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2024.5.26入門礼拝「いのちを与える人生」マタイの福音書20:20-28


メッセージでは、イエス様の人生は、自らのいのちを人のためにささげるためだったともう一度確認させていただきました。そのイエス様に従う私たちクリスチャンは、目の前の世の価値感でなく、永遠のいのちという神の栄光を見る目がいつも与えられるようにと切に祈らされました。(レベッカ)
 [礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。今日もようこそお集まりくださいました。兄弟姉妹と共に、主イエス様が生きておられることを証しする時をこうして与えられていることを感謝いたします。

主イエス様は最後の晩餐の時、パンとぶどう酒を弟子たちに分け、それが十字架の贖いを象徴していることを教えられた後、《わたしを覚えて、これを行いなさい。(Iコリント11:24)》と言われました。それで、今でも私たちは、主イエス様が帰ってこられるまで主の食卓にあずかり、主の死を告げ知らせています。日曜日の礼拝にはそのような意味が含まれています。

最後の晩餐の日、イエス様は弟子に会食の準備をするようにと命じられました。ペテロとヨハネが出かけていきました。みなさんの中にも会食の幹事になって、いろいろな準備をしたことがあるかたもおられるでしょう。レストランを探して予約をとって、どんなメニューがいいか、好みやアレルギーを調べて決め、お金の計算をして会費を知らせ、集金して支払いをする。色々とすることがあります。ところが、その日、ペテロとヨハネは不思議な経験をしました。イエス様は彼らにこう言われました。《「都に入りなさい。すると、水がめを運んでいる人に出会います。その人について行きなさい。そして、彼が入って行く家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする、わたしの客間はどこかと先生が言っております』と言いなさい。すると、その主人自ら、席が整えられて用意のできた二階の大広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」》ペテロとヨハネがが出かけて行って都に入ると、イエス様が彼らに言われたとおりでした。彼らは会食の用意のために出かけたのですが、準備はすでに整っていたのです。

主イエス様が私たちのために全てを準備してくださる。これは聖書が伝える良い知らせのひとつです。そしてそれは、イエス様に従って生きる人々の人生の原則です。自分が欲しいものをかき集める空しい人生は終わり、主が用意してくださったものを感謝し、満ち足りる人生があります。

聖書をお開きください。マタイの福音書20:20-28(41ページ)【聖書朗読】

今日の箇所でイエス様と出会ったのはゼベダイの息子たちとその母です。この箇所ではゼベダイの息子が誰で、その母がどんな人か書いてありませんが、他のいくつかの箇所から彼らがどんな人かわかります。ゼベダイの息子たちとは、イエス様の12弟子であったヤコブとヨハネ(マタイ4:21、10:2)のことです。彼らの母はサロメという名前です(マルコ15:40、マタイ27:6)。サロメはシャローム(Shalom)をもじった名前で、当時はよくある名前でした。バプテスマのヨハネを殺したヘロデ王の娘もサロメという名前でしたが、彼女とは違います。このヤコブとヨハネの母サロメは、イエス様の母マリヤの姉(妹)でした(ヨハネ19:25)。ですから、イエス様からするとサロメは叔母です。叔母とその息子たちがやってきたということです。

この時、ヤコブとヨハネとサロメが一緒にイエス様のところに来たのですが、どうやらヤコブたちが母に同行を求めたようです。話の内容は、「ヤコブとヨハネがイエス様の王国で、王座の右と左に座れるように約束してください」ということでした。右と左に座るとは、つまり王様の次に権力がある人に任命してくださいということです。当時イエス様の弟子たちは、イエス様がユダヤ人の救世主としてローマ帝国を打倒し、ユダヤ人の王国を建設してくださると信じていましたので、イエス様が間もなく王様になると思っていたのです。それで王様の次の権力者に任命してくださいと願ったのでした。このようなお願いをする時に、いとこであるヤコブとヨハネがイエス様に頼むより、叔母が出てきて頼むほうが良いだろうということだったのでしょうね。イエス様はそれを見抜いて、サロメに返事をしないで、ヤコブたちに返事をしています。そしてヤコブたちは「できます」とイエス様に返答して会話が成り立っています。情景を想像してみてください。このようなやり取りは欧米の感覚でいうとなかなか理解が難しいようです。サロメと話していたのに、どうして急にヤコブたちと話し始めて、ヤコブたちも戸惑わないで会話を続けているのかということで、ハテナ、はてなのようですけれども、アジア人はこういうやり取りを日常でもやることがあって、様子が良く分かるのではないでしょうか。

