私たちの信仰生活はイエス様を信じて、神の家族に帰ってきてから始まる新しい人生です。信じて完成ではなく、またきよめの恵みに与って完成ではなく、そこから始まる成長があります。私たちの生き方は世の過ぎ去った習慣や考え方に慣れきっていて、神の国になかなか馴染むことができません。もうのろいに至る生き方は懲り懲りだと思っていても、祝福の道を選べないことがあります。聖霊によって作り変えられ続ける、一歩一歩の歩みが必要なのです。
世界には様々な学校があります。小学校、中学校、高校、大学、専門学校、職業訓練校、ビジネススクール、語学学校、神学校などです。学校には必ずカリキュラムがあります。小1の1学期はブロックを使った足し算、2学期は繰り上がりのある足し算、2年生では九九など、どの学習度の時に何をどの順番で教えるかという教育課程のことです。カリキュラムをこなすと学校を卒業し、資格を得ることができます。私たちの信仰の成長に必要なカリキュラムはどこにあるでしょうか。ある人はクリスチャンとして成長したいと思って、本をたくさん読んだり、あちこちのセミナーに参加したり、訓練コースを受けたりします。でも、大切なことを知らないでいます。それは「神である主が備えてくださっているカリキュラムは、私たちの人生である」ということです。本やセミナー、訓練コースといったものは有益ですが、すべて補助的なものです。私たちの人生のあらゆる場面で主と共に課題を乗り越えていくことで、主との関係がますます深まり、私たちはキリストの似姿に成長していくのです。もし人生から目をそらすために、セミナーに没頭しているのであれば、有益なはずのものがかえって害になってしまいます。
今年はそれぞれの人生にどのような出来事があったでしょうか。良いことも悪いこともあったでしょう。もう一度、思い返してみましょう。《神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)》
聖書をお開きください。詩篇105:1-6、42-45、106:1-8、44-48(1043ページ)【聖書朗読】
今年の年末感謝礼拝のために、詩篇105、106篇を開くように導かれました。本当はすべて朗読したい気持ちがありますが、一部だけ朗読させていただきました。ぜひそれぞれで全体を読んでいただければと思います。
詩篇105篇と106篇はどちらも神の民イスラエルの歴史を歌っています。今日はここから聖書的な過去の振り返り方を学びましょう。1年の歩みを歴史というのは大げさですけれども、どのように歩みを振り返ったら良いのか、聖書から知ることは大切なことです。私たちはイエス様を信じて、洗礼を受けるまで、神の国の生き方を知らないで(あるいは知識として知っていたとしても従わないで)、世の生き方に従って歩んできました。世の歴史観と神の国の歴史観の違いは、神である主が歴史の中におられるかどうかです(伝道者の書では「日の下」「天の下」と呼ばれる違いです)。世の歴史には神がいません。人が宗教活動をしたという話は出てきますが、神が何かをしたとは一切出てきません。神の国の歴史は、「初めに神が天と地を創造された」から始まり、主のみわざが軸となっています。
例えば、1月の終わりに教会総会が行われ、そこで宗教法人の活動報告があります。これもまた1年の歩みをまとめたものですが、聖書に倣った歴史観とは異なるものです。教会総会では、法人がどんな活動をしたかが報告されます。それは専ら人の活動を報告するものであって、主が私たちに何をしてくださったか、また主が私たちを通して何をされたかを報告する場ではありません。もちろん、何とか総会の枠の中で神の国の価値観を持ち込もうと努めています。御国が地に来ることを祈りつつ、その中で主を認めようとしています。しかし、教会総会は、根本的にスタート地点が神の国から出ているのではなく、この世のあり方から出ているのですから、無理があるのです。ですから、教会総会の資料に書かれるような活動報告は、基本的に教会の歴史としては相応しくありません。教会総会を行うときには、いつも目を覚ましていて、「私たちがこの世では寄留者であり、世の有り様は私たちには馴染まず、ただ神の国を宣べ伝えるために、世のやり方に付き合っているのだ」と認識していなければなりません。世の習わしを倣ってはいけません。それは罠となります(106:35)。
それでは聖書に倣った歴史はどこで見つけられるでしょうか。_ そう「証詞」です。一年を振り返って、教会で行われるのは証会です。先週は年末感謝祈祷会が開かれ、参加した全員が証を語り、分かち合いました。証会では、今年、主が私たちに何をしてくださったか、主が私たちを通して何をなされたかを分かち合います。この証こそ、王寺教会の歴史なのです。かつてアブラハムが主と出会い、人生を主とともに歩んだことを、民全体が分かち合って、それが民の歴史となったように、私たち一人ひとりが主とともに歩んだことを分かち合うとき、それは王寺教会の歴史となります。
さて、古代イスラエル人たちが辿ってきた歩みはひとつですが、詩篇105篇も106篇も民の歴史です。詩を読むと、ずいぶん雰囲気が違います。ひとつの歩みに対し、歴史がふたつあるとはどういうことでしょうか。同じ主人公のひとつの歩みであっても、歴史は取り出す要素よって話が変わるのです。
