お知らせ

初めての方も歓迎いたします

2024.06.02 主日礼拝「主に立ち返って叫ぶ」申命記30:1-10


一人の姉妹が召されました。天国での再会を楽しみに。

(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。今日もようこそお集まりくださいました。共に主に感謝と喜びの声をあげる礼拝の時を与えられ感謝します。

教会のみなさまにお知らせいたしましたように、矢野次恵姉が金曜日の夕方に主のみもとに召されていかれました。今、姉の亡骸は親子室に安置されています。今日はお顔をご覧になっていただければと思っていますが、私たちは矢野姉のたましいが主のみもとに召されたことを知っていますので、絶望的な悲嘆にくれることはありません。もちろん、しばしの分かれの寂しさは感じることですが、姉が人生の苦しみから解き放たれて、主のみもとで自由にしておられることを思うと、主にあって喜ぶ気持ちさえも与えられていると思います。

天の御国が地に侵入して来ているのが、この礼拝の瞬間です。ですから、矢野姉も今、私たちと共に礼拝しておられることでしょう。どんな様子で礼拝しておられるのか、私は礼拝での矢野姉の姿を知りませんけれども、何人かの方は覚えておられるでしょう。もう何の不自由もなく主を賛美しておられるのです。素晴らしいですね。ヘブル人への手紙には《多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている(ヘブル12:1)》と書いてあります。想像してみてください。矢野姉も、また他の先にゆかれた兄弟姉妹も私たちを取り巻いて、今この時、共に主を証しています。

聖書をお開きください。申命記30:1-10(369ページ)【聖書朗読】

「神である主とどのような関係をもって、人生を歩んでいくのか」という学びですが、今日の主題は「悔い改め」です。

私たちは様々な場面で、神である主とコミュニケーションを取っていますが、そのひとつに悔い改めという場面があります。悔い改めるというと、おそらくバプテスマのヨハネやイエス様のことばを一番に思い出されることでしょう。イエス様の宣教の始まりはこのことばからでした。《「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ4:17)》そういうわけですから、私たちのイメージとしては、悔い改めて洗礼を受けるというふうに、未信者からクリスチャンになるときのステップとして考えていることが多いのではないでしょうか。しかしながら、洗礼を受ける前に悔い改めが必要なことはもちろんのこと、洗礼を受けた後、私たちのクリスチャン生活の中でも、悔い改めは何度も主とのやり取りの中で起こってくるコミュニケーションなのです。そもそも悔い改めとは何なのか、旧約時代からの繋がりを見ながらお話したいと思います。

今日お開きしましたのは申命記です。カナン入国を一度ためらって、荒野に戻った民が、40年かけて次の世代に代わり、今度こそカナンに入っていこうとしていました。その前に、新しい世代の民に再確認の意味で語られた主の律法が申命記です。

主は民に言われました。約束の地カナンに入ったら、あなたたちの生き方に2つの選択がある。それはいのちを得る生き方とのろいを受ける生き方だ。その御言葉はこうです。《私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。(申30:19)》主の心が表された切なる語りかけです。でも、もしのろいを選んでしまうようなことがあれば、どうなってしまうのでしょうか。実際にイスラエル人たちはのろいを選んでいくようになります。そしてその結果を受けて、国は滅ぼされ、民はバビロン帝国のあちらこちらにバラバラに散らされてしまいました。そうなってしまったら、もうおしまい…なのではないと主はあらかじめ教えてくださっていたのです。そこには、主に立ち返るという方法が用意され、残されていたのです。申命記はバビロン捕囚の何百年も前の話です。まだカナンに入る前、「本当にカナンに入れるのだろうか」と思っているような時期に、すでに主は悔い改めを教えてくださっていました。

