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2025.01.05 新年礼拝 「みこころのコーチングを求めて」詩篇143篇


新しい年が始まりました。今年もよろしくお願いします!
(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。2025年最初の主の日を迎えました。イエス様が私たちの罪を負って十字架で死に、勝利して墓からよみがえられたのが日曜日の朝です。今年も私たちは日曜日ごとに集まり、主を礼拝し、またそれぞれの場所に出ていって、主の愛と恵みを証ししていきます。

今朝は2025年の祈りのしおりをお配りしました。これは一般にアンデレ活動と呼ばれるものです。ヨハネの福音書の1章にアンデレが登場します。アンデレは、バプテスマのヨハネの弟子でした。ヨハネがイエス様を見て、「見よ、神の子羊」と言ったので、アンデレはイエス様について行きました。バプテスマのヨハネの弟子から、イエス様の弟子になったのです。彼は、自分の兄弟のところに行きました。その兄弟とはシモン・ペテロでした。アンデレはペテロに「私たちはキリストに会った」と言いました。それを聞いたペテロはアンデレについて行ってイエス様と出会い、イエス様の弟子となりました。

イエス様の弟子の群れは、現在、教会と呼ばれています。この群れに入るには、まずイエス様と出会わなければなりません。私たちはアンデレのように、自分の家族や友人・知人にまず「私はイエス様に出会った」と伝えるべきです。アンデレは「弟子たちのグループは何かいい感じだったよ。兄さんもグループに入っちゃいなよ。」と言ったのではなく、「私たちはキリストに会った」と言いました。ペテロはイエス様と出会い、イエス様に招かれて、イエス様の弟子となりました。この原則は今日の教会でも変わりません。今年もアンデレ活動を継続していきましょう。

さて、この朝は2025年の標語聖句から御言葉を取り次ぎたいと思います。聖書をお開きください。詩篇143(1084ページ)【聖書朗読】

今年の標語聖句として与えられた御言葉は、詩篇143:10《あなたのみこころを行うことを教えてください》です。昨年の標語聖句を一年おぼえてからの繋がりがあります。昨年の聖句は《信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。》でした。主の恵みを知り、恵みに生きる歩みを心から期待して、主に従っていくとき、私たちは信仰の戦いに直面します。それは、神の民イスラエルがエジプトを脱出し、カナンに向かって荒野を進み、エリコに入ろうとした時に直面した戦いを思い出させます。民はファラオに支配されて、奴隷となっていた苦しい生活から救われました。奴隷以外の人生があることを、彼らは初めて知りました。荒野に出て、エジプトの軍隊が追いかけてきたり、食べ物、飲み物が見当たらなかったり、略奪の攻撃にあったりしましたが、主の力強いみわざを経験し、主が生きて共におられることを知りました。そして主の約束がありました。乳と蜜の流れる地カナンが与えられるという約束です。そこで民は自分で植えたのではない畑から食べ、自分で建てたのではない町々に住むと知らされました。荒野をついに抜け出し、神の恵みによって生きる生活が約束されていました。ところがエリコの前まで来たときに、そこには自分たちよりも力が強い人々がいて、非常に大きな城壁があることが分かったのです。カナンに入る前に、主を信じて進まなければならない戦いがありました。民は信仰の戦いに踏み出すことを拒み、モーセの執り成しによって神の憤りは収められました。2回目にヨシュアと共に民は信仰の戦いに踏み入り、自分たちの力のよってではなく、御言葉に従って城壁の周りを黙って回ることで戦いに勝利しました。

昨年は聖書から「神である主とどのような関係をもって人生を歩むのか」を一通り学び、それから「他の人とどのような関係をもって人生を歩むのか」の学びを続けています。それは、主が御心として、私たちに与えようとしておられる恵みの人生であり、私たちが向かっている行き先です。それは素晴らしいもので、私たちは大いに期待しながら先に進んでいくのですが、あるとき、目の前に困難が現れるのです。人の常識では進まないで引き換えしたほうがマシだと思えるエリコの城壁が現れます。主のことばを信じて従うか、信じないで引き返すかの信仰の戦いです。今日開いた詩篇143においても、ダビデが信仰の戦いに直面していることがうかがえます。