まずは詩篇105篇を見てみましょう。聖書のページに目を向けていただきたいと思います。《【主】に感謝し御名を呼び求めよ。そのみわざを諸国の民の間に知らせよ。主に歌え。主にほめ歌を歌え。そのすべての奇しいみわざを語れ。》この歌は「主の奇しいみわざ」を語っています。(12節から)アブラハム、イサク、ヤコブがカナンの地で小さな一家族であり、よそ者であって、町の隙間をぬうように遊牧し、国々の間を渡り歩いていた時、《主はだれにも彼らを虐げさせず彼らのために王たちを戒められた。「わたしの油注がれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」(14節)》主のゆえに、彼らは国々の王たちに恐れられる存在でした。また飢饉が襲ってこようとしていた時、主はヨセフを彼らに先駆けてエジプトに送られました。主はヨセフとともにおられ、彼は成功する者となり、ファラオの側近としてエジプトのすべての人に穀物を売る者となりました。多くの人たちが飢饉でいのちを失う中、彼らはエジプトに居住区まで与えられました。それから出エジプトです。主は民を大いに増やし、強くされ、数々のしるしを行って、エジプトから民を導き出されました。彼らが出ていったとき、あの超大国エジプトが喜んだほど強烈な奇跡の数々でした。主は敵を打ち負かされたのです。民は荒野に出ますが、主は雲と火の柱で民を導き、うずらとマナを与え、岩から水をだして飲ませられました。ついには約束の地が与えられ、彼らが植えたのではない作物を豊かに備え、食べさせてくださいました。このように主の奇しいみわざがありました。この一年を振り返って、みなさんの歩みの中で、どのような主の奇しいみわざがあったでしょうか。主が栄光を現してくださり、人々が一目置くような出来事はありましたか。神の摂理によって、危機を脱したことはありましたか。主が敵を打ち負かしてくださったことはありましたか。主が道を導き、困難の中で生活の必要を用意してくださったことがありましたか。主が自由を与えてくださり、神の恵みの中で生き生きと歩めるようにしてくださったことはありましたか。思い出して分かち合いましょう。
次に106篇を見てみましょう。《ハレルヤ。【主】に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。》この歌は「主のいつくしみ深さ」を語っています。同じイスラエルの歴史ですが、105篇の勝利から勝利の歴史から一転して、失敗から失敗の歴史が証しされています。エジプトから解放されて紅海までやってきたとき、民は後ろからエジプトの軍隊が追いかけてくるのに気が付きました。彼らは大いに恐れて、主に向かって叫び、モーセに言いました。《「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」(出14:11)》しかし主は、み名のゆえに彼らを救われ、敵の手から彼らを贖われました。それから紅海を渡って、荒野に出ると欲望にかられ「のどが渇いた、肉が食べたい」と言い、神を試みました。また主が任命したモーセとアロンをねたみ、反逆しました。ホレブでは金の子牛をつくり、これがヤハウェだと言って、自分たちの救い主を忘れてしまいました。主が約束の地カナンを与えておられるというみことばを信じず、カナンに入りたくないと不平を言いました。モアブの娘たちが、自分たちの神々のいけにえの食事に彼らを招くと、彼らは食し、神々を拝みました。メリバの水のほとりで主を怒らせました。カナンに入ってからも、現地の習わしに倣い、その偶像に仕えました。主は彼らを国々の手に渡され、彼らは征服されました。しかし、それでも、そのような数々の繰り返す罪にもかかわらず、主は彼らの苦しみに目を留め、豊かな恵みに従って、彼らをあわれまれました。主は真実の愛をもって民を救うお方でした。この一年を振り返って、みなさんの歩みの中で、どのような主のあわれみ深さがあったでしょうか。危険が迫ってきているのを見て、怖がり、イエス様を信じるより、前のほうが良かったと言ったことはなかったでしょうか。主が必要を備えてくださることを待つことが出来ず、欲望にかられて、神を試みたことはなかったでしょうか。主が任命した人たちをねたんで、反逆したことはなかったでしょうか。救い主を忘れて、自分勝手な神様像を作り上げてしまったことはないでしょうか。主の約束を信じず、目の前にある困難を見て、不平を言って従わなかったことはなかったでしょうか。他の神々を拝んだことはなかったでしょうか。過ぎ去ったはずの肉の習慣に倣い、主のみこころを行わなかったことはないでしょうか。_ それにもかかわらず、あなたが今日、ここで主のみ前に招かれ座っていられるのはなぜでしょうか。主がいつくしみ深いお方だからです。《私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた(ヨハネ1:16)》のです。神の恵みを思い出して分かち合いましょう。
私たち王寺教会の今年の歩みには、「主の奇しいみわざ」と「主のいつくしみ深さ」が両方あるでしょう。主が群れ全体になさったことは、一人ひとりになされたことです。主が一人ひとりにしてくださったことは、群れ全体にしてくださったことです。証こそ、私たちの歴史となります。
お祈りします《【主】に感謝し御名を呼び求めよ。そのみわざを諸国の民の間に知らせよ。》
天の父なる神様。私たちのうちで奇しいみわざを行われる方。いつくしみ深く、赦しに富み、呼び求める者すべてに恵み豊かであられる主よ。その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至ります。
この一年も私たち一人ひとりに目を留め、この群れを顧みてくださったことを感謝いたします。あなたの奇しいみわざのゆえにみ名をあがめます。あなたは私たちを危険から守り、病を癒し、貧しい時に助け、真理によって自由を与えてくださいました。主よ。私たちはあなたの御顔を慕い求め、その御力を尋ね、あなたの聖なる御名を誇りとします。
またあなたはいつくしみ深いお方です。私たちはあの民と同じように罪を犯し、不義を行い、悪を行ってきました。しかし、あなたはご自分の御名のゆえに、わたしたちをあわれみ、救ってくださいました。自分の選択の結果として受けるべき苦しみを受けている時、私たちの罪にではなく、私たちの苦しみに目を留められました。主イエス様の十字架と復活の贖いゆえに、私たちは今日も御前に出ることをゆるされました。ほむべきかな、我らの神、主。とこしえから、とこしえまで。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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