その悔い改めは、今日の箇所を見ると、「我に返る」「主に立ち返る」「御声に聞き従う」「主のすべての命令を行う」「みおしえの書に記されている主の命令と掟を守る」ということが言われています。自分のしたことを認め、主ではない誰かの声に従うことを止め、主に立ち返って、主に聞き従うことが悔い改めです。子どもをしつける時に、よく私たちは「間違ったことをしたら謝りなさい」と教えますね。それについてちょっと考えてみましょう。そのように子どもたちに教えますと、子どもたちは親に従って、悪いことをした時に「ごめんさない」と言うようになるでしょう。それは大事なことですね。ところが、本当に親が願っているところまで子どもたちが至らないことがあります。「ごめんなさい」と言っても、同じことを繰り返していたり、挙句の果てには「僕はごめんなさいと言ったよ!」と逆ギレしてきたりすることがあります。子どもからすると、確かに親の教えに従ったのであって、なぜこれで駄目なのかと思うのでしょう。

神である主が教えてくださった悔い改めは単に「ごめんなさい」と言うことではありません。聖書を開いていろんな箇所を調べてみてください。「ごめんなさい」と言っているでしょうか。神の民は、謝罪の言葉を述べるよりも、自分に過ちがあったという事実を主の前に告白しています。例えば詩篇の38篇はダビデの悔い改めの祈りですが、《私は自分の咎を言い表します。(詩38:18)》と言っています。「私には罪があります」「私に咎があります」「私の罪と咎のゆえに私は苦しんでいます」と事実を主の前に明らかにしているのです。「悪いことをして罪悪感があるのでごめんなさい」ではなくて、「私の罪の結果、私は本当に苦しんでいます。この苦しみは私の罪が原因です。主よ、助けてください」と叫ぶ祈りが、悔い改めの祈りなのです。一般的な私たちのイメージときっと違うのではないかと思います。しかし、聖書の中で祈られてきた祈りはそのような叫びでした。

私たちのイメージと違って、悔い改めの時に、主はいけにえを喜ばれないとおっしゃいました(詩51:16)。ささげものではなく、あるいは「ごめんなさい」という言葉ではなく、砕かれた心を求めておられるのだと。バプテスマのヨハネが人々に洗礼を授けていた時のことも思い出してください。パリサイ人やサドカイ人がやってきて洗礼を受けようとしました。しかしヨハネはこう言ったのです。《悔い改めにふさわしい実を結びなさい。(マタイ3:7)》彼ら自身の生き方が間違っていることを認め、主イエス様に聞き従うようにならなければ、形だけ洗礼を受けようとしても受け入れられないのです。

しかし、神の御国には良い知らせがあります。罪の結果の苦しみの中でも主に叫ぶことができるということです。世の人々は罪を犯した人間は助けを求めるべきではないと言っています。ところが主は、のろいを受けたならば、我に返って、主に立ち返り、助けを叫べとおっしゃってくださったのです。神の民である古代イスラエル人は、歴史の中で大きく2回、主の救いを経験しました。ひとつはエジプトからの救い、もうひとつはバビロン捕囚からの救いです。エジプトからの救いは災難からの救いでした。悪に苦しめられている人々の叫びに主は答えてくださったのです。一方、バビロン捕囚からの救いは、イスラエル自身の罪からの救いでした。彼らは主に背き、苦しみを受けるべくして受けたのです。しかし、その中から主は彼らを救い出してくださいました。ここに福音があります。

ですから、悔い改めの祈りは、しばらく前に学んできた主に訴える祈りのひとつなのです。「主よ、私は自分の罪のためにこんなに苦しんでいます。私を助けてください。救ってください」と主の真実に訴えて叫ぶということです。そんな都合の良いことがと思いますよね。でも、主と私たちの間にはこのようなコミュニケーションがあります。主が悔い改めの道をあらかじめ用意して、教えてくださっているからです。

