしまいます。主が与えてくださるたくさんの喜びに感謝して今週も過ごしたいと思います。(megu)


礼拝説教 中尾敬一

おはようございます。ペンテコステを待ち望みながら復活節を共に歩む私たちですが、今日も共に集まり、主を見上げて、恵みにあずかる時を与えられ感謝です。

一週間に一度、共に集まる礼拝のひとときです。今日はどのような感謝を持ち寄られたでしょうか。昨年から、王寺教会では聖日お昼の愛餐を少しずつ再開しております。コロナ禍に入る前には、エステル食堂と銘打った愛餐の時が毎週持たれていたことを伺いました。私は残念ながら当時を知りませんが、エステル会のみなさんがおかずを持ち寄って、みんなで食卓を囲んだそうです。主イエス様が用意して下さる食卓では、私たちの食べるものは主が用意してくださいます。復活のイエス様から焼いた魚を振る舞ってもらったペテロたちのように、私たちは日々養われているのです。一方で、私たちが主の食卓に持ち寄るものがあります。それは主への感謝です。パーティーの時に、食べ物や飲み物を持ち寄るように、私たちは週に一度、それぞれに感謝を持ち寄ってテーブルに乗せています。そして兄弟姉妹と共に主に感謝するのです。先週、主が与えてくださった恵みをもう一度思い出しましょう。そしてあなたの感謝を主の食卓に乗せてください。

あるいは、祈りの叫びを持ってくる週もあるでしょう。それもまた持ち寄ることができる事柄です。主の宮(クリスチャンの集い)は祈りの家です。私たちはいつも祈るために集まっています。しかも、私たちには特権があるのです。主イエス様のみ名によって祈る特権です。イエス様のことばを思い出しましょう。《あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。(マタイ18:19-20)》《わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。(ヨハネ16:23-24)》

そのようにして、感謝を持ち寄り、祈りを持ち寄るなら、私たちには患難の中にあってさえ、喜びが与えられます。主は私たちの礼拝を喜びの日としてくださっています。

聖書をお開きください。ルカの福音書24:33-43(173ページ)【聖書朗読】

今日の出来事は、イエス様が十字架で死に、墓に葬られた後の話です。イエス様は死んで3日目に生き返られました。よみがえられた日の朝、墓を訪れた女性に天使が現れ、イエス様が生きておられることを彼女たちに伝えました。その女性たちのうち、マリアひとりにはイエス様自身が現れて、会話をしました。女性たちは墓から帰って、イエス様が生きておられるという天使のことばを弟子たちに伝えました。しかし、弟子たちには、この話はたわごとのように思えたので、信じることができませんでした。

イエス様と寝食をともにしていた弟子(使徒)は12人いましたが、イスカリオテのユダはイエス様を裏切って、群れからいなくなっていました。残る11人の弟子たちは、イエス様を十字架にかけて殺したユダヤ人たちが、今度は自分たちを捕まえに来ると恐れて、隠れていました。隠れ家に集まり、戸には鍵をつけていました。どんなに怯えていたことでしょうか。

イエス様にはいつも行動を共にしていた弟子たちの他にも、イエス様の教えを聞いて信じていた人たちがいました。そのうちの二人が、ちょうどその日、エルサレムを離れて歩いていました。この二人はイエス様を信じていたけれども、イエス様があっけなく死刑にされてしまったので、がっかりして弟子たちの群れを離れて去っていく途中でした。女性たちが天使の幻を見たこと、イエス様が生きておられると告げられたことを聞きました。またペテロたちがイエス様の墓が空っぽになっていることを確認したと聞きました。しかし、生き返られたとは信じないで、弟子の群れから離れ去っていったのです。ところが、その二人に、よみがえられたイエス様が現れ、一緒に食卓について、パンを裂き、お与えになったのでした。その二人が、33節冒頭の「二人」です。

二人がエルサレムに戻った時、11人の使徒たちと仲間たちが集まっていました。彼らは混乱していました。どうやら生きておられるイエス様が、シモン・ペテロにだけ姿を現されたようでした。女性たちの話を信じられなかった弟子たちですが、それに続き、ペテロもイエス様と会った、また二人がそこに入ってきて、私たちもイエス様と会ったと話しました。どんなにか驚き、混乱していたことでしょうか。

まさにその時、イエス様が現れて、彼らの真ん中に立ちました。そして言われました。「平安があなたがたにあるように。」しかし、彼らはおびえて震え上がってしまいました。幽霊を見ていると思ったからです。イエス様は彼らに語りかけ、手と足を見せられました。それでも喜びのあまり信じられず、不思議がっていたので、今度は目の前で魚を食べてみせました。そうしてようやく彼らはイエス様が本当によみがえられて、目の前に立っておられると、受け入れることができました。

この出来事は、11人とその仲間たちにとって、復活のイエス様と初めて出会った場面でした。彼らにとって、ナザレのイエス様はもう過去の人となっていたのです。弟子たちの群れを早々に離れて、エルサレムの山から下りていった人たちのように、その心はズタズタに裂かれてしまっていたことでしょう。エルサレムに残って集まっていたとはいえ、「もうイエス様はどこにもいない。もう会えない、声も聞けない、触れることも、一緒に食事することもない。かつてはイエス様を信じて、どこにいくにも従って、イエス様のためならどんなことでもしたのに…。それももう昔の話。」そのように失望した心があっただろうと思います。何かを、あるいは誰かを強く信じていたのに、完全に失望してしまったという経験をお持ちの方はおられるでしょうか。

