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2024.06.16 主日礼拝「キリストの日の我らの誇り」ピリピ人への手紙2:12-18


昨日やっとRadikoアプリを入れました!これで「福音の光」が聴けます♪
(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。主イエス様の復活を記念する日曜日の朝です。毎週私たちは永遠に心を留め、イエス様の帰りを待ち望んでいます。その日、私たちもまた復活して栄光のからだと新しい住まいをいただくのです。

この1ヶ月、王寺教会では立て続けに2名の姉妹方の凱旋を見送りました。お別れの期間がしっかりと持てた方と、予期しない時にあっという間にゆかれた方と対照的な見送りでありました。別れは、私たちの心を痛める出来事です。繋がりが多ければ多いほど、引き離される痛みは強いことでしょう。聖書には《泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。(伝3:4)》と書いてあります。心が痛いときは悲しむときであり、主が与えてくださった大切な時です。涙も、感情を洗い流すために主が与えてくださった賜物です。イエス様も涙を流されました。その時を大切にしましょう。しばらくすると笑う時がやってきます。

私たちは別れを悲しみますが、底抜けに悲嘆に暮れることはありません。(だからこそ「悲しむ時には十分に悲しみましょう」と言えます。)ある病棟の看護師の方が、黄疸が出て終末期に入っている患者さんでも、クリスチャンは違う反応をしているとおっしゃっていました。クリスチャンは「私はもうすぐこの人生を走り終えてイエス様のところに行くんだ」と、なんと死に向かっていく中で前向きなことを語るそうです。別れの悲しみの底にいるうちに、私たちは気が付くことがあります。「私は別れでつらいけれども、召されていったあの人にとっては、今どんな状況なんだろうか」と。ついに人生の荒波をくぐり抜け、シャロームの(すべてが完全である)天国に移されたのです。そして、残された私たちも、主が私たちの人生をお世話してくださるから大丈夫だと思い出してきます。信仰と希望と愛はいつも残ります。

聖書をお開きください。ピリピ人への手紙2:12-18(396ページ)【聖書朗読】

今日はヨセフ会のみなさんが特別讃美をしてくださいました。主に感謝いたします。

いつも月に一度の例会はみなさんに主導していただいて、牧師が旗を振らないようにと、私の場合はさせていただいております。前月のヨセフ会の様子を聞かせていただきました。先月は「私の終活」というテーマで証や分かち合いがもたれたそうです。私たち王寺教会の場合は、牧師とみなさんとで若干の年齢差があり、おそらく私が残される側になる可能性が高いと思います。ですから、なかなか私から「終活」を言い出すのは、悲しくなってしまいます。大事なことと知っていながらも難しいことです。やはり例会の交わりだからこそ、自由に語り合われたのかなと思うことです。

図らずも、その例会の後に2度の告別式が執り行われました。聖書には《死ぬ日は生まれる日にまさる。祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。(伝7:1-2)》とも書いてあります。教会に起こっている出来事を考えますと、主もまた私たちに終活に関することを語りかけておられるのではないかと感じています。

そのようなことで、みなさんに比べ私には世を渡る知恵があまりないのですけれども、聖書の解き明かしができますので、神である主は聖書を通して何を語っておられるのか、私が教えるというよりも、私も共に教えられたいと思います。

今日、開きました箇所はパウロがピリピの町のクリスチャンたちに向けて書いた手紙です。私たちは聖書を読むとき、受け取る側の立場で読むことが多いと思います。しかし、今日は手紙を送る側、パウロの立場でこの箇所を読んでみたいと思います。

パウロは「キリストの日」の話をしています。キリストの日とは、天に昇っていかれたイエス様が帰ってこられて、すべての人を裁かれる日のことです。人はアダムの時代に、神である主に背いて善悪の知識の木から取って食べたとき以来、神の判断、神の裁きを無視してきました。何が良いことで何が悪いことかは自分で決める、我々は神を知らない、あるいは神を扉の向こう側、囲いの中に押し込めて、人間の生活には入ってくるなと言ってきました。その結果、人の歴史は常にバベルの塔に向かっていったのです。しかし人の心に図ることはみな、いつも悪に傾いていきました。人の力、人の計画、人の栄光によって目に見える偉大なものを創り上げ、ところが偉大だと思われていたものが壊れてしまって、実は虚しいものであったと明らかになるということを繰り返してきました。かつてローマ帝国という巨大な帝国がパックス・ロマーナと呼ばれる平和の時代を築いてきたことを、みなさん聞いておられるでしょう。そんな偉大な帝国でしたが、最後は皇帝の地位争いが起こって、滅びていってしまいました。人と人の争い。人の罪によって台無しになってしまいました。しかし、キリストの日とは何でしょうか。イエス様が王として帰ってこられて、すべての国々の王の王となられ、主権をもって裁きを取り戻される日です。その日、あらゆるバベルの塔に象徴される人の偉業は儚く崩れ去り、その偉業を達成するために犠牲にされていた人々の叫びが聞かれます。イエス様の十字架の贖いによって罪をゆるされ、ただ主を呼び求める者たちは、ついに栄光を受けます。黙示録の7章には栄光を受ける人たちの様子がこのように描かれています。《この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。…神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。(黙7:14-17)》

