2024.03.31 主日礼拝「イエス様のよみがえりの証言」Ⅰコリント人への手紙15:3-20

イースターおめでとうございます!

(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。イースターおめでとうございます。主イエス様は死からよみがえられました。その後、天に昇って見えなくなられましたが、今も生きて働いておられます。

イエス様がよみがえられたことは、今も昔も変わらず信じられないような衝撃的な出来事でした。確かに聖書を良く調べれば、過越祭後の安息日の翌日は初穂の祭りと決められていて、羊の血の犠牲によって主に贖われた民が初穂の収穫をいただく日がくると預言されています。後から考えれば、特別なことが起こると分かるけれども、メシアのよみがえりのを身近に目撃するなんて、誰も想像もしていなかった出来事でした。主がなさることは人の想像を遥かに越えています。

神である主の救いは、主イエス様を死からいのちによみがえらせること、またイエス様を主と信じる人々を同様に、死からいのちによみがえらせることだったのです。死からいのちとは、精神的な話ではありません。心の在り様の話ではありません。心肺停止の仮死状態からの復活ではありません。肉体と精神と心によって生きている人間が、完全に死んでから(イエス様の場合は心臓・呼吸停止、大量出血、2日間放置の後)、新しい肉体と精神と心を持つ生きた者に復活するということです。

イエス様はご自分で作られた教会に使命を与えられました。《エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒1:8)》ですから、私たちはまず、イエス様が復活された出来事を証言し続ける使命があります。直接、よみがえりのイエス様と会話して、触れて、会食をした弟子たちは、証言と書物を残して、先に天に帰っていきました。次の世代の人たちが、目撃証言をバトンタッチして、その世代の人たちに伝えました。また次の世代も、その次の世代もバトンを渡してきました。今は私たちの番です。私たちがこの実際に起こった出来事を伝える番にきているのです。

聖書をお開きください。Iコリント人への手紙15:3-20(349ページ)【聖書朗読】

Iコリント人への手紙は使徒パウロが書いた手紙です。十字架から25年くらい経ったころに書かれたと思われます。2024年の今でいうと、西暦2000年の出来事について、小渕首相が急に亡くなったのは本当だよ、シドニーオリンピックの女子マラソンで高橋選手が金メダルを取ったのは本当だよ、コンコルドの飛行機墜落事故があったのは本当だよと若い人たちに伝えているような感覚です。この頃の人たちの間で、イエス様がよみがえられたことを使徒たちや500人以上いた目撃者たちから聞くけれども、復活はなかったに違いないと言う人たちが出始めたのです。パウロが何とかして、本当に起こった出来事だと伝えようとしていることが文章から分かると思います。

今日のメッセージのチャレンジは「イエス様のよみがえりの出来事を伝えよう」ということです。クリスチャンの聖日説教への主な期待は「この聖書箇所が今日私に語っている意味は何か」だと思います。あなたへのメッセージは確かに大切なことですが、あまりにその一点(私が受けとる)に没頭しすぎると、教会の使命(私たちがする)を忘れてしまうことがあります。私たちはまず、イエス様がよみがえられた事実を証言しなければなりません。今週はそのことに心を留めましょう。

若い人たちがこう言っていたとしましょう。「昔の人は電話がなかったんだって」「えー、どうやって待ち合わせしたの?チャットする時はどうするの?」「手紙を書いたり、連絡のためだけにわざわざ会いに行ったりしたらしいよ」「信じられない」と言ったとしましょう。「そうねぇ。信じられないね」と言って終わっても何も問題ないですね。でも、ナザレのイエス様が死んでよみがえった出来事を「そうねぇ。信じられないね」では終われないのです。福音は単なる宗教思想ではなく、知らなければ現実のいのちに関わる事実だからです。

イエス様がよみがえられたことは聖書に書かれています。ところが、ほとんどの人はまず入口で関心を失います。「聖書で」と言った瞬間に、信じる価値のない情報だと思うでしょう。確かに世の中には偏見や不十分な証拠に基づいて不合理なことを信じている人たちがいます。科学者や歴史家など正確性を評価する資格のある人々の主流見解に反対して、「彼らは真実を捻じ曲げている」と頑なに信じ、自論を主張します。しかし、みなさんには、イエス様の復活は信者の妄想による主張ではないことを知っておいていただきたいのです。科学者や歴史家の批評に耳をふさぐ人たちの主張ではないと知っておいていただきたいと思います。

