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2024.06.09 主日礼拝「主に感謝する」詩篇30篇

 


菖蒲の花のように神さまを見上げて歩みましょう

(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。今日もみなさまをお迎えすることができ感謝です。平日の6日間は私たちが主の山に登ることを期待し、飢え渇く日々とも表現できるでしょう。都上りの歌と呼ばれる、主の日を待ち望み、主の山を見上げる歌が詩篇には沢山あります。この日を共に喜びましょう。

今日は午後には役員会が予定されています。いつも役員グループのためにお祈りいただきありがとうございます。今年から役員研修として、Eldership and the Mission of God(直訳:長老と神の宣教)という本を学んでいます。みなさんにも学んでいる内容を一部共有してお配りさせていただいています。詳しく説明する時間や労力に限界があり、みなさまにはお配りしているだけなので申し訳なく思っていますが、お裾分けの気持ちでそうしています。今の王寺教会に限って言いますならば、霊的な牧会は牧師(専門職)の特別な働きと思われがちかなと感じます。しかし、それを読んでいただきますと、聖書に基づいて考えると、実は牧師だけではなく、牧師も含めた長老グループによって牧会がなされるのが、イエス様の御心だと分かっていただけると思います。牧師の役割は、もちろん牧会にも関わっていくのですけれども、それ以上に、長老候補を育て、長老を任命することに注力しなければなりません(テトス1:5)。長老は監督し、教え、備え、模範となることが求められています。これは新約聖書に書いてあることであって、すなわちイエス様がご自分の教会をどのように建てあげようとしておられるかの計画に沿うことです。

教会は会社ではなく、イエス様の弟子の群れであることを今日も思い出しましょう。主イエス様の思い描く通りに進んでいくことも、私たちと主とのコミュニケーションです。引き続きお祈りいただき、御言葉によって理解し、主の計画を受け止めていただきたいと願っております。

聖書をお開きください。詩篇30篇(959ページ)【聖書朗読】

「神である主とどのような関係をもって、人生を歩んでいくのか」というテーマで旧約聖書から共に教えられてきました。今日で一区切りとなり、次回(来月)から「他の人とどのような関係をもって歩むか」という話に入っていこうと思っています。

今は縦の話、主と私たちの関係です。今日は「主に感謝する」ことを学びます。これまでこのテーマで13回お話しましたので、今日で14個目の項目です。振り返ってみますと、①主に従う、②主を恐れる、③主を信頼する、④この山で主を礼拝する、⑤主に捧げる、⑥主と共に寄留する、⑦主を讃美する、⑧主とコミュニケーションをとる、⑨主に訴える、⑩主の行動を求める、⑪主の真実を確信する、⑫主と人の間で執り成す、⑬主に立ち返って叫ぶ、そして⑭主に感謝する、です。

この世界をお造りになり、私たち一人ひとりに息を吹き込んでくださった神である主は、ただひとりのお方です。主は特定のお方であり、個性があります。人の歴史に介入され、私たちと関わってこられたお方です。その意味を込めて、アブラハム、イサク、ヤコブの神と呼ばれています。そのお方と私たちは出会い、その方に救われました。今はその方の弟子となって人生を歩んでいます。ですから、私たちは主とコミュニケーションをとって共に歩んでいく時に、主がどんな個性をもっておられるお方か、どんな過去があるのか知ることはとても大切なことなのです。主はそのために聖書を与えてくださいました。ここには主がご自分の民、古代イスラエルと初代教会にどのように関わってこられたかが記されています。かつてあったことは、今も真理であり、私たちと主との関係においても同様に起こる事柄です。

私たちは聖書を離れて、自分の空想にしたがい、「神様はこんなお方だろう」と想像しないように気をつけなければなりません。クリスチャンであっても、主を誤解していることが意外とあるのです。「あの時、あの出来事の中で主はこのようになさったのだから、同じように、今この出来事に対してこのように考えておられる、このようにしてくださっている、このように反応される」と御言葉に照らし合わせることが大切です。

