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2024.6.23 主日礼拝「これほどの信仰を見たことがない」ルカの福音書7:1-10

 




















会堂の壁飾りが夏バージョンになりました。暑い夏、喉の渇きをいやす水、神の与える水、永遠の水とは‥がテーマです。
今日の礼拝で神様からの真実なメッセージが届いて、今週も元気に生きる力が与えられました。
それにしても、配信のトラブルが続き、ご迷惑をおかけしています💦(リベカ)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。神である三位一体の主を礼拝する集いにようこそお集まりくださいました。兄弟姉妹が礼拝のために集まる場所はどこでも、主が私たちに会ってくださる場所です。あの山でもこの山でもない、神の宮であるキリストのからだ、すなわち教会の集いに主は臨在してくださいます。

この朝も、まず主を恐れ、主にひれ伏して、仕える時としましょう。マラキ書はリバイバルを求める主のことばです。このような節があります。《あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。──万軍の【主】は言われる。」だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。(マラキ3:1-2)》当時のユダヤ人たちは、神殿に来て、儀式を行っていたのに、主がそこに臨在しておられることを忘れていました。突然、主が神殿に来られたなら、彼らは儀式だけは行っていたけれども主を礼拝していなかったので、誰も立っていることができない状態だったのです。彼らのささげていたものは、捨てても良いような悪いものばかりでした。「どうぜ誰も受け取っていない、ただ燃やしているだけじゃないか。」霊の目が閉じ、全然、主の姿が見えていなかったのです。私たちはこの姿を見て、彼らを反面教師としなければなりません。イエス様が来てくださって目の前に現れた時に、「あ、ちょっと、ごめんなさい。いま行きますから、少々お待ちください」と慌てて言うか、その瞬間に喜びの歓声(讃美)が起こり、「主よ、ずっと待っていました」と言うか。今この瞬間、私たちの状態はどうでしょうか。

旧約聖書から主との関係について学んできました。それら一つひとつの項目を忘れないで、また聞くだけにならないで、応答していきましょう。今日も主とお会いし、もう一歩、関係を深めことができるように求めましょう。

聖書をお開きください。ルカの福音書7:1-10(123ページ)【聖書朗読】

今日の箇所でイエス様と出会った人は百人隊長です。百人隊長とはローマ帝国の兵隊の隊長です。ローマ帝国は際立った軍事力で国内外の平和を保ったことで有名です。軍隊はしっかりと組織されていました。軍団の中に大隊があり、大隊の中に中隊があり、中隊の中に百人隊がありました。百人隊は80~100人ほどの兵士をもつ組織で、戦争が起これば戦場に出ていって戦い、戦争がない時には訓練をして過ごしました。軍隊には規律が重要です。百人隊を治める百人隊長は、隊員の規律を保つために、罰を加える権限もありました。一般の兵隊は家族を置いて、兵役につくわけですが、百人隊長は駐屯地に家を構え、家族を住まわせることが認められていました。そういうわけで、彼は現場の兵士と一番近いところにいる隊長です。ユダヤ地方において余所から来た人ですが、家を構えて長年住んでいる居住者でした。

ユダヤ人の側から見ると、ユダヤ人ではない人、すなわち異邦人です。神の民ではない人でした。しかし、彼はユダヤ人の長老たちと親しかったようです。長老が言うところによると、この百人隊長は自費でユダヤ人の会堂を建ててあげたようです。会堂とは、ユダヤ人が主を礼拝するための場所です。みんさんがユダヤ人の礼拝所と聞いて、最初に思い出すのはエルサレム神殿だと思います。エルサレム神殿でできる礼拝は、いけにえをささげ、祈ることです。そこには祭司がいます。しかし、イスラエル人たちは一時期、バビロン捕囚によって神殿を失っていました。その時にバビロン帝国の各地で、礼拝所として建てたのが会堂の起源です。会堂での礼拝は、律法を読んで、学び、祈ることです。そこには教師(ラビ)がいます。そういうわけで、イエス様の時代には神殿が再建されていましたので、2つの礼拝場所がありました。エルサレム神殿と各地の会堂です。

ところで、神殿は国のものであり、会堂は自分たちの地域のものという意識がありました。会堂では、寺子屋や結婚式も開かれましたので、地域の人たちにとって大切なものだったわけです。さて、この段階で、この百人隊長がどのような人か計るのは難しいことです。確かに、当時のユダヤ地方には、異邦人でありながら神を恐れる人がいました。(新約聖書で「神を恐れる人」と呼ばれている人たち。例;使徒13:16)彼らは、旧約聖書に出てくるエリコのラハブや、モアブ人ルツのような人たちで、アブラハムの直系子孫ではないけれども、神である主を礼拝し、聖書に従っていた人たちのことです。彼らは律法を学び、また神殿に来て、異邦人の庭で祈って、礼拝しました。今回の百人隊長は、神を恐れる思いで、礼拝所を建てたのでしょうか。それとも、地元住民の好意を得るために会堂を建ててあげたのでしょうか。