聖書を調べる学者は世界に数え切れないほどいますが、聖書だけを調べているのではありません。同時代の古文書をくまなく調べています。ユダヤ人の歴史家ヨセフスとローマの歴史家タキトゥスが西暦100年前後に、ナザレのイエスがいた事、また彼が十字架にかかったことを文章に残しています。ヨセフスもタキトゥスも、クリスチャンではありません。当時はユダヤ人もローマ人もクリスチャンを迫害し、彼らの活動が消え去るように願っていました。わざわざ事実に反してクリスチャンの信仰を支持する理由も必要性もなかった人たちです。ナザレのイエスが実際に存在し、十字架刑にかけられたことは歴史的信憑性が高く、学校の教科書にも載っているほどです。

主イエス様はローマ帝国の死刑である十字架にかけられて死にました。当時の十字架刑の様子を記した古文書がいくつかあります。また十字架刑で死んだ人の骨が発掘されています。ロープで縛る方法が主流だったようですが、イエス様は十字架に釘で打ち付けられました。釘は手のひらに打ち付けると体重で裂けてしまうので、手首に打たれたはずです。その状態で吊るされると呼吸困難になります。つま先が少し届く場所に足台があり、つま先で体を持ち上げると息をすることができます。力尽きたり、足を折られたりして、体を持ち上げられなくなると呼吸ができなくなり数分で窒息死します。囚人が死ぬまで見張っているのはローマ兵の仕事でした。囚人が早く死ぬと早く仕事が終わって帰れます。ユダヤ人が安息日にイエスの死体が十字架上に残らないようにするため、早く終わらせてほしいと言ったので、足を折ることにしましたが、イエス様の様子を見るとすでに死んでいたので兵士は足を折りませんでした。しかし、脇腹を槍で突き刺したので、血と水が出てきました。長時間の拷問を受けて肺や心臓に溜まっていた水が出たと思われます。そこまで深く突き刺されたら生きていたとしても致命傷です。十字架は公開処刑ですので、過越祭のためにエルサレムに来ていた多くのユダヤ人とローマ人が、イエス様が死ぬまで様子を見ていました。途中で降ろして替え玉に入れ替えた説はちょっと無理があります。

十字架刑で囚人が死ぬと、通常はそのまま放置され、鳥や獣に食われ、腐敗するままにされました。イエス様が死んだ時には、アリマタヤのヨセフがイエス様の遺体を墓に納めたと記録されています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書に書いてあります。注目すべきは、4つの記録の文章が独自であることです。マルコの福音書が最初に書かれた書物で、マタイやルカは文章をコピー・ペーストすることがありましたが、この部分は独自の書き方をしています。示し合わせた作り話を書いたのではなく、それぞれ自分視点の目撃証言を書いている証拠になります。その様子を弟子たちが目撃していて、特にガリラヤの女性たちが見守っていましたので、日曜日に墓を間違えたということはありません。新約聖書が書かれた時代にはアリマタヤのヨセフは存命ですから、どこの墓か誰でも確認することが出来ました。

さて、日曜日の朝、イエス様が葬られた墓は空でした。そこには遺体はありませんでした。これは事実です。イエスの遺体が亡くなった事実を当時のユダヤ人たちは「イエスの弟子たちが盗んでいった」と説明しました。福音書が書かれた当時に「イエスの弟子たちが遺体を盗んでいった」と一般に言われていたことは聖書以外の古文書からも発見されています。ここで、まず最初に言えることは、遺体がなかったということです。ユダヤ人の指導者たちはナザレのイエスの活動を忌み嫌っていて、息の根を止めようとしていました。それゆえの十字架です。イエス様の弟子たちが「キリストがよみがえった」と言っている時に、ユダヤ人たちがイエスの遺体を持ってきて、ここに死体があると言えば、決定的です。彼らの活動はそこで決定的に終わりです。でも誰もそれをしませんでした。ですから、遺体は墓になかったのです。

