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2024.07.07 主日礼拝「夫婦は互いに恋い慕う」雅歌1章


危険な暑さです!我慢せず涼しくこの夏を乗り越えましょう。
(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。今年の下半期に入りました。ひとつの区切りの新しい朝です。私たちの目が未来に向くことは良いことです。主は私たちの目をいつも未来に向けさせてくださいます。私たちが過去を思い出すのは、もっと昔に主が約束してくださったことを、確かに実行してくださったと知るためです。すなわち、いま約束してくださっていることは、未来に必ず実行されると確信するためです。こうして、私たちは今与えられている約束を握って、未来を見て歩いています。

聖書を読むと、主を知ることができ、神の王国を知ることができます。聖書は私たちを教えますが、私たちを救うことはできません。聖書の役割は私たちを罪に定めることだからです。主を知れば知るほど、神の国の生き方を知れば知るほど、私たちは自分たちがいかに主を恐れないで生きているのか、いかに神の国の生き方から程遠い生き方をしているのか教えられます。実に私たちの内には希望がないのです。しかし、聖書は神である主イエス様を指し示します。あなたの希望はここにあると言うのです。だから十字架がある。だから主は帰ってきてくださって、すべてを新しくしてくださると語っています。イエス様は聖書を成就するために来てくださいました。神の国の生き方を切に求めながら、イエス様が私たちに約束を成就してくださることを期待しましょう。水の上を歩いてこちらに来なさいと言われたら、やってみましょう。それは人の努力ではなく、神の業への応答です。その恵みを受け取りましょう。

聖書をお開きください。雅歌1章(1156ページ)【聖書朗読】

神の物語を生きている私たちは、「他の人とどのような関係をもって人生を歩むのか」を旧約聖書から学んでいます。この世界で最初の人間関係は「男が父と母を離れ、女と結ばれ、ふたりが一体となる」関係でした。家族でなかった人同士が、家族となり、一体となる関係です。今日も続きをお話していきます。

雅歌を開きましたので、今日のポイントをお察ししただけたかと思います。「夫婦は互いを恋い慕う」これが今日の注目点です。雅歌は詩篇や伝道者の書と同じように、人と寄り添い、共感によって語りかける書でありますので、本当はじっくりと味わって読書会をすると良いでしょう。今日は最初の1章だけを読ませていただきました。

私たちは夫婦の当事者である場合と、夫婦を見ている立場である場合とそれぞれですが。自分自身の、あるいは自分の周りの夫婦関係に互いを恋い慕う姿はみられるでしょうか。主に従うクリスチャンたちの集まりで、神の国の生き方を求めて、夫婦が誠実に互いに向き合って、恋い慕うことを大切にしているでしょうか。それが大切なことだという認識がメンバー全員にあるでしょうか。

エデンの園で、アダムとエバは罪を犯し、のろいを受けました。そののろいのひとつはこうでした。《女にはこう言われた。「…あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。」(創3:16)》恋い慕うという行為は、相手もまた恋い慕うことによって返されるのが本来の形でありましたが、支配によって返されることに変わってしまいました。恋い慕うことが支配によって返されるならば、愛の関係は壊れてしまいます。こののろいは直接的には女が受け、夫が支配するとなっていますが、実は逆もまた起こっています。夫が妻を恋い慕っても、妻は支配によって反応することがありますね。うちの夫婦は夫のやり方でいきますか、妻のやり方でいきますか。愛の関係が、争いの関係になってしまうのです。私は恋い慕ったのに、あの人は支配で返した。私は愛したのに、あの人は力で返した。夫婦の歩みが長くなると、ひとつずつ積もっていきます。そしてどこかで諦めてしまうわけです。恋い慕うことはちょっとやめておこう。期待しても愛は返ってこないし、ろくなことにならないから。_ そして、時には恋い慕うことをまるで未熟な事のようにしてしまうかもしれません。そういうことは新婚の頃だけ。「だんだんお互いに成長してきて、その領域を超えて上手くやれるようになってきたんだ」と、まるで恋い慕うことが崇高なことではないように考えたりするかもしれません。でも、それは聖書が教えていることと合っているでしょうか。主が教えてくださった神の国の生き方にふさわしい考え方でしょうか。伝道者の書にはこう書いてあります。《あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。(伝9:9)》愛する妻と生活を楽しむ。愛する夫と生活を楽しむ。これは夫婦の人生の内で他のどんなことよりも価値のある神様からの祝福です。

諦めるということは、私たちのすべきことではないのです。かといって、人の力でどうにもならないことです。私たちにはのろいがあるのですから。しかし、そんな時に私たちにできることがひとつあります。主に訴えること、主に告げること、主が成し遂げてくださることを期待すること、すなわち主に向かって祈ることです。祈るとは、私たちが自分の力ではどうにもできないことを認めること、また同時に絶対に諦めないということです。主に背いて受けたのろいなのですから、主を恐れ、主に立ち返るなら、主がのろいを祝福に変えてくださいます。私たちの罪を代わりに背負い、私たち自身を愛の人に変えてくださいます。

