まだまだイベントは続きます!(あかつきさん)
おはようございます。第3アドベント礼拝にようこそお集まりくださいました。クリスマスを待ち望んで、ここまで過ごしてきました。今日はクリスマス定番の「荒野の果てに」が賛美されました。「荒野の果てに夕日は落ちて 妙なる調べ 天より響く グロリア イン エクセルシス デオ」イエス様がお生まれになった当時は、日没から次の日没までを1日と数えていました。ですから夕日が地平線に落ちるというのは、クリスマスの一日が始まったことを意味しています。クリスマスの日が始まった時、羊飼いたちが野宿していた場所に、天使が大勢現れて、歌いました。「Glória in excélsis Deo」グロリア(栄光)イン(前置詞)エクセルシス(高いところの)デオ(神)。天におられる神に栄光。(これはローマ帝国公用語のラテン語ですので、本当はギリシャ語かアラム語かヘブル語で歌っていたと思います。羊飼いたちが分かる言葉で。)讃美歌では「Glória in excélsis Deo」を2回繰り返すのですが、実際の出来事ではもう1行、別の言葉があり「in terra pax homínibus bonæ voluntátis」イン(前置詞)テラ(地上)パクス(平和)ホミニバス(人)ボナエ(良い)ボランタティス(心)。地には良い心の人に平和。元々の聖書はギリシャ語で書かれていて、それをラテン語に訳すとどうしても多少意味が変わってしまいますが、聖書を見ると、天使たちは「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」と歌ったと書いてあります。
その出来事は、夕日が落ちていき、ついに日が暮れて、あたりが暗くなった時に起こりました。今日の世界情勢、あるいは私たちの人生の行く先を考えるとき、まるで日没に向かっているような気持ちになることがあります。これからどうなってしまうのだろう。真っ暗な闇に突入していく中で、しかし、そこにイエス様は来てくださいました。《すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。(ヨハネ1:9)》これは待降節に最も適したナレーションです。
聖書をお開きください。ルカの福音書2:15-16(110ページ)【聖書朗読】
聖書には、目に見えない神である主が明らかにされた奥義が記されています。それは主のご計画です。主がこの世界をお造りになってから今まで何をされたのか、現在何をしておられるのか、将来何をしてくださるのかを私たちに伝えるために書かれたものです。
主のご計画の中で、イエス様が地に来られたことは、どんな意味があったでしょうか。御使いはイエス様をこう紹介しました。救い主、主、キリストです。①救い主と聞いてユダヤ人が思い出すのは出エジプトです。主はエジプトのファラオから民を贖ってくださいました。敵から救出し、荒野の略奪者から守り、道を導き、日々の糧を与え、土地と自由を与えて、いつくしみと恵みが追ってくる生活を備えてくださいました。②主とは神であるヤハウェを指す言葉です。古代イスラエル人たちはヤハウェという文字を発音することを恐れて、聖書にヤハウェと書いてある部分を読む時には、ヤハウェの代わりに主(アドナイ)と発音していたからです。③キリストは油注がれた者、すなわち預言者、王、祭司です。主のことばを民に伝える預言者。主のことばに従って、主の恵みに生きることを導いていく王様。民の祈りを主に届け、悔い改めをとりなす祭司。イエス様はキリストの中のTheキリストです。
救い主、主、キリストであるイエス様が世に来てくださったということは、地に平和が来ることを意味していました。主を恐れない者たちが悪を働き続ける時代は終わるのです。シャロームと呼ばれる平和が来ます。「シャローム」は「足りないものがない、満ち足りて完全である」という言葉です。夜遅くになって、台所に行って、少し考えて、冷蔵庫を開けて、やっぱり閉めて、でも上の戸棚にあるラーメンを思い出して、今日で最後にしようかと思い…。これはシャロームではないんですね。何か満足できていない。何か足りない。確かにカロリー計算してみれば一日に必要な量はすでに食べているのに、何かまだ完全になっていないという状態です。まぁこれは小さな話ですが、他にも住む場所がない、食べ物がない、敵から守られていないということもシャロームではありません。しかし、シャロームとは、満ち足りて完全であるゆえに、平和・平安であることです。
主のご計画の中で、イエス様が地に来られるという出来事は、非常に重要な局面でした。これなしには計画は成り立ちません。計画を成功させるために、イエス様が遣わされたのですから、人々がこれを知らないままでいたらどうにもなりませんね。ですから、主は御子が遣わされたことを人々にお伝えになったのです。ところが、人の目には不思議なことがありました。これだけ重要な出来事を、主は羊飼いたちに知らされたのです。最近、「インフルエンサー」という言葉が巷では使われています。影響力のある人という意味で、インフルエンサーがSNSで何かを発信すると、何万人もの人たちが一斉に心を動かされ、行動を起こしていくという現象が起こります。例えばある会社が自社製品を宣伝したい時に、インフルエンサーに頼んで、その製品を使ってみて、感想をいう動画を流してもらいます。すると、その製品が沢山売れるようになるわけです。ですから、イエス様が来てくださって、世界にシャロームが来ようとしているという重大ニュースを、まずはできるだけ影響力の大きなインフルエンサーに伝えるべきではなかったでしょうか。ところが、主は羊飼いたちにお伝えになりました。羊飼いたちは人々から見下されていた人たちです。裁判でも、羊飼いたちの証言は無効でした。あんな輩の言葉は、真実かどうか疑わしいとレッテルを貼られていたのです。羊飼いたちが育てていた羊は神殿での生贄にも使われていたと思われます。高い天から地上を見渡せば、最上級の羊を買って神に捧げている敬虔そうな人々がいました。神殿にも会堂にも宗教指導者たちがいました。王宮にはヘロデ王がいました。ローマの総督もいました。周りには家来が控えていて、彼らの一言ですぐに動けるようになっていました。重大ニュースを知らせるなら、そのような人々に知らせるのが得策でしょう。そうすれば、ニュースは一気に広まるし、聞いた人たちも信用するのではないでしょうか。しかし、主は大祭司カヤパにも、ヘロデ王にも、ローマ総督ピラトにも、このニュースをお伝えになりませんでした。