イエス様の側から考えると、弟子たちはどのように見えたのでしょうか。イエス様は十字架にかかられる前から、弟子たちのことを心配しておられました。これから十字架にかかって死ぬけれども、よみがえると予め伝えておられたのでした。これからいなくなるけれども、心配しなくて良いと念を押しておられました。ところがこの有り様です。私たちだったら、「一体何だこの人たちは。もういい加減しろ。わたしはもう知らん」と言いそうではありませんか。ところが、イエス様は私たちが想像するようなこととは全く違っておられるお方です。イエス様は彼らが集まっているところに行かれました。「いい加減しろ」と言うためでしょうか。いいえ「平安があなたがたにあるように」と言うためです。ご自分の手と足を示し、目の前で魚を食べられることを見せて、彼らが信じて平安をもてるようにするためでした。

イエス様がそうされたのは、イエス様が彼らの主だったからです。神である主がお造りになった世界では、主人はしもべを決して見捨てることがありません。最近、日本のある自動車会社が経営再建をするということで、2万人に及ぶリストラ計画を発表しました。その会社は50人を超える役員がいて、役員たちは高額報酬をもらっているということで、物議を醸しています。従業員は会社のために日々働いている人たちですが、経営者たちは彼らの働きの分の給料を払うだけで、ひとりひとりの人生を支えてはくれません。上手くいっている時には助かるのですが、混乱の最中で平安を与えてくれる人たちではないのです。主イエス様はただひとり、弟子たちを決して見捨てることがない、頼りになる主です。

信じることはリスクがあります。頼りにして信じても、それが消えてなくなってしまったらおしまいです。信じれば信じるほどリスクは高いでしょう。イエス様を遠巻きに見て、心のなかで信じていた人、洗礼を受けてイエス様の弟子であることを公に明らかにした人、イエス様の弟子となって実際にイエス様の教え通りに人生を変えた人、他の人にもイエス様を信じるように勧めた人。信じると言っても、信頼する度合い、当てにするレベルがあります。信頼が深ければ深いほど、より多く当てにしているほど、信じていたものが消えてなくなってしまったら、大変なことになるわけです。現代人はこの信仰のリスクについて、非常に敏感なのではないかと思います。

「イエス・キリストを信じなさいと言われたって、キリストが生き返ったことを自分で確かめられないし、天国の希望があると言われたって、いざという時に消えてなくなってしまったらどうしようもないじゃないですか。」そのように言われた時、クリスチャンには答えがあります。もうすでに実際の例があるのです。イエス様の死後、早々にエルサレムを離れて去っていった二人も、ナザレのイエス様を信じて望みをかけていました。でも、望みをかけていた人がいなくなってしまいました。エルサレムに残っていた弟子たちは、エルサレムを離れた二人よりも、イエス様を信じて、期待し、頼りにしていたと言えるでしょう。彼らは職業を捨てて、イエス様に付いてきた人たちでした。イエス様がいなくなったら、人生のすべてが終わってしまうほどに信じていたのです。しかし、イエス様は目の前で十字架にかけられて、息を引き取られ、死を確認するために脇腹をやりで刺し通されました。「ああ、もう終わった。全部無駄だった。今まで一体何をしていたのだろう。希望は打ち砕かれてしまった。」女性たちがやってきて「天使がイエス様は生きておられると言っている」と伝えても、たわごとにしか思えず、イエス様が目の前に現れて、11キロも一緒に歩いて話をしていても、その人がイエス様だと気付かず、他の仲間たちが「私たちは主を見た」と言っても、「いい加減にしてくれ、私は決して信じない」と強く言いました。どれだけの深い失望があったのでしょうか。しかし、そんな失意の中にいた弟子たちに、イエス様は現れて「平安があなたがたにあるように」と言ってくださいました。あの人にも、この人にも。何度も繰り返して。手を見せ、足を見せ、脇腹や釘の跡を見せ、食べる様子まで見せて、信じられるようにあらゆることをしてくださいました。

弟子たちはイエス様を強く信じていたのに、完全に失望してしまったのです。しかし、実体がなかったのは、イエス様ではなく、失望の方でした。イエス様は消えていなくなってしまったように思えたけれども、消えてはいなかったのです。完全に失望したのですが、それは必要のない失望でした。イエス様は《「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(ヘブル13:5)》と言われました。そのおことばの通りのお方です。ですから、もし何かを信じるとすれば、私たちを失望させるものを強く信じてはいけません。お金も、財産も、仕事も、能力も、健康も、業績も、名誉も、有名人も、実力者も、アイドルも、友人も、家族も、どんな宗教も、いざという時には消えてなくなってしまいます。信じるなら、決してあなたを見捨てることがない主イエス様を信じるようにお勧めします。

お祈りします《イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」》

天の父なる神様。私たちの神、主。私たちと共に進まれるお方。あなたは私たちを見放さず、私たちをお見捨てになりません。

イエス様。自分の目で見て、自分の常識でしか物事を信じることができず、神であるあなたが消えていなくなってしまったかのように思い込んで、失望してしまう私たちをあわれんでください。弟子たちは、十字架の前に、いざという時にイエス様のそばから逃げてしまいました。十字架にかけられたイエス様を見て、助けようともせず、傍観していました。あなたから見放されても、当然の者たちではありませんか。しかし、あなたはお見捨てになりませんでした。

イエス様、あなたを信じる信仰を与えてください。人生の経験が多くなると、深く失望することも何度かありません。もう失望したくないと思います。こうして固く閉じてしまった心に、主よ、来てください。主イエス様、あなたを信じます。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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