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2024.12.8 第二アドベント礼拝「み心にかなう人々に」ルカの福音書2:8-14





今日は子ども達のかわいらしい賛美が響きました。(まさ)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。待降節の第2聖日となりました。今年はこどもクリスマス会でアドベントカレンダーを作りました。壁に3人分のカレンダーが飾ってあって、子どもたちは、毎日ひとつずつ開いて、中のお菓子を楽しみながら過ごしています。

その日を楽しみにしながら、毎日を過ごすことはワクワクすることですね。イエス様の弟子たちは、イエス様が復活されたあとで、《「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」(使徒1:6)》と尋ねました。イエス様が常々話しておられた神の国を、彼らは本当に待ち望んでいたのです。地上の国を期待していたという点で少しズレてはいたのですが、それでも、イエス様が例え話で教えてくださった素晴らしい国が実現することは本当に楽しみでした。イエス様が天に昇られた日は、その日ではなかったのですが、その日が夢のように消えてしまったのではなく、もう少し先に、イエス様が帰ってきてくださった時にやってくるという意味でした。そういうわけですからら、実は12月だけではなくて、いつもアドベントなのです。私たちはいつも神の国の完全な到来を待ち望んでいます。私たちは毎日、何のために時間や労力、財産を使っているでしょうか。もうすぐ消えてなくなってしまう地上の富や名誉のためでしょうか。それとも永遠に残る宝を天に積んでいるでしょうか。天に宝を積む歩みとは、人々が空腹であるときに食べ物を与え、渇いているときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいるときに訪ねることです。イエス様は言われます。《『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。…(また)この最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』(マタイ25:40、45)》

天に宝を積む歩みを続けながら、人々に伝えましょう。「あなたは愛されている。あなたを救い、お世話してくださる主イエス様がおられる。イエス様が王として帰ってきてくださり、ついに恵みによって生きる国がやってくる。主を待ち望みましょう」と。

聖書をお開きください。ルカの福音書2:8-14(110ページ)【聖書朗読】

今年のクリスマステーマとして与えられている言葉は、「あなたは愛されている。羊飼いのクリスマス」です。羊飼いたちの礼拝を軸に3回のメッセージをお届けしたいと思います。

神の御子イエス様は処女マリヤからお生まれになりました。主は天使を遣わしてマリアとヨセフにイエス様の誕生をお知らせになりました。また彼らだけではなく、その地方で野宿をしながら羊の群れの夜番をしていた羊飼いたちにも、御使いと天の軍勢を送って、主イエス様の誕生をお知らせになりました。このことはマリアにとって非常に印象深い出来事だったようです。彼女はこの出来事を心に納めて、思い巡らしました。後に福音書が書かれたときに、ルカがこの出来事を知っていたのは、マリアがずっとこれを覚えていたからです。

「マリアの賛歌」と呼ばれる、マリアの祈りが46~55節に記されています。50節から読みます。《主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。》この預言的な祈りは、羊飼いたちの訪問とぴったり合っていました。彼らはキリストの捧げるものを何も持っていませんでした。人々からは見下されていたようです。その家に生まれると幼い頃から羊のお世話を始めますので、子どもや若者も多く混じっていたでしょう。一般的な家庭では聖書を暗記させる勉強がありましたが、彼らは学びの機会にも恵まれていませんでした。しかし主は、誰よりも先に彼らにキリストの誕生を知らせ、主のあわれみが目の前にあることを教えてくださいました。