このように母の権威(叔母という権威)を使いながらイエス様の約束を引きだそうとするヤコブとヨハネについて、みなさんはどのように思われますか。サロメは助けてほしいと息子たちに話を持ちかけられた時、どう思ったのでしょうか。実際にイエス様にひれ伏してお願いする姿、言ってみればおべっかを使う姿を見て、どのように思われますか。そして、その話を知った他の弟子たちは腹を立てたと書いてあります。他の弟子たちも同じようにお願いしたかったということですね。コネを使うなんて卑怯なと思ったのでしょう。出世レースで宣戦布告されたと感じたのではないでしょうか。

ヤコブとヨハネ、また母サロメ、そして他の弟子たちの様子を見て、どのように思われますか。彼らの願いの根底にあることは何でしょうか。「私たちはイエス様の直属の弟子に選ばれたぞ。人生が上向いてきた。目の前に一世一代のチャンスがある。何としてもこれを掴まなくては!」サロメにしても「もし息子たちが良い地位に着いたら、私の人生はどんなに良くなるだろうか」と。今で言うなら、お受験ママみたいなことでしょうね。他の人より先に行動して、必ず勝たなければならない。ですから、何でもやってやるぞという意気込みをもって「できます(22節)」とイエス様に答えたのです。

ところが、実際、イエス様は何を言っておられたのでしょうか。ヤコブたちはイエス様が言っていることを理解していません。何かよくわからないけど、合格の条件が示されたので、「できます」と即答しました。しかしイエス様が言っておられた杯とは何か分かっていませんでした。イエス様がおっしゃった杯とは十字架のことです。十字架とはローマ帝国の死刑ですが、イエス様はこの後、十字架にかけられて殺されてしまいました。そのことをあらかじめ18-19節で教えておられたのです。《「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」》しかし、ヤコブはこの話と今の話がつながっているとは思わなかったのでした。

イエス様が殺されたと言っても、ただ死んだだけではありません。イエス様はいのちを与えるために、ご自分のいのちを捨てたのです。誰かのいのちを助けるために、死ぬことを覚悟して、自ら自分のいのちを差し出した人の話を聞いたことがありますか。イエス様はそのようなお方でした。イエス様の人生はいのちを与えるための人生でした。誰にいのちを与えたのですか。今、この話を聞いているあなたにいのちを与えたと聖書は言っています。その永遠のいのちを受け取るかどうかは、あなた自身の信仰によります。

イエス様の生き方は、ヤコブたちの生き方と全く違います。人にいのちを与えるために自ら苦しみを選んでいく人生です。イエス様は別の時にこのように言われました。《自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。(ルカ9:24-25)》ヤコブたちはまさに自分の人生を良くしよう、自分のいのちを救おうと一生懸命になっていました。サロメもそうです。この家族の境遇を素晴らしいものに変えたいと一生懸命でした。同じような行動をしておられる方はおられませんか。でも、そんなことに一生懸命になってはいけません。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失うからです。もしかすると全世界を手に入れるかもしれませんが、その代わりに自分自身を失い、損じることになります。むしろ、人々から横柄な態度を受け、権力をふるわれ、仕える者になり、いのちを与えることを自ら選ぶことができる人生は幸いなのです。そのような強さを生まれながらに持っている人はいません。それは主イエス様の生き方です。でも、ヤコブとヨハネがイエス様に言われたように、イエス様を信じて従う人はそのような生き方を選べるようになります。イエス様は彼らに言われました。《あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。(23節)》そしてそのことばの通り、ヤコブは12弟子の中で一番最初に殉教したのです。