さて、主と私たちのコミュニケーションにおいて大切な最後の項目は「感謝」です。しばらく前に、主の真実を確信するという話をいたしました。主は必ず契約を守ってくださるお方なので、私たちが政治家に陳情に行くときのように、主に事情をお伝えすることができたら、その時点で私たちは安心することができるという話でした。今日の「感謝」は、もう少し進んだ先にある事柄です。すなわち、主が祈りを聞いてくださって、確かに事態が動いた、物事が解決した、今日の箇所でいえば《嘆きを踊りに変えて》くださった時の、私たちの主への反応が、感謝です。

最近、ニュースを見ていますと、社会的孤立ということが社会問題になっていると報道されています。特に男性に多いそうです。学校などでは友達がいた人たちも、いつの間にか他の人と疎遠になってしまって、気がついたら孤立してしまっているそうです。これは人と人の関係の話ですけれども、実は友人関係には日々のメンテナンスが必要であって、それを怠っていると、あっという間に繋がりが薄れて途切れてしまうと言われています。「そう言えばあの人と最後に会話したのはいつだったか。1年前?5年前?あれ、ついこの間と思っていたのによく考えたら10年前だ。」ということがあったりするのです。このようにコミュニケーションというのは、1往復で終わり、2往復で終わりということではなく、継続してキャッチボールが続いていくのが自然であり、どこかで途切れてしまうと関係が消えていってしまうのです。

私たちと主との関係はどうでしょうか。主とのコミュニケーションはどうでしょうか。そう考えますと、放蕩息子のたとえ話は心を打ちますね。財産を受け取って、家を出ていき、全くの音信不通で放蕩していた息子を待ち続け、彼が帰ってきた時、まだ遠くにいたのに彼を見つけて駆け寄って、迎え入れたのですから(ルカ15:11-24)。ですから、どんな状況になっても主は関係を回復してくださいます。とはいえ、だから都合の良いときだけ関係回復しようというのは良くないことです。イエス様に癒やされた10人のツァラアトにおかされた人たちを思い出しましょう。彼らはイエス様にあわれみを求め、10人とも癒やされました。そのうちの一人だけが帰ってきて、イエス様に感謝し、礼拝したのです(ルカ17:11-19)。感謝は、主と私たちとの関係において大切なコミュニケーションです。

主が祈りに答え、確かに嘆きを踊りに変えてくださったなら、感謝しましょう。4節には《主にある敬虔な者たちよ【主】をほめ歌え。主の聖なる御名に感謝せよ。》とあります。感謝はほめ歌と共に表されてきました。主は感謝の讃美を喜んでくださるお方です。主を讃美し、音楽によってほめたたえる時、感謝の心に満ちて歌うことはよくあることだと思います。

また感謝はささげものによって表されてきました。人との関係においても、ありがとうと言うだけではなく、何か一緒に渡して気持ちを表したいなと思うことってありますよね。私の感謝を喜んでもらいたいと思う気持ちがあるからです。そう思うと、人との関係においてあるようなことが、主との関係においてもあるわけで、主にも心があるんだなと思いますね。まあ、人間の方が神のかたちに造られたのであって、主に心があるから、私たちも心があるという順序なのです。でも、何だか神様って神棚の扉の中に入っているような遠いイメージがありがちですから、主に心があって、人との交流があるように、主と私たちも日々の心通うやり取りをしているのだということは、意外と発見ではないでしょうか。やはり感謝をするなら、私の感謝を喜んでもらえる形で表したいではないですか。

ささげものを喜ばないと言われたのは、悔い改めの話です。悔い改めにはささげものではなく砕かれた心を望まれる主です。でも、感謝をささげものと共に表すことは喜んでくださいます。詩篇26篇にはこのような節があります。《【主】よ 私はあなたの祭壇の周りを歩きます。感謝の声を響き渡らせて 語り告げます。あなたの奇しいみわざのすべてを。(詩篇26:6-7)》祭壇はささげものを置く場所です。ささげものを火で焼いて、煙と香りを天に届け、その周りを歩き回って、感謝している様子が書かれています。

