おはようございます。宣教月間の最後の聖日です。またクリスマスの飾付が整って、いよいよ待降節に入っていこうとしています。
宣教をおぼえる月ですが、宣教(伝道)とは「神の宣教」から始まったものです。神である主が行っておられる宣教には聖書が欠かせません。なぜなら、聖書はその存在自体が神の宣教だからです。ことばは何かを伝えるためのものです。文字はコミュニケーションの道具です。私たちに何か伝えることがあるから、ここに聖書があります。
それにしても何故こんなに聖書は長いのでしょうか。聖書は神様からの手紙と言われるのですが、いくらなんでもこんなに長い手紙を書いて寄こす人はいないでしょう。所々良さそうなところだけ、掻い摘んで読んでもらえれば良いということなのでしょうか?_
聖書は、神である主が世界のすべてを創造されたこと、そこに神のかたちに造られた人を置かれたこと、そして主が人と共に園におられたところから始まっています。そして最後は、人々が祈っている場面で終わります(黙22:20)。「主イエスよ、来てください」と祈っている場面です。イエス様は「わたしはすぐに来る」とおっしゃっています。今日、私たちクリスチャンが集まって礼拝しているのも、「主イエスよ、来てください(マラナタ)」と祈っている人々の一部です。では、この長い間に何があったのでしょうか。それを伝えているのが聖書です。その説明にこれだけの長さが必要だったわけです。
主は世界のすべての人が、この祈りの輪の中に入ることを待っておられます。「何があったの?なぜそんなお祈りをしているの?どうやったらその輪に加わることができるの?」全部聖書に書いてあります。聖書のことばを余すことなく伝えることは宣教です。おまじないではありません。単なる気休めのためではありません。今、この世界に、人々の人生に何が起きているのかについて、主が一生懸命教えてくださったことを伝え、あなたも招かれているよとお知らせすることです。
聖書をお開きください。ヨハネの福音書12:1-8(207ページ)【聖書朗読】
今日の箇所で、イエス様とあった人は(初めての出会いではありませんが)ベタニアのマリアとイスカリオテのユダです。過越の祭りの6日前のことでした。この過越の祭りの時に、イエス様は十字架にかけられて殺されます。その一週間ほど前の出来事でした。「死人の中からよみがえらせたラザロ」とありますが、ラザロのよみがえりを記しているのは右のページ(11:1-44)です。それから今日の話に入るまでに、間の出来事が書いてあります。11:47-48《祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの者が多くのしるしを行っているというのに。あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう。」》このように話し合って、イエス様を殺そうと企んでいました。彼らはイエスを捜し、イエスがどこにいるかを知っている者は報告するようにという命令を出していました。そのような状況での出来事です。非常に緊迫した空気の中で、イエス様はまもなく殺されることを知っておられました。それでも、ベタニアのラザロ、マルタ、マリヤの家は、イエス様にとって最もリラックスできる家でした。イエス様の一行は働きの合間には、いつもこの家に来て休んでいたからです。
マリアはイエス様のところに来て、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエス様の足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。家は香油の香りでいっぱいになりました。マリアはイエス様の様子をみて、不穏な空気を読み取っていたのではないでしょうか。何か精一杯できることをしたいと思ったのです。今で言えば数百万円の価値あるものを注ぎだして、一生に一度しかできないくらいのことだと思います。また髪で拭うというのは、今みたいに柔らかいタオルがある時代ではありませんから、本当に丁寧に、自分の最も大切なものを用いて、もてなしたということです。どんなにイエス様は慰められ、また力づけられたことでしょうか。