実際、彼が会堂を建ててあげたことで、地域のユダヤ人長老たちから好意を持たれていた様子が伺えます。異邦人であった彼は、イエス様と連絡を取るパイプを持っていませんでしたが、ユダヤ人の長老たちは彼の伝言を進んで伝えに来ました。当時は熱心党と言って、ローマ人を嫌って徹底抗戦していたユダヤ人もいた時代です。しかし、この長老たちは、百人隊長の抱える問題を自分の事のように熱心に訴え、お願いしました。《「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました。」(4-5節)》駐屯している兵隊が、地域住民に好意を持たれるかどうかは、なかなか複雑な事情があるものです。このように人々から素晴らしいと言われている人を、みなさんは身近にご存知でしょうか。

ところが、イエス様を見ると、この時点で、長老たちの言葉に興奮している様子は見られません。確かに百人隊長に会いに行ってはいるのですが、特にコメントはないという感じです。長老たちの言葉を、もう一度、良く読んでみましょう。彼らはどんなことで、その百人隊長の功績をたたえていたのでしょうか。彼らはこう言いました。《この人は…私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました。》「私たちを愛し、私たちのために建ててくれました」_ あれ?会堂って、そもそも誰の場所でしたっけ。会堂は地域のユダヤ人たちに愛されていた場所でした。子ども時代には友達と学び、大人になっても毎週、仲間たちと顔を合わせ、また結婚式を祝う。地域に愛される公民館のような場所に見えたでしょう。でも、子どもたちが会堂で学んでいたのは、律法に次のように書いてあるからでした。《私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。(申6:6-7)》また結婚式が行われるのは、神である主が《男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる(創2:24)》と定められたからです。会堂は主が礼拝される場所であり、主が教えてくださった掟を行う場所です。そこは主のための場所です。しかし、長老たちの言葉からは、それが感じられません。「会堂は私たちの場所だ。そんな大切な場所を百人隊長は私財をなげうって与えてくれた」という感じが伝わってきますよね。イエス様はその態度をこの時すぐに咎めませんでしたけれども、コメントする気力も湧かないような失望した姿を想像することができます。

当時のユダヤに主を待ち望んでいた人はほとんどいませんでした。マラキ書には預言がありました。《「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。──万軍の【主】は言われる」(マラキ3:1)》主の前に道を備える使いとは、バプテスマのヨハネのことです。突然、神殿に来られる主とはイエス様のことです。こうして主が来られたのに、神の民は主イエス様を待ち望んでいませんでした。ヨハネの福音書にはこう書かれています。《すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。(ヨハネ1:9-11)》これが現実でした。それでも主イエス様は「悲しい、つらい、やってられない」等と一切おっしゃらないで、すべての人が救われることを願って、十字架に向かっていかれたのです。

そのような中で、イエス様が驚くことが起こりました。なんとこの百人隊長は本当に神を恐れる人であったことが分かったのです。地域住民に好かれるために会堂を建ててあげたのではなくて、神である主が礼拝される場所を、主のために建てた人だったようです。彼はイエス様を主として接しました。律法(旧約聖書)によると、主とは世界と人を創造された唯一の神、ヤハウェ、「わたしはある」と呼ばれるお方です。彼は言いました。「主に近づくのはふさわしいことではない。ただ主のおことばだけで、病は癒やされる。イエス様は権威をもっておられる方だ」と。主を恐れている人の言葉です。そこに主がおられると分かっている人の言葉です。

現代の教会でも、イエス様は同じ状況を見ておられると思います。実際に何人の人が、主を恐れ、主を待ち望んでいるでしょうか。私たちは胸に手を当てて考えてみなければなりません。一方で、神の民としては価値が低いと人々にみなされていた異邦人に、神である主を恐れる人がいました。

王寺教会は開設から60年を越えましたが、歴史ができてくると、人は誰かの功績を見てほめたり、けなしたりします。どれだけ献金したとか、どれだけ働いたとか、会堂建設に貢献したとか、重要な役職についたとか。「あの人はこれほどのことをしてくれたから資格がある」と互いに言うのです。そして、自分自身を見て、私はそんなにできていないから資格がない人間だと思ったりもします。しかし、主イエス様は百人隊長が会堂を建ててくれたと聞いても、特に反応されませんでした。彼が主を待ち望んでいて、イエス様が主であることを受け入れ、主を畏れ敬い、主に救いを求めた時、イエス様は驚き、感動されました。

あなたが教会の中で、たとえどんなに優先順位の低い人であっても、そのようなことは人の評価によるのであって、イエス様には関係がありません。たとえ今日初めて教会に来たのであっても、神である主を待ち望んで、イエス様を信じて、迎え入れ、救いを求めるなら、主はあなたを喜び、力ある業をしてくださいます。

お祈りします《イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」》

天の父なる神様。私たちの神、主よ。上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と恵みを守られる方です。

それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」と約束してくださったイエス様。あなたの恵みは私たちに十分です。

主よ。私たちの集いは、あなたのみ名によるものです。私たちはあなたを恐れ、あなたを賛美します。どんなに小さな者も、あなたは目に留めてくださるお方です。あなたの深い恵みに感謝いたします。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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