旧約聖書には哀歌という書があります。これはバビロンに国を滅ぼされ、人々を連れて行かれてしまった後のエルサレムでの嘆きの歌です。彼らの苦しみは、あらかじめ教えられていた律法に従わず、さんざん警告してくれた預言者の声を聞かず、主に背き続けた結果、警告されていた通りのことが実現してしまったのであって、自業自得なのです。しかし、そんな苦しみの中で、主に叫んでいる。それが哀歌です。その中にはこのような節があります。《主は、いつまでも見放してはおられない。主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。(哀3:31-32)》なぜこのような都合の良い言葉が出てくるのと思うでしょう。でも、この哀歌よりも何百年も前に、御言葉があったのです。《あなたがたがあなたの神、【主】を探し求め、心を尽くし、いのちを尽くして求めるとき、あなたは主にお会いする。…あなたが苦しみのうちにあるとき、あなたは、あなたの神、【主】に立ち返り、御声に聞き従う。あなたの神、【主】はあわれみ深い神であり、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの父祖たちに誓った契約を忘れない(申4:29-31)》彼らは、主の約束のみ言葉を掴んだのです。主の真実さに訴えました。

主は悔い改める者を赦してくださいます。赦すと旧約聖書で訳されている言葉は、文字通りの意味では「運ぶ」という言葉です。罪の結果として私たちが背負っているものを、引き受けて背負ってくださる。主にとって、それが「赦す」の意味でした。世間の謝罪会見を見てください。ある会社で不正が見つかった。社長が出てきて「こんなことが行われているなんて許されないことです」と言っている。いや、あなたが責任者じゃないの?と思いますね。なぜあなたが遺憾ですと言っているの。そうじゃなくてあなたは責任を引き受けて、償いに動かなければならないのではないですかと思います。罪の結果がいつの間にかどこかに霧散しまうという不思議な現象が起こっています。しかし、主が赦すと言われた時、そんなことは起こりません。主はちゃんと罪の結果を運ばれるお方なのです。

過ちを犯してしまった時、私たちは頭が真っ白になりますね。この結果を私は引き受けて背負い切れるのだろうか。この償いをやり切れるのだろうか。そのような時、私たちは主に依り頼んで、叫ぶことができます。ご存知でしたか。古い讃美歌にもありますね。「罪に悩み 苦しむとき 世の悲しみ 迫るとき 岩なる主の かげに隠れ こころ安く 日を過ごさん 千歳(ちとせ)の岩なる 主のみもとに われ憩わん(福350)」罪に悩むときに「主よ、助けてください」と叫んでみてください。その日、あなたはイエス様の十字架の意味を本当に知ることになるでしょう。

悔い改めの祈りを思う時に、いつも思い出す聖書の箇所があります。ミカ書7:18-19(1591ページ)です。《あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは咎を除き、ご自分のゆずりである残りの者のために、背きを見過ごしてくださる神。いつまでも怒り続けることはありません。神は、恵みを喜ばれるからです。もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ込んでください。》主は真実なお方です。私たちが主に背いた咎を踏みつけ、すべての罪を深海の底に投げ捨ててくださいます。そして、私たちの罪の責任を必ず背負ってくださるのです。

お祈りします《あなたの神、【主】は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、【主】を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。》

天の父なる神様。情け深く、あわれみ深く、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるお方。私たちの主よ。

あなたの計画は人の考えを遥かに越え、不思議なことです。あなたに背き、国を滅ぼされ、散らされてしまった民に、わざわいではなく将来と希望を与え、平安を与える計画を立てておられました。罪の報酬は死でありますのに、実にあなたは、罪に悩み苦しむ者の叫びを聞き、罪を背負って運んでくださいました。あなたのような神がほかにあるでしょうか。主よ。私たちはみな、あなたに背き、聖なる生き方に倣わず、自己中心に生きて罪を犯しました。あなたの御前に罪ある者をあわれんで、この苦しみから救い出してください。

あなたは罪の結果を背負って運んでくださるお方です。罪の補償は私たちの手に負えません。しかし主よ、あなたのみ名のために、被害者が泣き寝入りするような事態にならないようにしてください。もし被害者が見捨てられているなら、誰が罪を背負ったのでしょうか。あなたのみ名が非難されることにならないでしょうか。どうかあなたの栄光のために、あなたの真実に訴えて祈ります。私たちが運ぶことができなかった罪を運び、被害を受けて苦しむ人たちの叫びを聞いてください。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

0 件のコメント:

コメントを投稿

Pages