近放伝の牧師の若竹師を招いての『真理とブリ』という福音落語、わかりやすくて面白い、、、そしてメッセージでは私たちに注がれる深い神の愛を知るめぐみのひとときでした。(りべか)
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🔴[クリスマス福音落語(第一アドベント)]『真理(マリ)とブリ』
(まくら) 私は、イエス・キリストを信じる前は、年末になりますってぇと、クリスマスのプレゼント 以外にワクワクするものがございました。
それが、魚のブリでございまして。お正月のおせちなんぞにも登場してくる魚でございます。特に 12 月〜2 月にかけての寒い時期のブリを 寒ブリと申しまして、脂ののった天然のブリは絶品でございます。ブリ料理の定番といえば、 「ブリの照り焼き」や「ブリ大根」でございまして、またこれが私の大好物。と言うわけで、 私は年末年始にかけてブリでぶりぶりするのでございます。
さて、今日のお話は、第一アドベントにふさわしい話をと考えまして、まあ、ロウソク4本 立ててしまったようなお話をしてしまいますと、後が続かない。ロウソク1本分のちょろっ と、イエス様が出てくるかこないかぐらいの遠慮しいしいのお話をさせていただきます。 お題は、「真理とブリ」なんか絵本で「グリとグラ」と言うのがありますが、それとは全く 違います。このお話が何をもじっているのかお分かりいただければ幸いでございます。 🪭(パチン) 昔々、名尻という村に真理という娘が住んでおりました。娘は気立ても優しく、働き者で、 また頭も賢い16歳でした。ある日、見知らぬ人が尋ねて来ます。
ブリ: こんにちは、どなたかいらっしゃいますか。
真理: はい、何か御用で。
ブリ: このおうちに真理さんていう娘さんいらっしゃいますか。
真理: へぇ、ウチが真理ですけど、どちらさまで。
ブリ: わては、ブリっていいますねん。 赤子の時は、モジャコって呼ばれてたんですけどな、 だんだん、歳をとっていくにつれて、出世しまして、ツバス、ハマチ、メジロと ほんでもって最後にブリですわ。そやから、このブリで最終形って言いますか。
真理: あ〜はぁ、あの〜、ハマチにメジロ、、、それで、そのお方が、何かウチにご用事で?
ブリ: わてのご主人、つまり神様なんですけどな、そのご主人様が、名尻の村の真理さん を探して、こう言いなさいちゅうんですわ。
真理: それで、御用件は?
ブリ: 「おめでとうさんです。恵まれたお方。神様があなたと共におられます。」 ちゅうて言いなはれってゆうて。
真理: あのう、ハマチさん。
ブリ: いえいえ、ブリです。メジロを飛ばしてもろたらかなわんなぁ。
真理: すんません。かんにんですっせ。そんで、ブリさんは、わざわざそれを言いに?
ブリ: ヘェ、そうです。ご主人様のお言いつけですっさかいな。
真理: それで、何がめでたいんでしょうか。ウチ、宝くじもこうたことおまへんねんけど。
ブリ: 真理さん、あんさん、お・め・で・た・ですわ。
真理: おっ、おめでた? 何を言うてはりますの、けったいなお人やな。 なんか怖なって来た。こっちに近づかんといて。
ブリ: 怖がらんかてよろしいでぇ。真理さん、あんさんは神様から恵みを受けるん でっさかい。
真理: 何を藪から棒に何言いますんや。恵みって、うち、物乞いはしてません。
ブリ: ああ、その「お恵みを〜」の恵みやありませんねや。あんさんは選ばれたお人や。 もうすぐ身ごもって、男の子を産むんです。その名をユルスと名付けんとあかん のです。
真理: 身ごもるって、ウチまだ男の人知りまへんねんでぇ。それに、イルス(居留守)って何? うちんとこ、貧乏やけど、借金取りに追われて居留守使うようなことしてしまへん。
ブリ: いえいえ、居留守やのうてユルスですわ。
真理: あ、あんた、なんかこんな貧乏なうちからユスルつもりかいな。
ブリ: うまいこと、 勘違いしは りまん なぁ 、ええ 。ユルスやのうてユスル ? ? ちゃいまんがな。うつってしもた。ユスルやのうてユルス。 そのユルス坊ちゃんは、のちのち、「いと高き方の子」と呼ばれるんですわ。
真理: 「いと高き肩の子」って、私がその子を肩車しまんのか?