天の軍勢は神を賛美して言いました。《「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(2:14)》旧約聖書が示しているところによれば、神である主がお造りになった世界は、神の恵みによって人々が生きる世界でした。そこには貧しい人、虐げられている人、見下されている人がいない世界です。その世界は本当に平和で、平安です。すべての人が神の目に高価で尊く、神である主に愛されているからです。ところが、今、私たちが知っている世界はそのようではありません。貧しい人がいます。虐げられている人がいます。見下されている人がいます。もちろん人々は、こんな世界は良くないと思って、改善しようと努力しています。争いをやめさせよう、差別をなくそう、立場の弱い人や貧しい人を助けようと、法律を作ったり、制度を定めたり、啓蒙したりしています。その結果、世界はどうなっているでしょうか。確かに人権意識が以前よりも高まり、貧しい人を助ける制度が整えられてきました。でも、制度で拾いきれない人が必ず存在しています。立場の弱い人が引き上げられたかと思うと、今度は別の人たちが虐げられるようになります。人々は世界が完全に良くなることを諦め、せめて自分は貧しくならないようにしよう、見下されないグループに入っていようとしているようです。貧しくなってしまった人、見下されるようになってしまった人は、運が悪かったねと思っているようです。一度立場が弱くなってしまったら、本当に救いのない世界です。

でも、神である主はこの世界に本当の平和と平安をもたらす唯一のお方です。主は、神の民イスラエルに土地を与え、律法を与え、国を造られました。確かに主は社会全体に関心をもっておられ、神の国という「神と人が共に住む社会」を整えられるお方です。しかし、人間と神である主には決定的な違いがあります。人間は全体のために個人を見捨てます。古今東西で見られる現象です。一方で、主は民全体とやり取りされるお方であると同時に、個人と深く関わるお方なのです。誰一人として見捨てることはないお方です。

創世記21章、アブラハムの女奴隷ハガルとその子イシュマエルが荒野で死にそうになっていたことがありました。中東の荒野ですから、非常に暑く、水がなければ死んでしまいます。ハガルとイシュマエルは皮袋に水を入れて持っていましたが、少しずつ水を飲むうちに、水がなくなってしまいました。ハガルは自分の子が死ぬのを見たくないと思い、イシュマエルを一本の灌木の木の下に放り出して、離れたところに座り、声をあげて泣きました。それで神である主が御使いを送って、彼女らを助けてくださるのですが、きっとハガルの泣き声をきいて主は心を動かされたのだろうと思いそうなところですね。ところが聖書には「神は少年の声を聞かれた」と書いてあるのです。少年イシュマエルも何か声を出していました。ハガルは離れたところに座り、声をあげて泣いていたので、イシュマエルの声は聞こえなかったかもしれません。聞かなくても良いように激しく大声で泣いていたのかもしれません。主はハガルの泣き声にかき消されてしまいそうな、小さな少年の声を聞いて、彼らを救い出すために御使いを送られました。主はどんなに立場の弱い人も誰一人として見捨てることはないお方なのです。

「え、本当にそうかな?聖書には子どもたちを死刑にする決まりも書いてあるよ」とおっしゃる方もいるかもしれません。そうなんですね。確かに律法には、主が定めたこんな掟がありました。『あなたの息子や娘があなたをそそのかして、「さあ、ほかの神々に仕えよう」と言ったなら、その者たちにあわれみをかけたり、容赦したり、かばったりしてはならない。必ずその人を殺さなければならない』と書いてあります(申13:6-9)。これはどういうことでしょうか。これは子を愛して守ろうとする親の心を考えると意味がわかります。親は時に子どもたちに、ひどく厳しい罰則を設けて、ぜったいにこれはするなと言うことがあります。例えば、日が暮れる前に帰ってこないと絶対に家に入れてあげないと言ったりします。それでは子どもを家から追い出す親かというとそういう意味ではありません。「日が暮れても外に出ていると危ないから、絶対にそんなことをしてはいけないよ」というのがポイントなのです。家に入れるかどうかはポイントではありません。実際に日が暮れた後にまだ子どもが帰ってきていなかったら、もうその時点で家に入れるかどうかは何の意味もない事柄です。親は心配して自分の子を探し回るでしょう。その子を愛しているからです。