詩篇143篇はダビデの歌った詩です。1-2節《【主】よ私の祈りを聞き 私の願いに耳を傾けてください。あなたの真実と義によって 私に答えてください。あなたのしもべをさばきにかけないでください。生ける者はだれ一人 あなたの前に正しいと認められないからです。》ダビデは主とともに生涯を歩んだ人でした。イスラエルの歴史で最も主の目にかなった王でした。しかし、ダビデは自分が主の前に全き者ではないことを分かっていました。バテ・シェバ事件が有名ですが、他の人に知られていない(ダビデ自身だけが知っていた)数々の失敗があったでしょう。「私は正しい選択をし続けてきた」とは、とても言えなかったのです。それでも、ダビデは主に祈りました。主が御心を成してくださるのは、私たちの正しさに基づくのではなく、主の真実と義によるからです。

主が真実であるとは、約束したことを変えないで実行するということです。主の義とは、主が願われたこと、神の御心のことです。「主が御心によって御心を成してくださる」とは、何度か聞き直したくなるような文ですが、すなわち《すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至る(ローマ11:36)》ことを言っています。

一生の中でたった一回でも不信仰により主に従わなかったのなら、罪を犯したのであり、罪の報酬は死です。もし主が私たちの罪に目を留めて、御顔を背けられるのなら、私たちは瞬く間に滅びるほかにありません。しかし、主の真実と義はイエス様の十字架に表され、確かに実行されました。私たちは「主よ。イエス様の十字架のゆえに、私に答えてください」と祈ることができます。何度失敗した後でも、《罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれ(ローマ5:20)》るからです。

さて、ダビデが直面していた信仰の戦いを見ましょう。ダビデ王は敵に追い詰められていました。《敵は私のたましいを追いつめ 私のいのちを地に打ちつけ 死んで久しい者のように 私を闇にとどめます。それゆえ 私の霊は私のうちで衰え果て 心は私の中で 荒れすさんでしまいました。(3-4節)》彼はイスラエル史上、最も偉大な王であり、能力があり、優秀な家来がいて、人々からの人気がありました。ですから目の前の敵など、自らの力をもって排除してしまえば良かったのではないでしょうか。しかし、ダビデ王は主のみこころを求めました。主のみこころは、王が民を力によって抑圧するのではなく、羊飼いのようにお世話することでした。ダビデは神を恐れない国々の王たちと同じようにすることを拒み、主のみこころを求めました。それは人の常識を拒み、ただ主に従おうとする信仰の戦いでした。その時、ダビデはこう祈ったのです。《あなたのみこころを行うことを教えてください。あなたは私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が平らな地に私を導いてくださいますように。》

私たちは聖書を読み、主のみこころを教わっています。座学と言えるでしょうか。確かに信仰は聞くことから始まりますので、座って聖書を読み、主のみこころを教わることは必要なことです。しかし、みこころを知ったら、すぐにみこころを行えるようになるかといえば、そうではありませんね。座学の後にトレーニング(実地訓練)が必要です。ところが、みこころを知ることと、みこころを行うことは難易度がはるかに違うのです。何の難易度でしょうか。体力でしょうか、学力でしょうか、いいえ、信仰です。私たちは主の御言葉を信じて従っていくだけで良いのです。でも、その「信じて従っていくだけ」というのが、聖霊の指導なしにはできません。主の贖いを待ち望むことは、時に世の常識(人の知恵)とぶつかり、目の前にある恐れの中を突き進むことを意味し、本当にこのまま行って大丈夫かという心配に引きづられるからです。