ブリ: 肩車? ああ、その肩やのうて、「いと高きお方の子」もうめんどくさいなぁ。 つまりは王様になりはるちゅうことですわ。
真理: ウチの子が王様に? とんびが鷹産む? けんど、さっきから申し上げている通り、 ウチは、結婚もしていません。 まあ、決まった人はいますよ。ここだけの話、歳の差婚ですけどね。
ブリ: 真理さんのお子は、「聖なる者、神の子」と呼ばれるんです。 真理さんの親類のリツさんも、ほら、子供は諦めてたのに、高齢出産。 はや六ヶ月でっしゃろ。わての主人、神様にでけへんことはないんですわ。
真理: ああ、リツおばさんなぁ。あれこそ神様の恵み、憐みやわぁ。
ブリ: 真理さんへの恵みは、リツさんのとは比べ物にならないぐらいの恵みが 降り注がれるんです。
真理: こんなウチに、大いなる恵みが降り注がれる。恐れ多いことやわ。 けんど、お相手のヨサクはんにどう言うたらええんやろ。
ブリ: ヨサク〜、ヨ〜サァクゥはんやったら、心配なさらなくてもよございますよ。すべては神様にお任せください。
真理: 「わかりました。全てを神様にお委ねします。」と言うのはたやすいことです。 けんど、このことがばれたら、ウチ、ひょっとしたら石打ちの刑ですわ。 そんなことになってしもたら、王様なる子を産むまえに死んでしまいます。
ブリ: 案じることはありません。お相手のヨサクはんには、このブリがまた行って ブリッとお話しさせていただきますさかい。 こんなふうにヨサクはんの夢の中でいいますわ。 「ヨサクはん、心配はご無用や。真理さんに宿っているお子は救い主になられる お方や。罪人をユルスお方や。神様にぜんぶお任せください。 せやから、ヨサクはん、もう心配はヨサク。」
お後がよろしいようで。 👏 👏 👏
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🔴[礼拝説教] 近畿福音放送伝道協力会 若竹孝行師
聖書: ルカの福音書1章 26 節~38 節 中心聖句: ルカの福音書1章 38 節
「マリアは言った。『ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、 この身になりなますように。』すると、御使いは彼女から去って行った。」
メッセージ主題:『愛されているからこそ主に耳を傾けよう』
マリアと御使いガブリエルのやり取りです。 マリアは、ガブリエルの言葉に対して
① 戸惑って、考え込む (26 節~33 節)
② 疑問をぶつける (34 節~37 節)
③ 御心に信頼して主にゆだねる (38 節)
① マリア、戸惑って、考え込む。
このマリアの戸惑いは、ガブリエルの「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられま す。」という言葉でした。 初対面の人に、開口一番「おめでとう!」って言われると、鳩が豆鉄砲をくらったように、きょ とんとしてしまうのではないでしょうか。私なんかが言われたら、いぶかしげに「何がめでたい の?」って尋ねてしまうでしょう。「おめでとう!」という言葉の意味合いには二つのことがら に起因します。一つは、その人が努力をして勝ち取ったものに対する「おめでとう!」。二つ目 は、何もしていないのに、何かに当選した時です。マリアはこの二つの意味の「おめでとう!」 からは自分は対象外だと思っていました。しかし、次の言葉「恵まれた方」から、この「おめで とう!」が努力して勝ち取ったものではなく、「恵み」一方的な祝福であることに気づかされま す。「恵み」とは私たちが努力をして勝ち取るものではなく、私たちが要求すらしていない事柄 に対して、神の祝福が降り注がれる、まるでそれは、イエス様がこの世に送られ、私たちの罪を 帳消しにし、私たちを罪なき者とされるために、十字架におかかり下さり、その恵みを永久のも のとするために、よみがえられ、私たちに永遠のいのちの約束が、永遠に有効であるようにされ たのです。