そのキリストの日に、パウロが「誇れる」と言ったのはどんなことでしょうか。12節《こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。》パウロの視点から読んでみてください。愛する者たち(ピリピ教会の人たち)が主に従順となるなら、パウロはキリストの日に誇ることができると言っています。これこそ私たちクリスチャンの誇りです。たとえどんな偉業が地上であったとしても、それは虚しいものです。引退すれば、苦労していない人がそれを取っていき、人々の記憶からどんな業績もあっという間に消えていきます。いま町中に空き家が増え続けています。その中には、親が子どもたちに代々使ってもらえるように、立派に建てた家もあるそうです。でも、子どもたちは都会に出ていき、マンションの小さな部屋をローンで買って、住んでいて、実家は引き継がないと言っている。そんなこともあるそうです。私たちは最後に何を誇れるでしょうか。後の続く人たちが、イエス様に聞き従って歩むことではないでしょうか。

主の日に、私たちはすべてのものが滅ぼされる様子を見ます。しかし、そこにはノアの箱舟の時のように、残される人たちがいます。イエス様に従う人たちです。宝があるところに私たちの心がある(マタイ6:21)と言いますが、あなたの宝はどちらにあるでしょうか。バベルの塔にあるでしょうか、ノアの箱舟にあるでしょうか。キリストの日に失望ではなく、誇りを感じる人は幸いです。

さらに、パウロは《注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。》と言うのです。当時、クリスチャンたちはユダヤ人やローマ帝国から迫害されていました。イエス様の弟子であったヤコブはヘロデ王によって殺されてしまいました。パウロが注ぎのささげ物と言っているのは、血を流して殉教することです。私の人生の最後が殺されて終わりであっても、私は喜びますと言ったのです。多くの人々は、人生の終わり方を気にしています。穏やかに眠っているうちに天国に行きたいとか、誰々に見送ってほしいとか、あるいは葬儀にどれだけの人が集まるか、弔電が何通来るかなど。色んなことを美しく、穏やかに、悲壮感なく、喜ばれて、明るく終われるようにと願っています。しかし、パウロが言っていることは、それとは全然違うことですね。殺されるような最後になっても《私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。》と言うのです。どうして殺されて終わることを喜べるのでしょうか。そのような終わり方をして、葬儀の日に人々からなんと言われるでしょうか。人々は自分も仲間だと思われることを怖がって、葬儀にも来ないかもしれないですよね。

どうして殺されて終わることを喜べるのでしょうか。_ それはキリストの日に、子羊の血で衣を白くした人々が患難をくぐり抜け、ついにイエス様によって救われる様子を見ることになるからです。その日になれば、人生の締めくくり方がどうであったかは重要ではなくなります。救われる一人ひとりが宝であり、彼らのために労苦してきたことが無駄でなかったと知るからです。

主に従う人たちはどのような歩みをする人たちでしょうか。彼らは、神のみこころに自由に生きる人たちです。主が与えてくださるのは志であって、1から10の細かい指示ではありません。どんな具体的な方法で神のみこころを行っていくのかは自由があります。また彼らは不平を言わず、疑わずに行う人たちです。不平とは、本人に聞こえる場所で不満を横の人に愚痴ることです。不平を言わずとは、主とコミュニケーションを取るということ。たとえ訴えであっても、不平にしないで、ちゃんと主に訴える人はコミュニケーションを取っています。主に従う人たちは、イエス様といつも会話して、理解を越えたことも時々ありますが、主の前に真実にみこころを行います。また彼らは非難されるところがなく、傷のない神の子どもです。人間からは言いたい放題言われることもあるかもしれません。でも主は彼らに傷を見つけることがありません。そして主に従う人たちは、いのちのことばをしっかり握り、世の光として輝いています。

私たちが関わっている人たちに、そのような特徴がみられるでしょうか。その人たちは主に従っているでしょうか。彼らが主に従うように労苦しましょう。自分が模範となることはもちろんですが、教会の次の世代の人たちが主イエス様に従って歩むように、あらゆる労苦をおしまないで、祈り、教え、導き、備え、励ましていこうではありませんか。

教会が週に1度、集められることは、多くの意味があると思います。そして、その一つは、この信仰継承にあると思います。

「私の終活」その中には色々な項目があります。一つ一つ大切なことです。その項目に聖書を通して主が教えてくださっている終活をしっかり加えましょう。「私の次に続いている人たちが主イエス様に従うように、私が主に召される日まで労苦すること」この項目を加えましょう。

お祈りします《そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。》

天の父なる神様。励ましと愛と交わりを与えてくださる主よ。

私たちもあなたの思い、あなたの愛の心を持ちたいと切に願っています。イエス様は神のみ姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。イエス様がそこまでしてくださったのは、私たちが「イエス・キリストは主です」と告白するようになるためでした。

主よ。私たちも、パウロがそうしたように、イエス様に従っていきます。教会で関わるあらゆる人たちが、また私たちの家族・友人・知人が「イエス・キリストは主です」と告白して主に従っていけるように、あなたの道を進んでまいります。イエス様の道は十字架の死にまで従う道でした。私たちの最後も御手にゆだねます。ただひたすらに、キリストの日に誇ることができるように願っています。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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