エリコの城壁を前にした民は、このように言いました。「私たちはカナンに連れて行ってほしいとはお願いしていない。なぜ私たちを苦しめるために、こんなところに連れてきたのか」と。一方、ダビデは「あなたのみこころを行うことを教えてください」と祈ったのです。みこころを行うことは難しいと認めながらも、神のいつくしみ深い霊が、スポーツのコーチのように、手を取り、足を取って教えてくださることを求めて祈りました。「敵なんか蹴散らしてしまえ」という自分の声、周りの声を押しのけて、贖い主ヤハウェご自身が私とこの民を守られることを信じ、「あなたのみこころを行うことを教えてください」と祈りました。

神の民は、エジプトで縛られ、奴隷の苦役があり、生まれてくる男の子を殺されていたとき助けてほしいと叫び、主の贖いを待ち望みました。自分ではどうしようもできない苦しみだったからです。それから荒野に出て、色々と不便だけれど、まぁ大体これで良いと思い始めたのでした。私たちの人生も似ていないでしょうか。苦しみがあったり、病気があったり、自由がなかったりすると、助けてほしいと叫びます。でも一旦そこから救われて、耐えられない苦しみや病が過ぎ去ると、世の闇があることを知っていても、そのほうが慣れているし、嫌なこともあるけど、このままでいいと思いがちなのではないでしょうか。「天の父の家に帰りたいとはお願いしてない」「神の国に入れてほしいと求めた覚えはない」と言い出すこともあるのではないでしょうか。特に天の御国を求めることには信仰の戦いがあると知って、なおさらそう思うのではないでしょうか。しかし、みなさん。それを罪というのです。

私たちイムマヌエル綜合伝道団の群れは、主のみこころを「聖と宣」という標語で捉えてきました。聖と宣とは、キリストの似姿に変えられることと、神の国の福音を宣べ伝えることです。イエス様のことばを引用するなら、《『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』(また)『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』(マタイ22:37-39)》です。別の角度から見るなら、天の父の贖いの下で歩み、主の手足として隣人を贖う歩みをすることです。

人には生きている間に色んなことをしたいという欲があります。私たちは今年、何に時間と労力を費やすべきでしょうか。イエス様はこう言われました。《自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。(マタイ16:25-27)》この世の有様はいつまでも続きません。やがて過ぎ去ります。もう崩れ落ちそうになっている床に座っていたら、周りの人から早く移動しなさいと言われるのではないでしょうか。「ここが慣れているから」と言っていたら、床と一緒に崩れ落ちてしまいます。ですから、いつでも、イエス様が帰ってこられた時に「待っていました」と言えるようにしなければなりません。「それぞれの行い」とは、徳を積むことを言っているのではなく、「どんなに信仰の戦いがあっても、みこころを行うことを喜ぶこと」を指しています。それは単に気持ちの問題でなく、行いに及ぶことです。

ですから、共に祈りましょう。《あなたのみこころを行うことを教えてください》と。主のいつくしみ深い霊が私たちを導いてくださいます。ここで今年の標語を開きたいと思います。「         」

お祈りします《あなたのみこころを行うことを教えてください。あなたは私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が平らな地に私を導いてくださいますように。》

天の父なる神様。私たちを造られた方、万軍の主、全地の神。力強い贖い主よ。

2025年の最初の主の日をおぼえて集まっている私たちの祈りを聞いてください。いつくしみ深い主よ。あなたの真実と義によって、私たちに答えてください。私たちはあなたの牧場の羊です。すべてをあなたの恵みに依り頼んでいます。この年も、あなたの贖いの御業を知らせてください。あなたの愛のうちに留まっていたいと願います。どうかあなたのみこころを行うことを教えてください。

聖霊なる主が私たちを導いてくださいますように。ダニエルの友人たちは火の中に投げ込まれても、あなたを信頼することをやめませんでした。どのようにして弱い私たちが、それに倣うことができるでしょうか。それは神の御業です。あなたのみこころの通りに生きることができるように、日々、私たちの手を取り、足を取って、指導してください。私たちはこの年もあなたの従います。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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