クリスマスおめでとうございます。11月30日のこどもクリスマス会から、3回のアドベント礼拝と2回のクリスマスコンサートがありました。毎週2つの催し物が続いて、少し食傷気味かもしれません。ある方は、クリスマス時期のイベントが一年に分散していたら良いのにとおっしゃっていました。確かにそうですね。そのように一年で一番活動的には盛り上がるシーズンですが、私たちクリスチャンがクリスマスに一番大切にしていることは行事ではありません。あの二千年前のベツレヘムで起こった出来事が、私たちの人生を大きく変えたという事実です。あの出来事を思い出すため、また決して忘れないようにするために、年に一度、喜びと感謝を主のみ前に表しています。
今日はナザレ会の特別企画がありました。一連の企画が終わり、催し物はすべて無事に終えることができ感謝しています。「祭りの後の静けさ」という言葉があります。大きな交差点を封鎖して、お祭りが行われ、人々が大勢集まって、ワイワイ大盛りあがりで楽しく過ごした夜。それから一夜明けて、交差点はいつもの姿に戻り、人々がいつも通りに歩いている様子。これが祭りの後の静けさです。それは一般的には寂しさを思わせる言葉です。でも、祭りの後の静けさは私たちの人生とって、とても大切な時間だと思います。クリスマスの催し物が終わり、家に帰って、静まり返った部屋に戻ったとき、心の中の最も深いところに温かい神様の愛の灯火がともっていて、「主が私を愛してくださっている」と、じんわりと、しかし確かに感じることができるなら、今年のクリスマスは主にあって成功だったと言えることでしょう。祭りの後の静けさの中、いよいよ私たちが目を向けるべきこと、主のことばに耳を傾けたいと思います。
聖書をお開きください。ルカの福音書2:17-20(111ページ)【聖書朗読】
今年のクリスマスは、羊飼いたちの礼拝を軸にメッセージを取り次いできました。貧しく、虐げられ、見下された人たち、社会を支える仕事をしているにもかかわらず、人々から忘れられていた人たちの中で、主を恐れていた羊飼いたちはみこころにかなう人々でした。クリスマスは平和の到来でしたが、主は平和のニュースを伝えるために羊飼いたちを選ばれました。クリスマスの知らせは、世の支配者や著名人、インフルエンサーたちではなく、影響力を全く持たない羊飼いたちに知らされました。そして今日の箇所で、羊飼いたちはマリヤとヨセフに、天使たちから幼子について知らされた次第を話しました。マリヤとヨセフに取っては、それぞれに夢で見たお告げが現実のことであることを裏付ける証でした。クリスマスコンサートで東先生が三度の流れ星の証をしておられました。一度や二度の奇跡では信じきれないことがあります。それは愚かなことですが、しかし、主はそれでも私たちに付き合ってくださいます。何度確かめても、あの幼子イエス様は神の御子、救い主、主キリストだと、ますますハッキリと分かりました。それから、《羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行》きました。どこへ帰ったのでしょうか。_ そう彼らの日常に帰っていきました。
第一アドベント礼拝のメッセージは、若竹先生を通して語られましたが、「愛されているからこそ主に耳を傾けよう」と語られました。この三回のメッセージも、最後にはそこに戻っていくようです。「愛されている」で終わらず、その先があるようです。
人類の歴史では、時々、救世主や終末思想が現れてきました。私たちの生きている期間においても、いくつか目にしたのではないでしょうか。それらはすべて言葉の通りに実現しなかったので偽物だと分かりました。20世紀の終わりにも、そのようなことがありました。彼らは、救世主の元に集まる、または同志で集まるという特徴をもっていました。しかし、集まった後にまた帰っていくというのは見られなかったのです。「祭りの後」がありません。とにかく「祭り」を終わらせないようにしているようでした。やがて「祭り」を続けることに耐えられなくなった人から脱落していき、期待が実現しないまま崩壊していきました。しかし、クリスマスは違いました。羊飼いたちは天の軍勢を見て、その言葉の通りに急いで行って、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当て(マリヤとヨセフからもお告げの話を聞いたかもしれません)、素晴らしい世界で初めのクリスマスを祝いました。それから、神をあがめ、賛美しながら、いつもの場所に帰って行きました。かつて変貌山で太陽のように輝くイエス様を見た、おっちょこちょいのペテロは、「ここに幕屋を造ります」と、山の上で祭りを続けようとしました(マタイ17:4)が、それとは対照的な羊飼いたちの様子でした。
神である主イエス様が世に来てくださったということは、人々の日常に来てくださったということです。そして特に、貧しく、虐げられ、見下され、そこにいるのにいないかのように扱われている人々の日常に来てくださいました。羊飼いの日常は、私たちが可愛らしいと想像するようなものとは違います。いわゆる底辺と揶揄される生活であり、そこから抜け出したいな、戻りたくないなと思うような日々だったはずです。待ち望んだキリストが現れたのだから、これをネタにYouTubeチャンネルを作って、一躍有名となり、大儲けして、羊飼いの生活から大逆転!というのが人々が考えているサクセスストーリーです。でも彼らはそのようにしませんでした。
旧約聖書を開くと、羊飼いについて興味深いことが語られています。神である主ヤハウェが世界の創造主として世を治める姿を、羊飼いに例えているのです(創48:15、49:24、エレ31:10、エゼ34、ヨハネ10:11)。神の支配と言えば、軍隊の将軍とか、財閥の会長、大統領などを想像するのではないでしょうか。しかし、まことの神の支配は、羊飼いのリーダーシップです。詩篇23:1《【主】は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。》主は羊飼いとして私たちをお世話してくださるので、全てのものが備えられています。主の家が私たちの住まいです。そこには憩いがあり、たましいが生き返ります。そこには義の道への導きがあります。死の陰の谷を歩むとしても、主がともにいてくださいます。敵をしりぞけるムチがあり、敵に囲まれた状態であっても、安心して食べることができる食卓が用意されています。私たちの家族の父が羊飼いなので、いつくしみと恵みが私たちを追ってくる人生となります。