主が、わたし以外の者に仕えて、それらの語る言葉に従ってはいけないとおっしゃるのは、それが危ないことだからです。それらが教えるのは、「あなたがは頑張らないと愛されないよ。見かけが良くないと愛されていないよ。役に立たなければ、存在の価値はないよ。お金を稼げない人はお荷物だよ」という間違った価値観です。あなたもそのような教えを吹き込まれたことがあるのではないでしょうか。その声を信じて、ついていったことがあるのではないでしょうか。さらには他の人にその価値観を押し付けたことがあるのではないでしょうか。その言葉を信じてしまうなら、世界には貧しい人、虐げられている人、見下されている人が存在するようになり、あなたも人生のある時に、貧しく、虐げられ、見下されることを経験することになってしまいます。神である主の声を聞いてください。主はあなたを望んで命をお与えになりました。あなたを愛しておられます。《わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)》と言っておられます。

「でも、神である主以外の者に従って、間違った価値観を信じるような者は死刑になると決められていたのでしょう?もうそれを信じてきたんだから、もう死ねってことだろ?」「いや、そういう意味ではない。わたしは誰が死ぬのも望まない!(エゼ33:11)」「あんたが死刑って決めたんだろう。それはどうするんだよ」(どこかの親子喧嘩みたいですね…)主は言われました。「その死刑はわたしが受ける。我が子よ。わたしはあなたが生きるのを望む。わたしの家に帰ってきなさい。恵みによって生きなさい。」そして確かに、主イエス様は地に来てくださって、あなたの身代わりに十字架にかかられました。こんなことは他で聞いたことがありません。

《「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(2:14)》みこころにかなう人々とは、世の偽りの教えに気がついた人たちです。その人たちは往々にして貧しく、虐げられ、見下された人たちです。そのような立場に追いやられて初めて、この世界がおかしいと気が付くことが多いからです。そしてみこころにかなう人々とは、主のことばを聞く人です。「すべての人は神に望まれ、喜ばれて命を受けたということ。人は神の恵みによって日々生活しているということ。役に立つかどうかは一切関係なく、すべての人の存在が高価で尊いこと。神である主は人を愛しておられること」この聖書に書かれた主のことばを聞いて、受け入れる人です。

羊飼いたちはみこころにかなう人々でした。周りの人たちは、彼らを貧しいとか、学がないとか、取るに足らないとか言っていたでしょう。でも彼らは人の言葉ではなく、神から告げられた良い知らせを喜び、イエス様の誕生を見に行きました。羊飼いたちは見聞きしたことがすべて御使いの話しの通りだったことを、確かに見ることができました。主はまず彼らを礼拝に招かれたのです。そして羊飼いたちがイエス様を見に行くことができたのは、イエス様が兵士に守られた王宮で生まれたのではなく、宿屋の中で生まれたのではなく、不衛生で、暗く、囲いもしっかりできていない馬小屋でお生まれになったからです。それほどまでに身を低くして、王の王であられる方が最も弱い立場にまで降りてこられたからです。なぜでしょうか。主が羊飼いたちを愛していたから、彼らが救い主を見つけに来れるようにするためでした。同じように、今日、主イエス様はあなたを愛しておられます。

お祈りします《「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」》

天の父なる神様。高い御位に座しておられるべきお方。しかし身を低くして天と地をご覧になり、弱い者をちりの中から起こし、貧しい人をゴミの中から引き上げ、彼らを高貴な人々と共に席につかせられるお方。人を望んで生まれさせ、ご自分の家に住まわせてくださるお方(詩113)。私たちの主よ。

あなたは輝く天から降りてこられました。私たちのために。わたしはあなたを愛していると言って、わたしたちを捜して救うために来てくださいました。

神は私たちを不自由に押し込め、滅ぼしたいのだろうと思いこんでいましたが、全くの勘違いでした。あなたの厳しい罰則基準は、私たちが世界を富める人と貧しい人に分けることを避け、高く見られる人と見下される人に分ける価値観を絶対に受け入れないようにするためでした。私たちを思う愛があったのに、私たちはそれを知りませんでした。

主よ。月や星、また天使よりも尊いとされたあなたの子である私たちをあわれんでください。あなたの家に帰りたいのです。救い主イエス様。あなたを待ち望んでいます。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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