これが最も大きな恵み、恵み中の恵みです。先ほど私は「要求すらしていない事柄」 と申しましたが、「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ 7:7)にありますように、ただ単に求めるだけでも、主は恵んでくださいます。私たちが何かをしたらから、ご褒美を与える というのではありません。ただただ求めればいいのです。しかし、この時のマリアは、何の話で 恵まれているのかが分かりませんでした。ですから、ガブリエルは「主があなたとともにおられ ます」と付け足します。「主が共におられる」とは、旧約新約を通して、民が最も望んでいたことです。主がともにおられることで、私たちは守られ、励ましを受け、また勇気と力と知恵をえ るのです。
しかし、マリアにはまだチンプンカンプンです。そこでガブリエルは、その祝福の説 明をしだします。 『マリアは神の恵みを受け、身ごもり、男の子を産む』 恵みとは子どもを授かるということが 明らかにされます。しかも、その男の子は、ダビデの王位につく、イスラエルの王となるという のですから、戸惑うのも当たり前です。
② マリア、疑問をぶつける 34 節
●「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」 マリアの疑問は当然と言えば当然です。彼女はまだ処女でありますし、そして生まれてくる子は、 イスラエルの王となると言われるのですから、ガブリエルに対して、半分、怒りをぶつけるよう に問うたのではなかったでしょうか。「わたしは、そんなふしだらなものではありません」と訴 えているようにも聞こえます。
処女である女性が妊娠する、人間の常識、人間社会ではありえな いことです。マリアの「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」という訴えには、憤りも 混じっているでしょうが、ある不安も襲ってきています。結婚前の女性が妊娠する、それも婚約者の子ではないとなると、不義密通の罪で、石打死罪は免れません。自分の潔白を主張しようが、 妊娠という人間的に考えざるを得ない事実が、彼女の主張は嘘だ、言い訳だということを証明し、 不義密通女という不名誉なレッテルが貼られてしまうのです。彼女はそのことも頭によぎったに 違いありません。ですから、「私は男の人を知りませんのに」と処女であることを強調し、防衛 としての身の潔白を訴えているのです。
しかし、ガブリエルは、マリアの不安をよそに、『これは神のなせる業であり、その男の子は神 の子と呼ばれる』ことをマリアに伝え、親類のエリサベツが高齢妊娠であり、それは神のなせる 業であると強調します。そして、決定的な言葉を述べます。「神にとって不可能なことは何もあ りません。」この言葉は、絶対的な説得力をもちます。いわば、テレビドラマ「水戸黄門」の 45 分過ぎ出してくる「印籠」みたいなものです。「ひかえ、ひかえおろう。この印籠が目に入らぬ か。このお方は先の副将軍、水戸光圀公なるぞ。頭が高い、ひかえおろう。」そう、「神にとって 不可能なことは何もありません。」この言葉は、神を信じる者にとっては、冷や水を頭から浴び せられたぐらいの衝撃的なものなのです。無から有をお造りになられる全知全能の神に不可能は ないのです。
この言葉を聞いて、マリアはハッとします。自らの主張「どうしてそのようなことが起こるので しょう。私は男の人を知りませんのに。」は、まったくもって、人間的な既成概念であり、神を その中に閉じ込めてしまっていたことに気づきます。16 歳前後の乙女ですから、無理もありま せんが、自分が誰と話しているのかを悟ります。 私たちも、この既成概念にとらわれ過ぎていて、神をその中に閉じ込めてしまい、神の奇跡を口 では信じますといいつつ、あきらめムードになっていたり、ひどい場合は、奇蹟は起きないかもしれない、そのように神の力や能力を疑ったりはしませんでしょうか。また、祈り求めていたこ とが、実際に起こってしまうと、神の御名をほめたたえる前に、神の偉大さにあっけにとられて しまう。もちろん、祈り求めていたことがかなわないことがあります。それは、神にとって不可 能なことだからではなく、神のご計画の中になかったからです。神はその人にとってもっともっ と良いご計画をご用意してくださっているからです。
③ 御心に信頼して主にゆだねる