羊飼いたちは、世を救う神の御子が何をしてくださるか、この世界で最も鮮明に理解していた人たちでした。彼らは日々、羊のお世話をしていたからです。このクリスマスの日ほど、彼らが羊飼いの仕事を誇りに思ったことはなかったのではないでしょうか。
アダムに呪いがもたらされて以降、人の仕事は収入と結びつけられてきました。汗を流して糧を得ることになったからです(創3:19)。しかし、本来、仕事の尊さはお金を稼げるかどうかで測れるものではありません。羊飼いの仕事は大きな収入を生みませんでした。羊飼いは沢山いて珍しい仕事でもありません。ローマ皇帝は世界に一人(か数人)だけです。一人で帝国を維持するのですから、人々は皇帝を褒め称えました。しかしローマ皇帝は、主の姿を映すことはありませんでした。一方で、人々が憧れたり、素晴らしいと思ったりしたことがない羊飼いの歩みが、主の姿を映し、イエス様が世に来られたことを表していました。私たちが日々、携わっている仕事は、私たちの意識次第で、主の姿を映し出すことができる尊い働きです。それは例えば子育てや介護かもしれません。家族をお世話してもお金にはなりません。また珍しくとも何ともない仕事です。子育てや介護で多くの人から称賛されることはないでしょう。「私もやったよ、あの人も頑張ってるよ」と言われるでしょう。しかし、それが主の姿を映し出すなら、神である主があなたの働きを認めてくださいます。その仕事は農作業かもしれません。音楽を奏でることかもしれません。料理することかもしれません。老人ホームで誰も訪ねてこない人を訪問することかもしれません。手紙を書き、電話をかけることかもしれません。病人の横で一緒にいることかもしれません。あるいは、ただそばにいる人に笑顔で「ありがとう」と感謝することかもしれません。何も特別ではない、値段がつくわけでもない歩みは、人々から認められることはほとんどないでしょう。でも、主の姿を映し出すことができるではありませんか。神である主が認めてくださるなら、それに勝ることはないのです(ガラ1:10)。あなたの歩みが、イエス様が来られたことを告げ知らせます。あなたの日常が、そのままクリスマスのメッセージになります。
羊飼いたちの人生はひっくり返りました。認められていないと思ったのに、認められていました。愛されていないと思ったのに、愛されていました。彼らはそうして神をあがめ、賛美しながら帰って行ったのです。今年の宣教聖日礼拝で、主はクリスチャンを礼拝に集め、また世に散らされると語られていました。王寺教会の礼拝でも、今年は閉会唱を取り入れました。福277「行け 地の果てまで」を共に賛美して、それぞれの日常に散っていきます。「私たちは宣教のために、それぞれの場所に散らされていく」と聞くと、重い責任感(プレッシャー)を感じてしまう方もおられるかもしれません。もしそのようなことがあるとしたらそれはミス・コミュニケーションです。宣教とは「あなたが出来そうもないことを頑張って出来るようになって成果を出しなさい」という意味ではありません。愛されていないと思ったのに、主は私を愛しておられると知った。誰も認めてくれないと思ったのに、主は私を心に留めておられた。私の日常には意味がないと思ったのに、こんな私に主の姿を映し出すことができると分かった。イエス様が世に来られた。主が私の日常に来られた。そしてあなたの人生にも来たいと願って、心のドアをノックしておられる。それを表現し、それを伝えるのが宣教です。お金はかかりますか?いいえ、お金をかけなくても宣教できます。特別な能力は必要ですか?いいえ、あなたの日常が福音を伝えます。やる気と計画が必要ですか?いいえ、主に愛されているという事実によって、私たちは語ることを止めることができず、あらゆるところで、あらゆる場面で黙っていることが出来ません。
神をあがめ、賛美しながら帰って行って、今晩はイエス様の食卓を思わせるような料理を作ろうと思う方もおられるでしょうか。ご主人が余計なことを言うかもしれませんね。「きみ、こんなことに労力をかけるより、何か生産性のあることをしたらどうだね」その時、このように返すことができるでしょう。「ねぇ、知ってる? イエス様が来られたの。世界の王イエス様は羊飼いなの。羊飼いは羊のために食事を用意するのよ。」
メリークリスマス。祭りの後に、神様の愛が確かに残りますように。あなたは神に愛されています。
お祈りします《羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。》
天の父なる神様。私たちの羊飼い。羊の群れを捜し求め、これを捜し出すお方。羊を飼い、良い牧草地で養い、憩わせ、失われたものを捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づけ、羊を餌食にするものを根絶やしにするお方。私たちの主よ。
このクリスマスにあなたは優しく、しかし力強く語ってくださいました。「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)」「あなたはわたしの牧場の羊である。(エゼ34:31)」と。羊飼いとして来てくださったイエス様。追い散らされたものたちをあわれんでください。私たちの罪を赦して、あなたの牧場に帰らせてください。
クリスマスのお祝いが終わり、私たちもまた神をあがめ、賛美しながら、いつもの場所に帰っていきます。すべてはあなたの愛によってひっくり返りました。両腕で抱えても、持ちきれずにこぼれてしまいます。主よ。あなたの愛と恵みが、私たちの歩き回るあらゆるところであふれ、こぼれて、人々を潤し、あなたが来られたことを告げ知らせますように。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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