ところが、それを見ていたイスカリオテのユダはこう言いました。《「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」》みなさん、この様子を横から見て、どう思いますか。鋭い刃物で刺すような正論ですね。みなさんもこのような場面に出くわしたことはあるでしょうか。「正論」とは、文字通りでいうと「理にかなった正しい論」ということですが、実際にはその場に相応しくない言葉です。「その人は正論を言って、その場を凍りつかせた」等のように使われます。ユダの言葉は筋が通っているように見えて、実はあの場面には全く相応しくなく、彼の言動は間違っていました。
我が家の子どもは小学生になってから、宿題をもってくるようになりました。ある日、算数の宿題があって、「お父さん教えて」と言われたのです。繰り上がりのある足し算のプリントでした。「7+8は何?」と聞くのです。「そうだね。7はあといくつで10になるかな」と尋ねました。すると、娘はそういうことじゃないよという感じで、座卓の前から後ろに寝っ転がってしまいました。私は続けて教えました。「7はあと3で10だね。だから8から3をもらうと、いくつかな。5だね。だから7+8は…。」すると、娘は起き上がって、それを早く言ってよと言わんばかりに、7+8=15と書いたのです。それで私は分かりました。あ、この子は計算しないで、答えを暗記していたんだなと。暗記していた答えを忘れてしまったので、答えが分からなくて私に聞いてきたのです。でも、それじゃ駄目なんですね。プリントには他にも20個ほど別の式が書いてあって、それも解けるようになるには(将来もっと複雑な問題を解けるようになるには)、計算する力がないといけないからです。7+8=15と分かっても、次の5+6に15と書いたら間違いなのです。「さっき15だったじゃん」と言っても、次の式ではバツですね。
聖書を読んだり、説教を聞いたりする時、同じようなことがあります。聖書や説教(聖書の説き明かし)は、結論って実はあまり大事ではないのです。聖書は天地創造から始まり、マラナタの祈り「主よ、来てください」で終わっていますが、実はまだオチに行き着いていません。最後にイエス様が帰ってきてくださることは決まっていますが、まだ帰ってこられていません。だから聖書はオチてない話です。「それでどうなったん」というところがまだ起こっていないので書いてありません。また、聖日のメッセージは、一応結論らしきものがありますが、結論はみなさんにとってはあまり大事ではありません。私はここで例えば7+8=15の話をしますが、実際にここにおられるみなさんがそれぞれの人生で今抱えておられる問題は、7+8ではないからです。ある人は5+6、別の人は2+3、こっちの人は12-3の答えが今、必要なんです。説教の結論だけ覚えておこうとしたら、自分の人生に7+8が出てくるまでひとつも答えが分かりません。ですから、説教の結論は実はそんなに重要ではないのです。
関西地方では話にオチを求めるとよく言われていますが、どうでしょうか。大阪の方は特にオチがないときに「知らんけど」と言うそうですね。私もこれからメッセージの締めくくりには「知らんけど」と言おうかなと思ってます(冗談)。それはコミュニケーションなので良いのですけれども、とはいえ、もし結論だけ聞いとこうという姿勢であったら、私たちは大切なことを学び損ねてしまいます。聖書はこんなに長々と書いてあって、よく分からんと思うでしょうし、くまなく読もうと思えないかもしれません。我が家の娘のように寝っ転がって、答えが出たら教えてと言うかもしれないですね。
さて、ベタニアのマリアはどんな人だったでしょうか。彼女はイエス様が家に来るたびに、イエス様の前に座って、ずっと話を聞いていた人でした(ルカ10:39)。マルタが食事の支度で忙しくしていて、ちょっと気が利く人なら、手伝わないといけないと思うような時でも、全然気が付かないでイエス様の話に夢中になっていた人でした。イエス様が話しておられる間、要点はなにかとか、結論は何かとか、そんなことは全く気にしていなかったでしょう。一言一句も聞き漏らさないで、じっくりと聞いていた彼女には、神の国の福音がよく分かったのです。天地創造から、エデンの園、神である主と人が共にいた世界、罪による追放、アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデからバビロン捕囚、神殿再建、そしてメシアであるイエス様が来てくださった、やがて苦難のしもべが打たれ、救いが来る。そのようなことをじっと聞き入っていたのです。ですから、イエス様が人々から殺されようとしていた殺伐とした雰囲気の中で、今一番大切で必要なことは何かがマリアにはよく分かりました。マリヤは自分が持っていた一番良い香油をイエス様の足に塗り、自分の大切な髪の毛で足を拭いました。イエス様はそのことを本当に喜んでくださいました。またイエス様はユダの正論を止め、マリアの盾となってくださいました。