主はまた告白を喜ばれるお方です。聖書を読むと、罪も告白、信仰も告白、また感謝も告白されています。告白は具体的で、物語的で、個人的なものです。これは人との関係においてはあまり一般的でないかもしれません。例えばモーセは紅海を渡って敵から救われた後、主に歌を歌って感謝しました(出15)。その時、《主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれた。選り抜きの補佐官たちは葦の海に沈んだ。(出15:4)》と具体的に述べています。これが告白です。事実を具体的に、物語的に言い表すということです。

またそれは公の場でなされるのです。詩篇111篇の出だしはこうです。《ハレルヤ。私は心を尽くして【主】に感謝をささげよう。直ぐな人の交わり 主の会衆において。》ですから、感謝の告白を公の場でささげるのです。先日、告別式がありました。追憶の言葉が語られていましたが、その中で召された姉が会堂建設のために犠牲を払ってくださったことを感謝し、公の場で感謝が述べられるという場面がありました。そのように、主への感謝は、密室で伝えて終わりということではなく、公の場で表されるべきものです。聖書にはその例が沢山あります。私たちは、お祈りが聞かれたとき、前に出てきて報告する時がありますね。その時、ついつい「みなさん、お祈りしてくださってありがとうございました」で終わってしまっていませんか。それは確かに大切な横(人と人)のコミュニケーションですが、縦(主と私)のコミュニケーションを忘れないようにしましょう。「これこれのことがありました。祈りが聞かれて解決しました。イエス様、ありがとうございました。」と公の場で感謝を述べてください。主は目に見えないお方ですから、どっちに向いて言ったら良いのか分かりませんけれども、これは大切なコミュニケーションなのです。

なぜ公の場で感謝の告白がされることが大切かといいますと、それが証言となるからです。感謝の告白は、見方を変えれば、主の真実を証言しているのと同じことです。主は御言葉の約束の通りにしてくださる真実なお方です。祈りに答えがあって、私の問題が解決したという感謝の告白は、主が真実なお方であることを力強く証します。そしてそれは、「主が私にしてくださったことは私にだけ重要なのではありません。あなたにとっても真実ですよ」というメッセージになります。ですから聖書でそうされているように、私たちも公の場で主に感謝の告白をしましょう。

今日の詩篇30篇をよく見ると、主がダビデを救い出してくださって、ダビデが感謝している様子がありますが、実はそれと同時に、ダビデはすでに次の困難に直面していることがわかります。《聞いてください【主】よ。私をあわれんでください【主】よ。私の助けとなってください。》と訴えています。このように主とのコミュニケーションはいつまでも継続して続いていくことです。讃美、訴え、求め、感謝はいつも主に向けられ、主はそれらにいつも応じてくださっています。このような関係をもって、神である主と人生を歩んでいくのです。

お祈りします《あなたは私のために 嘆きを踊りに変えてくださいました。私の粗布を解き 喜びをまとわせてくださいました。私のたましいが あなたをほめ歌い 押し黙ることがないために。私の神【主】よ 私はとこしえまでも あなたに感謝します。》

天の父なる神様。アブラハムに約束を与え、その通りにしてくださったお方。イスラエルの家をエジプトから救い出されたお方。荒野で食物と水を与え、養われたお方。実り豊かな地に伴い、その良い実を食べさせてくださったお方。背きののろいを受けた民を赦し、元通りにし、宮を建て直してくださったお方。私たちの主よ。あなたがしてくださったすべてのことに心から感謝いたします。

あなたの救いはいつもあなたの義によってなされました。私たちにとってすべて恵みでした。あなたのような神がほかにあるでしょうか。私たちの舌は、あなたの義を高らかに歌います。主よ。私たちの唇を開いてください。私たちの口はあなたの誉れを告げ知らせます。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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