夫婦の役割は、助け合って、ともに主の働きをすることです。主はアダムをエデンの園に置き、そこを耕させ、守らせました。その後に、人には助け手が必要だとおっしゃいました。この文脈でみれば、全然違う場所で何か別々のことをしていては助けていることにならないでしょう。創世記1:28で神様の仕事を任されたのは、「彼ら」と書いてあり、それはアダムとエバのことです。アダムにだけ仕事を与えたのではありません。もし夫婦の役割が、単に生活の費用を出し合って、経費の節約のためか何か、同じ家に住んで、家事を分担し、それぞれに趣味のために時間を使っているだけのものなら、恋い慕う絶対的な必要はないでしょう。しかし、互いに助け合って、主の働きを一緒にする役割を果たそうとするなら、恋い慕うことなしにどうやってそれができるのでしょうか。エデンの園で善悪の知識の木から食べたことを責められたアダムは言いました。《「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創3:12)》「この女がいなければ、怒られずに済んだのに。」「この男がいなければ、こんな人生にならないで済んだのに。」_ 私の骨からの骨、私の肉からの肉と言っていた人たちが、一緒に罪を認め、一緒に主に立ち返っていたなら、話は変わっていたかもしれません。

互いに恋い慕うこと。そこには愛の力があります。それは非常に強い力です。雅歌に出てくる愛し合っている二人は、夫婦か、婚約者か、はっきり書いてありませんが、「花嫁」や「婚礼の日」という言葉が出てきますので、どちらかだと思います。この女性は、自分は日に焼けている(1:6)と言っています。他の人と比べて特別美しいというわけでもないようです。また男性の方も、5:9に《あなたの愛する方は、ほかの親しい者たちより何がまさっているのですか。》とエルサレムの娘たちに陰で言われています。彼らは客観的に言えば普通の人たちです。しかし、お互いの目には平凡ではないのです。彼らはお互いに「茨の中のゆりの花(2:2)」であり、「林の木々の中のりんごの木(2:3)」なのです。8:6-7《封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことができません。奔流もそれを押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして自分の財産をことごとく与えたなら、その人はただの蔑みを受けるだけです。》(最後の部分は分かりにくいかもしれませんが、「いくらお金をかけて愛を奪い取ろうとしても無駄になるだけです。私たちの愛はそれほど強固です」という意味です。)愛の力は強いものです。互いに恋い慕うなら、主の働きをともに担う上で非常に強い力となります。しかし、相手がそれに応えない場合は悲劇です。

人の最初の人間関係であった夫と妻の関係には、神である主の計画があります。すべての人の間で尊ばれるべき関係です。夫婦は互いに恋い慕うように造られた存在であり、聖書はこの夫婦関係に誠実さが求めらることを教えています。主はご自分の民にシナイ山で律法を与えてくださった時に、《わたしは、…あなたの神、【主】である。…姦淫してはならない。(出20:2、14)》と言われました。姦淫とは日本語では色々な意味を含みますが、ここで言われた姦淫とは結婚外の性行為、いわゆる不倫のことです。不倫は相手を裏切って傷つけるから良くないと言われているのではなく、主に対する背きであり、夫婦関係を壊すことは主のみ前に罪なのです。また買春についても、遊女と一体となる行為であり、不倫と同様の罪です(Iコリント6:16)。

箴言にはこう書かれています。《あなた自身の水溜めから水を飲め。流れ出る水を、あなた自身の井戸から。あなたの泉を外に散らし、広場を水路にしてよいものか。それを自分だけのものにせよ。あなたのところにいる他人のものにするな。あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若いときからの妻と喜び楽しめ。愛らしい雌鹿、麗しいかもしか。彼女の乳房がいつもあなたを潤すように。あなたはいつも彼女の愛に酔うがよい。わが子よ。どうしてよその女に夢中になり、見知らぬ女の胸を抱くのか。人の道は【主】の御目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を向けてくださる。悪しき者は自分の咎に捕らえられ、自分の罪の縄に捕まえられる。その人は訓戒を受け入れることなく死に、あまりの愚かさゆえに道から迷い出る。(箴言5:15-23)》妻を夫と入れ替えても同じことです。夫婦関係を外れて性的関係をもつことは愚かなことです。ところがある人たちは、夫や妻以外の人を恋い慕う気持ちを、まるで神が与えた愛であるかのように考えています。「これは神からの運命であり、私は罪を犯していない」と言います(箴30:20)。それは愚かなことです。

「男が父と母を離れ、女と結ばれ、ふたりが一体となる」関係。これは主が造られた素晴らしい関係ですが、一方で、人の罪によって損なわれている関係です。あらゆる夫婦関係には痛みがあります。主が望まれたようにすべてが上手く言っている夫婦はひとつもないと断言してもよいでしょう。しかし、結婚はこの世界の一番最初の人間関係なのですから、世界の基礎にあたる大切な関係です。結婚がすべての人の間で尊ばれるように。主のみ心に心を留めましょう。

お祈りします《わが愛する者よ。私はあなたをファラオの戦車の間にいる雌馬になぞらえよう。飾り輪のあるあなたの頬は美しい。宝石の首飾りがかけられたあなたの首も。私たちは金の飾り輪をあなたのために作ろう。そこに銀をちりばめて。》

天の父なる神様。ご自分の民をねたむほど激しく愛されるお方。私たちの主よ。

あなたは私たちをあなたのかたちに似せてお造りになりました。雅歌やホセア書など、聖書を読むと、あなたが恋い慕うお方であることを知ることができます。夫と妻の関係は互いに恋い慕う関係であり、非常に強い力を発揮し、ともにあなたの働きを行う力強い人たちでした。しかし主よ。私たちの現状をもう一度ご覧になって、私たちをあわれんでください。あなたが意図された夫婦関係は、大なり小なり、あらゆるところで破綻しており、祝福であるはずが、痛み、苦しみの原因となっています。どうか私たちをあわれんで、曲がったものをまっすぐにしてください。

まず教会の内で、結婚が尊ばれるように、私たちをきよめて、神のかたちを回復してください。あなたが与えてくださった夫は林の木々の中のりんごの木のようです。あなたが与えてくださった妻は茨の中のゆりの花のようです。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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