一方でイスカリオテのユダは、「貧しい人への施し」の答えを出しました。貧しい人へ施すべきであることはイエス様も話しておられたことがあります。以前、イエス様から聞いたことがある7+8の答えでした。でも、いまこの場面で出す答えではなかったのです。貧しい人たちが救われるためには何が必要ですか?お金でしょうか。いいえ、お金ではなく、彼らをお世話するお方です。贖い主が必要なのです。イエス様がおられなければ、施しをしても根本的な解決になりません。ユダは計算の速い、ある意味せっかちなところがあったようです。聖書を聞いていた時にも、イエス様の話を聞くときにも、おそらくほとんど間の部分は飛ばして、要点ばかり気にしていたのではないでしょうか。前に聞いた結論を場違いな場面にもってきてしまいました。そして、その裏にはユダ自身の思惑があったと書いてあります。イエス様はご自分の12弟子の一人であったユダにこそ、マリヤのように、あの場面でいたわってもらいたかったのではないでしょうか。
でも、みなさん。お気づきでしょうか。この出来事の後、イエス様の一行は過越の祭りに向けてエルサレムに入っていきました。その時、イエス様はユダも夕食に招いてくださいました。イエス様はユダの足を洗ってくださいました。ユダにもパンとぶどう酒を分けてくださいました。イエス様はこうなると知っておられたのに、12弟子を選ぶ時に、マリヤではなく、ユダを選ばれました。これがイエス様です。このような方は他にいません。
あなたは今日、イエス様の御前に来て、どうなさいますか。イエス様に足を洗っていただいて、なおも「イエスを知らない」と言いますか。それとも主イエス様がもっとも願っておられることをしたいと思いますか。
主があなたに願っておられることは、あなたと共に住むことです。アダムと一緒にエデンの園におられたように、あなたと共に歩むことです。「神などいない、神なんか知らない、イエスは神ではない」と無視して来たのですから、いまさらどのように和解して、共に歩むことができるのでしょうか。しかし、神に不可能なことはありません。その罪の解決は、苦難のしもべイエス様の十字架にあります。私たちの罪の罰はイエス様が身代わりとなって受けてくださいました。神の怒りはなだめられ、過越されるのです。イエス様は「わたしを信じなさい」と言って、あなたに手を伸ばしておられます。
お祈りします《マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。》
天の父なる神様。私たちにいのちの道を知らせてくださるお方。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり、楽しみがあなたの右にとこしえにあります。
あなたが人と共に住まわれたエデンの園を思い出しています。あなたが全てのものをお造りになり、そこに人を置いて、世界をお世話させました。あなたもその園にきて、人と共に歩むことを楽しんでおられました。しかし、すべては人の罪によって破綻し、人は園を追い出され、もはやあなたと顔と顔を合わせて会うことができず、あなたの存在すらも忘れてしまいました。神はいないということにして、自分たちの作り出した世界観で、自己中心に生き始めました。それで上手くいっていると思い込ませてきました。
でも、この世界も、私たちの人生もあらゆるところで綻びています。主よ、あなたがおられないからです。どうか私たちの罪を赦し、あなたの家に帰らせてください。イエス様の十字架によって罪が赦されることを信じます。クリスマスにあなたが私たちのところに来てくださったことを感謝します。あなたがお生まれになった日、そこに王座はなく、宿屋すらもありませんでした。どうか私たち、すべての主に属する者たちのところに来てください。あなたと共に住まうことを心から歓迎し、待ち望んでいます。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。
0 件のコメント:
コメントを投稿