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2024.06.30 主日礼拝「結婚が尊ばれるように」創世記2:18-24

今年後半も共に歩んでいきましょう!
(ひでまるさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。上半期の区切りとなる聖日です。今年は「信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」(Iテモテ6:12)の御言葉が与えられ、「主に従い、神の恵みと自由を喜び楽しもう」と標語をかかげて半年を歩んできました。

図らずも(主の計画により)、本日は2名の役員が京都伏見教会の受信礼拝を視察に行ってくださっています。伏見教会のこの朝の礼拝は、牧師夫妻が兼牧先の教会に出かけているため不在です。兼牧先の教会とオンラインで繋いで、あちらからの映像を中継でつないで礼拝をしておられます。私はこの度の視察に関して、エリコ偵察の出来事を思い出していました(民13-14章)。ちょうど、今年の標語聖句と関わりのある箇所で、年頭メッセージで与えられた部分です。私たちはこれから早かれ遅かれ兼牧時代に突入していくことを知らされています。教団や教区からは、その時代に備えてくださいと事あるごとに言われています。しかし、私たちにとって未知の世界に踏み入っていくことは信仰の試練ではないでしょうか。もう一度、今年の標語聖句を思い出したいと思います。主が導いてくださる場所はいつも良いところです。私たち一人ひとりの人生においてもそうだったではありませんか。一番大変なのは、困難があることを知りながら踏み出そうとする時、また試練の只中を通っている時です。しかし、一度、主が開いてくださった海を渡り終えるなら、主が用意していてくださった祝福に驚かされます。それは私たちの期待以上、想像以上のものだからです。

主に従いましょう。個人の歩みで従うのと同じように、私たちの群れの歩みにおいても主に従いましょう。

聖書をお開きください。創世記2:18-24(3ページ)【聖書朗読】

聖書全体には神の物語が記されています。物語といっても作り話のことではありません。この現実世界には、神である主が人と辿ってこられたストーリーがあります。聖書はそれを明らかにしているのです。これを「神の物語」と神学的には呼びます。私たちは神の物語の中に生きています。すなわちこの世界で昔から今までに起こってきたこと、そして未来に起こることの中に、私たちは存在し、生きています。では、この物語を生きている私たちは、どのように人生を生きていくのでしょうか。

3つの大きなパートにわけてお話しています。最初のパートは「神である主とどのような関係をもって人生を歩むのか」ということで、語り終えました。次は「他の人とどのような関係をもって人生を歩むのか」に入っていきます。

そもそもの大前提として、神の物語(聖書)を生きる私たちの話ですので、聖書が示す順番でお話します。他の人との関係と言いますと、みなさんは自分の視点から考え始めるのが普通だと思います。でも、ここでは(旧約)聖書の順番で見てみましょう。聖書の順番とは、結婚、家族、親戚、近所、友人、村、村の外、奴隷、町(市)、国、王国です。このような人と人のつながりによって人間の世界はできていて、私たちはその一部で生きています。私たちの興味の順番と聖書の順番は違っているのが普通ですけれども、トンネルはこっちから掘っても、あっちから掘ってもいつか必ず繋がります。この神の物語は、私たちの生きているこの世界の話だからです。急がば回れと思って、御言葉に耳を傾けてください。

そういうわけで、最初は結婚の話をします。「男が妻と結ばれ、ふたりは一体となった」これが人類最初の人間関係でした。ヘブル人への手紙には《結婚がすべての人の間で尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。(ヘブル13:4)》と書かれています。これは大切な人と人の関係です。結婚がすべての人の間で尊ばれるようにということです。しかし、すべての人が結婚するわけではありません。聖書の中に独身者は沢山います。結婚しなければならないわけでもありません。イエス様を思い出すと、イエス様自身は独身でした。ある時には「夫婦関係が軽々しいものなら結婚しないほうがましです(マタイ19:10)」と衝撃的な発言をなさいました。パウロも、神の働きに集中することができる独身者の祝福を語っています(Iコリント7:32)。

結婚がすべての人の間で尊ばれるようにしなさいと言われたのは、男と女が結ばれて、一体となり、子どもが生まれ、家族ができていく関係に神である主の計画が示されているからです。結婚しているかどうかに関わらず、主が創ってくださった夫婦関係に心を留めることは大切なことです。私たちはまず「男が妻と結ばれ、ふたりは一体となった」という関係から、神の物語における人間関係を見たいと思います。

さて、私たちは聖書を読んで、主が喜ばれる人間関係を知りたいわけですが、実のところ、それは非常に難しいことです。純粋で、完全な、神の国における人間関係とは何でしょうか。罪がない世界の人間関係です。すべての人が主を恐れて、主に従っている世界における人間関係です。聖書を読んだら、それがすぐに分かるでしょうか。残念ですが、聖書の物語もまた創世記3章以降ずっと罪人たちの人間関係を記しています。

「シナイ山で主の民に与えられた律法があるじゃないですか。あれは純粋な神に喜ばれる人間関係を教えているでしょう」と言いたくなるかもしれませんね。しかしイエス様はこれも違うことを教えてくださいました。ある時、パリサイ人がシナイ山の律法に離婚の方法(申24:1-4)が書いてあることについて、イエス様に質問しました。イエス様は《モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。(マタイ19:8)》とお答えになりました。人の心が頑ななので、主が譲歩してくださっている部分があるということです。すなわち、聖書に書いてあるからといって、それらが完全に純粋な神の国における人間関係だとは残念ながら言えません。古代イスラエル人が主を忘れて、神を抜きにして作り上げた文化があり、しかし、彼らが主に従ったことによる神の国の文化も混じっています。主を知らない人間の文化をスタート地点としながら、神の国の価値観に生きることを教えられているからです。例を上げるなら、一夫多妻婚や男性優位の婚姻関係があります。アブラハムもダビデも、当たり前のように一夫多妻婚ですが、イエス様の言葉をかりれば、はじめの時からそうだったのではありません。主は彼らの一夫多妻婚に何もおっしゃいませんでしたが「だからそれは神に喜ばれる文化であった」わけではないのです。しかし、まず彼らが立っているところからスタートしてくださいました。