イエス様がおっしゃる生き方は、世間では惨めな生き方だと言われます。人々から横柄な態度を受け、権力をふるわれ、仕える者になり、いのちを差し出さなければならない人生なんか、悲惨であって、どんなことがあってもそうならないように頑張りなさい、あるいは逃げなさい、知恵を絞りなさい、チャンスをものにしなさいと言われています。それをわざわざ自分から選ぶなんてどうして!?その答えは、イエス様のことばの続きにあります。《しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。(23節)》これはつまり、天の父が必要な人に必要なものをいつも与えてくださるとイエス様はおっしゃっているのです。イエス様は人々から横柄な態度を受け、権力をふるわれ、仕える者になり、殺されました。しかし、死からよみがらされ、天に上げられ、讃美を受けるべき方として、礼拝されています。聖書には《神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。(ピリピ2:9、イザヤ52:13参照)》と書いてあります。すなわち、イエス様は勝ち取る人生を歩まれたのではなく、神である主によって高く上げられる人生を歩まれたのです。

もしあなたが、全部の必要を準備して与えてくださる主を人生に迎え入れずに、横柄な態度を受け、権力をふるわれ、仕える者になり、いのちを差し出さなければならない歩みをしているなら、それは悲惨なことです。ただ、自分のいのちを救おうと必死になっている人よりはましでしょう。すでにそのような仕打ちを受けているのですから。あなたに必要なことはイエス様を信じて、主を知らないで生きてきた罪を悔い改め、主を認めて新しい人生を歩み始めることです。そうすれば、主が備えてくださる人生を経験することになります。主が高くしてくださる人生を喜ぶようになります。自ら苦しみを選び、人々から横柄な態度を受け、権力をふるわれ、仕える者になり、いのちを与えることができる人生を進んでいくようになります。イエス様のように。

ヤコブ、ヨハネと並んでイエス様に非常に近かった弟子にペテロという人がいます。彼は晩年にこのように書き残していました。《キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。…神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。…あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Iペテロ4:13、19、5:6-7)》彼はイエス様がおっしゃった生き方を経験することができたのです。何も心配しないで、喜んで苦難の道を歩みなさいと伝えています。それは素晴らしい道だと証しています。

真実な創造者が力強く支えてくださる人生にあなたも招かれています。イエス様は言われました。《人の子が、…自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。(28節)》あなたはこのイエス様のことばに何と答えますか。

お祈りします《人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。》

天の父なる神様。私たちの祈りに耳を傾け、私たちの声を心に留め、苦難の日に私たちに答えてくださる主よ。

あなたの道を私たちに教えてください。私たちは人を出し抜いてでも自分の人生を良くするためにどんなチャンスも逃さないように、また災難が降りかかりそうになったら必死で逃げるようにと教えられてきました。それにも関わらず、チャンスをものにした時でさえ自分自身を失い、苦難はいくらやり過ごしても次々にやってきました。私たちはあなたを知らずに、そのような人生を歩んできたのです。しかし、イエス様、あなたの道はそれとは全く違う道であることを知りました。あなたは自ら志願して、ご自分のいのちを与えるために来てくださり、十字架で死なれました。実に私たち一人ひとりのために贖いの代価としていのちを犠牲にしてくださいました。あなたの死と復活は私たちにいのちをもたらしました。

あなたはそのような人生に私たちも招いてくださいました。良い人生を勝ち取りたい、苦難は予防したい、避けたいとばかり考えていたのに、今は喜びと主の臨在に満ちた苦難の道を進みたいと思っています。主イエス様を信じます。これからはいつでもたましいを委ねることができるお方、私たちの主に叫ぶことができる日が始まりました。私たちをとこしえの道に導いてください。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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