マリアは、神が命じられていることに服従します。神がなさることであるから、必ずそのように なると、神に自分の運命をゆだねます。それがいちばん正しいことだと信じているからです。さすが、神の選ばれし女性です。 私がマリアなら、なかなかそこまでの信仰と決意はもてないのではないかと思わされます。かりに「あなたのおことばどおり、この身になりますように」と言えたとしても、言った矢先から不 安にかられてしまうでしょう。しかし、マリアは違っていました。46 節~55 節のマリア賛歌は、 神をほめたたえるための祈りであり、預言者サムエルの母、ハンナが神から男の子を授かった時 の賛歌(ハンナの祈り:サムエル上2章 1~10 節)とよく比較されるほどです。今日は、この二つの賛歌を読み上げ比較することはいたしませんが、後ほど、それぞれに味わっていただければ と願います。
マリアは、「あなたのおことばどおり、この身になりますように」と言って、心から神に服従の 姿勢を示しました。そして、神の御子であられるイエス様も同じことを別の言葉で表現していま す。 イエス様が捕らわれる前のゲッセマネでの祈りのところです。 ●「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いでは なく、みこころがなりますように。」(ルカの福音書 22:42) 「しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように」 イエス様は十字架につけられるという運命を知りつつ、その十字架から逃れたいという、人間と しての願いをもっていましたが、すべては神の栄光のままに、と主をほめたたえるのであります。 私たちは、「求めよ、さらば与えられん。」という言葉を信じてはいますが、箴言の「人のこころ には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。」(19:21)とは、なかなか納得して いないところがあるのではないでしょうか。だからと言って、願いを主にぶつけることが無駄だ と言っているわけではありません。主のご計画に沿った願いを私たちがもてるかどうか、または もとうとしているかどうかが試されていると言ってもよいでしょう。
思い出してみてください、 アブラハムが、神と交渉をした時のことを。神はソドムとゴモラを滅ぼそうと計画していた時、 わざわざアブラハムにそのことを伝えます。アブラハムは、甥のトロが住んでいるソドムを滅ぼ されては大変だと思い、神とその町に住んでいる正しい者の人数を交渉します。50 人、45 人、 40 人、30 人、20 人、10 人、神はもともとソドムに正しい者が 10 人もいないことを知っておら れたのではないでしょうか。神は、アブラハムがどれだけ必死でソドムの町を救おうとしているか試されたのではないでしょうか。神にとって、あのアブラハムとの交渉はソドムの町のためで はなく、アブラハムの民を想う、甥のロトを想う心を試され、喜ばれたのではないでしょうか。 その意味では、アブラハムは、あの交渉において、神のテストに合格したのではないでしょうか。 私たちの願いも同じであります。もちろん、私たちが神のテストに合格するために必死に祈るの ではありませんが、神は、私たちの必死で祈る姿を見て、きっと喜ばれるのです。そして、もちろん、私たちの願いや祈りが、神のご計画にそうものとなることを待っておられるのです。
なぜなら、私たちは、愛されているからです。神の目には、こんな罪深い私たちですが、高価で尊い とされているのです。愛されているからこそ、神は試練を与え、また私たちの応答をお待ちなの です。神に愛されているからこそ、静まって神の声を聞くことが大切なのです。神の声を聞き、 神のご計画に自分の願いをよせていくことが重要なのです。そして、それはそんなに容易いこと ではありません。ですから、心を尽くして、この世で生かされている間、常に主の声を聞く、主 の声に耳を傾ける、静まりの時をもとうではありませんか。 祈ります。
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