平和・平安(シャローム)は、軍隊の力によってもたらされるものではありません。「え?ローマの平和は軍事力の結果でしょう?」教科書にはそう書いてあります。しかし、警察がしっかりしているから平和、規律が守られているから平和というのは、押さえつけられた見せかけの平和です。満ち足りたシャロームではなく、満足してないけれど抑え込まれているというだけです。だからパワーバランスが崩れると、瞬く間に争いが始まってしまいます。
本当の平和、本当の平安は愛によってもたらされます。クリスマスはイエス様が天から地に来てくださったことを喜ぶ日です。でも、少し考えてみましょう。私たちにとっては、イエス様が私たちのところに来てくださってハレルヤ万歳の日なのですが、天では何が起こっていたのでしょうか。イエス様が地に来られたということは、イエス様が天を離れたということです。天の父はクリスマスの日、ひとりの御子イエス様を世に遣わされました。《神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。(ヨハネ3:16)》御父はイエス様が地上でどんな仕打ちを受けるか、そしてどんな最後を迎えるか知っておられました。愛するひとり子をあなたを愛するために送ってくださったのです。愛は与えるということ、愛は犠牲を払うことです。愛によるシャロームは、安定した平和です。絶妙なバランスでギリギリ成り立っている平和ではありません。揺り動かされることがない平和です。
数日前に、ネットでこんなブログ記事がバズっていました。ある飲食店のオーナーが従業員の管理で問題を抱えていてコンサルタントに相談をしたそうです。パートの奥様方の間で何かギクシャクしていて、オーナーにはどうにもできないと悩んでいたそうです。コンサルに入った人は、早速、パート全員と面談することにしました。1対1で面談しようとスケジュール調整しようとしたところ、一人だと不安だから個別はやめてほしいと言われました。それで何人かごとに面談することにしてスケジュール日程を決めました。でもパートの人たちから別の組分けが送られてきたようです。まぁそれでもいいと思って、面談することになりました。それぞれの状況を聞いて、働く時間帯や部門を調整したらすぐに上手くいくだろうと思ったそうです。ところが、「あなたはどんな時間帯が都合いいですか、どの部門が働きやすいですか」と聞いたところ、何人もの人が同じ時間帯を希望していたり、誰もあの仕事はやりたくないということが出て、あの人がシフトを都合よく操作して良い時間帯を取っているだの、あの仕事はあの人にやらせたらいいだの、色んなことを互いに言い始めて収拾がつかなくなってしまいました。最後にある人が終わり際に一言こう言ったそうです。「個別面談にしなかったのは、他の人が何を言うか監視するためなんですよ。」_ みんなの意見を聞いて、より良い環境をつくりましょうとは、聞こえが良いものです。でも、みんなが自分の都合を言い合えば、環境は平和になりません。そこには愛がないからです。そこには犠牲がないからです。
《神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Iヨハネ4:9-10)》クリスマスは神の愛です。この愛の知らせを最初に受け取ったのは、カヤパでもなく、ヘロデでもなく、ピラトでもなく、あの羊飼いたちでした。羊飼いとは誰ですか。今日、ここに集められている私たちのことではありませんか。
イエス様は平和の君として、地に来てくださいました。イエス様の働きには特色があります。イエス様はご自分お一人で全てのことを完全に成し遂げることができるお方ですが、それにもかかわらず、私たちをご自分の働きに招き、一緒に働こうとおっしゃるのです。一緒に働くために主が選ばれたのは、世では低く見られている羊飼いたちでした。強い者を恥じ入らせるために、主はこの世の弱い者を選ばれました。
このクリスマスにどんなプレゼントを神様に願いますか。このように祈ってみませんか。「人を愛するために苦難を喜ぶ人に変えてください」「隣人を豊かにするために貧しくなれるように」「安全を与えるために危険に入っていけるように」「愛し、受け入れるために、拒絶されることを忍べるように」「シャロームを与えるために、私の満足を手放すことができるように」「イエス様、あなたが私にしてくださったように、私も隣人にすることができるようにしてください」と。主は、平和をつくる人々としてまず羊飼いたちを選ばれました。偉大な平和活動を行わせるためではなく、それぞれの日常にシャロームをもたらし、義の実を結ぶ種をまくためです(ヤコブ3:18)。それは小さな種ですが、やがて芽を出し、成長して、広がっていきます。
お祈りします《御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」》
天の父なる神様。富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられたお方。私たちはキリストの貧しさによって富む者となりました。私たちは主イエス・キリストの恵みを知っています。
あのクリスマスの夜。あなたは御子を地に送られました。闇の中を歩んでいた私たちは大喜びしましたが、それはあなたにとって大きな犠牲の伴う愛でした。これほど愛のこもったクリスマスプレゼントは他に見たことも聞いたこともありません。平和の君であるイエス様は、小さな種として地上に来てくださいました。人は十字架の愚かさを嘲るでしょう。しかし、愛によってもたらされた平和は強固であり、微妙な均衡によってギリギリ保たれている、力による平和とは比べ物になりません。
あなたはこの世の小さく足りない者たちを選んで、福音を知らせてくださいました。私たちにできるのは偉大な平和活動ではなく、人生の日々において平和をつくる種をまくことだけです。しかし、それが神の知恵であることをおぼえます。今週も私たちを愛の人に作り変え、それぞれの場所で主の御業のために用いてください。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。
0 件のコメント:
コメントを投稿