では、やっぱり弟子たちが盗んで隠したのでしょうか。何のために?弟子たちはそもそもイエス様がよみがえるとは思っていませんでした。イエス様がローマ帝国を打ち倒して、ダビデ王国の再建してくださると期待していたのです。イエス様の十字架の前に、弟子たちがイエス様のよみがえりを期待していた場面は見当たりません。十字架の後、イエス様の遺体が墓にないと気が付いた時、マリアは園の管理人が遺体を運んだと思いました。エマオの途上でイエス様と道すがら話していた2人は、イエス様が目の前にいると思っていませんでした。復活されたイエス様が弟子たちの部屋に現れた時、弟子たちは幽霊だと思いました。トマスはイエス様がよみがえられたことを信じませんでした。イエス様がよみがえるなんて、弟子たちの誰も想像もしていなかった出来事だからです。

救世主が現れたという熱狂的な信仰は、歴史上何度も起こりましたが、いずれも救世主の死亡によって終息しました。信者たちの目が覚めたからです。信じ続ける人もわずかにいますが、中心メンバーが離脱し、あれは間違いだったと言います。イエス様の弟子にはそのような人はひとりもいませんでした。ひとりでもイエスのよみがえりは嘘だったという人がいたなら、ユダヤ人たちもローマ皇帝もクリスチャンの増加を止めようとしていたのですから、必ずニュースになったはずです。しかし、そのような記述はどこの古文書にも見当たりません。逆に、仲間が殉教し、信じた人々も次々に迫害を受けて殺される中で、弟子たちはイエス様の復活を証言し続けました。さらにクリスチャン迫害の急先鋒であったパリサイ人サウロ(パウロ)が、弟子たちの証言を受け入れたのです。

そういうわけですから、主イエス様は十字架で死に、墓からよみがえられたのです。信憑性は十分にあり、信じる価値のある真実の証言です。よみがえられたイエス様は「クリスチャンもまた、イエス様と同じように、死んでも生き返る」と教えてくださいました。

以前、みなさまにお話したことがありますが、みなさまには固くてもろい信仰ではなく、しなやかで強い信仰をもっていただきたいと思っています。ヒビが入ったら粉々になるガラスのような信仰ではなく、叩いてもヒビ割れても壊れないゴムのような信仰をもっていてほしいのです。「イエス・キリストのよみがえりを検証しましょう」どんと来いです。いくらでも可能性を考えてきて、ぶつけてもらったらいいです。

私たちが伝道する時に大切なのは確信です。伝道は確信と確信のぶつかり合いだと聞いたことがあります。今日、お話したような説明を人々に話しても大して効果はないでしょう。でも、私たちの確信は伝わるんです。今日開いたパウロの言葉を読み返してください。彼の確信が伝わってきませんか。本当かなと自分でも思っているなら、あるいは本当だと信じることにしていても心の底にわずかの疑問があるなら、それは伝わります。でも、「まぁあなたは信じないと言うかもしれないけど、イエス様はよみがえられたのよ」と、自分の心にあるしなやかな確信はちゃんと伝わります。そして、どんな言葉よりも説得力があります。

イースターから始まる週です。イエス様のよみがえりを伝えましょう。

お祈りします《しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。》

天の父なる神様。十字架で死なれた御子を死の苦しみから解き放って、よみがえらせたお方。私たちの主よ。イエス様が死につながれていることなど、あり得ないことでした。

神の御子イエス様はベツレヘムに生まれ、ガリラヤで育ち、エルサレムで十字架にかけられました。十字架で死に、よみにくだり、安息日の翌日の朝によみがえられました。墓は空で、遺体を巻いていた亜麻布だけが残されていました。主はよみがえり、復活のからだをもって弟子たちに現れ、また兄弟であるヤコブに現れ、パリサイ人サウロにまで現れて、よみがえられたことを確かに示してくださいました。復活のからだは幽霊ではなく、会話することができ、触れることができ、共に食事をすることができました。現代に至るまで数々の疑いの目が向けられましたが、ますます主がよみがえられたことが確信されています。

あなたを信じる者たちが、主と同じように死からよみがえることを知りました。患難の多い世を生きる私たちの希望です。ますます多くの方がこの恵みの時にあなたを信じて歩むことができますように切に祈ります。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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