私たちもみんなそうです。私たちの生き方はどんなに神の国の生き方を学んで、変えられてきたといっても、まだまだ神の国の生き方とはかけ離れているんです。文化の合わない人と一緒にいるのはつらいことです。同じ空間に座っているだけでもしんどいほど合わない人っていますよね。私たちと一緒におられる時、主は「ああ、この人たちとは合わない」と感じれおられると思います。それでも主は何も言わないでいてくださいます。合わない人を喜んで自宅に招く人はどれだけいるでしょうか。今日、私たちが主の宮に集えているのはどういうことでしょうか。それほどまでに主があなたを愛しておられるということです。ですから、立っているところからのスタートであっても、主の忍耐に感謝しながら、神の国の生き方を求めようではありませんか。

さて、「男が女と結ばれ、ふたりは一体となる」関係についてです。

23-24節《人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女(イシャ)と名づけよう。男から取られたのだから。」それゆえ、男は父と母を離れ、その妻(イシャ)と結ばれ、ふたりは一体となるのである。》この箇所に、女と妻と2つの言葉が出てきますが、どちらも原文では同じ単語です。妻を表す言葉は、例えば日本語ですと、妻、奥さん、夫人、女房、おかみさん、家内、ワイフ等、色々とあります。ただの言い方といえば、そうなのですが、妻とはどういう存在かという文化的な価値観が含まれているとも言えます。旧約聖書の言葉では、夫と妻を表す言葉は基本的に「男(イシュ)」と「女(イシャ)」です。この人は男ですと言うと夫という意味、この人は女ですと言うと妻という意味になります。他にいくつかの箇所に、主人(バアル、アドン)、夫のある女(ベウラー)、側女や側室(ピレゲッシュ)が出てきます。しかし、はじめの時の関係は、「男が父と母を離れ、女と結ばれ、ふたりは一体となる」でした。ここから、夫と妻はフラットな関係であり、どちらが優位ということはないというニュアンスが汲み取れます。男(夫)が先に創られたから妻より上だとしますと、動物の方が男より先に創られていますから、おかしな話になります。動物は人にお世話されるように創られました。パウロが書いた《女のかしらは男(Iコリント11:3)》が引っかかりますが、すぐ後に《女が男から出たのと同様に、男も女によって生まれる(11:8)》とも書いてあります。夫が妻より優位だとか、妻は夫の所有物とか、妻に対して支配権があるとか言っているのではありません。夫と妻は主に創られた人同士として結ばれます。

結ばれると、私の骨、私の肉と呼ぶ関係になります。先日、ある方が「夫婦は一体となると聖書に書いてあるが、結婚して何十年たった今でもどういうことかわからない」とおっしゃっていました。古代イスラエル人の文化で「あの人は私の骨肉です(創29:14)」と言うなら、それは家族という意味です。私と同じ家に属する人のことです。夫と妻が結ばれると、家族でなかった人同士が家族になります。家族内の結婚は律法で禁じられており、他の多くの文化でも同じです。《もはやふたりではなく一体(マタイ19:6)》とは、一心同体と言うよりも、独立した二人がひとつの家族になるという意味合いがあります。男が父と母を離れて、女とひとつの家族になるように創られました。(実際は女性が家を離れることがほとんどですが。)

結ばれて、家族でなかった人同士が家族となり、どうするのでしょうか。18節《また、神である【主】は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」》彼らは互いに助け合って、一緒に主が与えてくださった仕事をします。私たちの文化では、夫婦が、それぞれに別の仕事をしても変だとは思いません。でも、主がはじめに夫婦関係を作ってくださった時、人がふさわしい助け手を得て、共に主の働きに従事していくことが、その目的でした。

これが、主がこの世界に一番最初に創られた人と人の関係でした。この夫婦関係を元に、親子関係が始まり、兄弟関係、家族関係、親戚関係、ご近所、地域、村…と人の世界が広がっていきました。その中のどこかに私たちはそれぞれ生きています。夫と妻の関係を、神の国の価値観に照らしながら、心に留めましょう。主に喜ばれる夫婦関係のために、みんなで祈りましょう。

お祈りします《神である【主】は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」…人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから。」それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。》

天の父なる神様。いと高き神、天と地を造られた方。あなたに誉れがありますように。

主よ。私たち人間は、他の人との関係でいつも苦労しています。人と人の関係はいつもまっすぐにはいきません。上手く行っていると思っていても、ある日突然、問題が吹き出してきます。主であるあなたを離れて、自分たちの目に良いことを追い求め、本来の人と人の関係のあり方を忘れてしまったからです。

主よ。私たちを癒やしてください。曲がったものをまっすぐにしてください。自分の生き方を変えたくないと考える頑なな私たちを、あなたの愛のわざによって砕いて、へりくだらせてください。もし私たちがあなたの立場であったなら、自分と合わない生き方を頑なに守り続ける人々を見て、同じ場所にいるのも耐えられない、すぐにでも滅ぼしてしまいたいと思うのではないでしょうか。ところが、あなたは自らが苦しむ方を選び、なんと十字架の死を受け入れるほどにまで、私たちを愛してくださいました。あなたの愛に比べたら、私たちのできる限りの犠牲とはなんと小さな、つまらないものでしょうか。

主よ。あなたの心と私たちの心が一致するように、私たちの生き方を変えてください。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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