2024.3.24 教会創立記念礼拝「イエス様とともパラダイスに」ルカの福音書23:32-43

 


肌寒く鬱陶しい天気が続きますが、桜もそろそろですかねぇ(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師 

おはようございます。今日は棕櫚の主日(パームサンデー)です。イエス様が十字架にかかられる数日前にエルサレムに入城されたことを記念する日です。イエス様がロバに乗ってエルサレムに入られると、非常に多くの群衆が、自分たちの上着や、棕櫚の木の葉のついた枝を道に敷いてお迎えしました。彼らはこう叫びました。《「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」》このあと都中が大騒ぎになりました。この出来後を思い出す日が棕櫚の聖日です。今日から受難週が始まり、次の日曜日にはイースターを祝います。

また今日はインマヌエル王寺教会の創立記念礼拝です。イエス様の教会は、世界にひとつしかありません。主イエス様の弟子であり、イエス様から直接教わった使徒たちの教えを守っている人々の群れが公同の教会です。教会は主によってひとつとされていて、目に見える建物や組織によって測ることはできません。その公同の教会の中に、クリスチャンは色々な場所の会堂や、組織的なつながりをもっています。体の細胞のようです。生きている細胞は増えて、大きくなり、また増えて、大きくなります。そうして体全体が成長したり、健康を保ったりするのです。インマヌエル王寺教会は1963年(昭和38年)に、王寺町で、教会の新しい細胞となりました。主イエス様と西村牧師、7名の信徒が共に働きを始めました。昨年は60周年をお祝いしましたので、今年は61年目の記念です。ぜひこれまでの記念誌を読み返してください。この群れも、もう60年を越えましたので、主の御心であるなら(御心だと信じていますが)、新しい細胞が増えても良い時期ですね。教会を通して働かれる主をおぼえながら、新しい群れを増やしていくことができるように祈っていきましょう。

聖書をお開きください。ルカの福音書23:32-43(170ページ)【聖書朗読】

イエス様はイザヤ書にある預言の通り、十字架にかかって死なれました。イザヤ書には、主がキリストを選ぶこと、キリストが自分のいのちを代償の捧げ物として、死に明け渡し、神に背いた者たちのためにとりなしをすることが書かれています。彼は神に背いた者たちとともに数えられると言われていました(イザヤ53:10-12)。その預言の日がやってきたのです。

イエス様はユダヤ人のねたみのために不正の裁判で死刑に定められました。有罪の証拠を誰も提出できなかったと記録されています。また判決後10日以上空けて死刑執行されるとローマの法律にあるにも関わらず、一晩の裁判の後、すぐに十字架にかけられました。イエスの仲間の誰にも邪魔させずにすぐに殺してしまいたいという執念深さが垣間見えます。

さてこの日、どういう訳か、ローマの執行人はイエスと共に2人の犯罪人を一緒に十字架につけることにしました。理由は分かりませんが、2人にとっては突然のタイミングだったはずです。この2人は裁判が終わり、自分が犯した犯罪のゆえに死刑判決を受けて、10日間を過ぎて、執行の日まで牢に入っていました。現代日本の場合ですと、死刑執行の告知は、当日の朝にするそうです。ですから朝のタイミングを過ぎれば一日は大丈夫ということです。おそらく当時も執行を告げられるタイミングはだいたい決まっていたのではないかと思います。ところがその日はナザレのイエスのせいで、思いも寄らないタイミングで十字架につけられることになってしまいました。

十字架にかけられた時、ナザレのイエスの頭上には「ユダヤ人の王」と掲げられていました。彼らはすでにイエス様を知っていたようです。またキリストが民を救うためにくると聖書で言われていることも知っていたようです。2人のうちのひとりが《「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」(39節)》と言いました。この箇所だけを見ると、イエス様をののしっていたのはひとりだけかと思いますが、マタイの福音書を見ると、どうやら2人ともイエス様をののしっていたようです(マタイ27:44)。十字架刑が残酷なのは、かけられてから死ぬまでに時間がかかるからです。激しい痛みがありますが、考える時間も沢山あります。そんな十字架上で彼らは怒っていたのでしょうね。何に怒っていたのでしょうか。まず、十字架で痛み苦しんで死ななければならないなんて受け入れられないと怒っていたのでしょう。犯罪を犯したことは事実だけども、私には十分な理由がある!と怒っていたのではないでしょうか。「なぜ私が死ななければならないのか。私をこんな状態に追い込んだアイツが悪いのじゃないか。こんな境遇に生まれてきたことが悪いのじゃないか。他にも悪いことをしているやつが沢山いるのに私だけが罰せられるのはおかしいじゃないか。私を不幸に陥れた神が悪いのじゃないか!私は悪くない。私は悪くない。私は悪くない‼️」そして横を見ると、「ユダヤ人の王」と掲げたイエスがいる。怒りに油が注がれました。「何が王様か。何が救い主か。何がキリストか」《「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」》彼らはイエス様に対して個人的に怒っていたというよりも、自分が抱え込んでいたすべての怒りをイエス様に投げつけたのではないでしょうか。

《「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」》この言葉は、十字架から下ろせという意味よりも深いものがあったと思います。世界の理不尽さへの怒り、優れた者になれない恨み、愛されない悲しみ…。「私の人生に救いがあれば、こんな結末を迎えなくてよかったのに。」だから今からでも救えと言ったのではないでしょうか。

あの日、ゴルゴダの丘には3本の十字架が並んでいました。3人が並んで刑を受け、苦しんで死んでいこうとしています。よく見ると、両サイドの2人が真ん中のひとりに悪口を言い続けています。でも、3人共一緒に苦しんでいるのではないでしょうか。同じく苦しんでいる人に2対1で悪口を言い続けている姿を見て、みなさんはどのように思われますか。果たして、これが神を求めるのに相応しい姿でしょうか。救いを求めるのに相応しい姿でしょうか。しかし、このようにする人は意外と多くいるのです。

ところがしばらくして、(マタイの福音書によると犯罪人たちは一緒にイエス様をののしっていたのですが、)相方と一緒にイエス様をののしっていたはずの犯罪人のひとりの心に変化が表れました。なぜでしょうか。十字架にかけられているイエス様の姿を見ながら、何かが分かったのです。「キリストなら」「キリストなら」と言われているのを見るうちに、ふと自分の辛さのことはさておいて、キリストがどんな人か思い出したのです。イザヤ書を思い出しました。《私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。(イザヤ53:6-7)》「あれ、目の前にいるこの人は、イザヤの預言に書かれているキリストの姿そのままではないか」そしてまた、自分自身の姿が客観的に分かったのです。キリストが私の苦しみを共に味わっておられて、私はその人に怒りと悪口をぶつけ続けていると。そして彼は言いました。《「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」(40-41節)》この世界は壊れていて、理不尽なことが沢山あります。盗人にも三分の理があると言います。どんな人のどんな状況にも同情するところはあるのです。しかし、だからといって神様に八つ当たりするのはどうなのでしょうか。神様は悪いことを何もしていないと認めるのは、正しいことだと思いませんか。

それから彼は続けて言いました。《「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」(42節)》「御国」と言った時、当時のユダヤ人が想像していたのはダビデ王国の再建です。地上でもう一度、ローマ帝国を打ち倒して、ユダヤ人の国が復活すると期待していたのです。ですから、彼の言いたかったことは、「イエス様が弟子の助けを得てか、どうにかして、十字架から降りて、ローマ帝国を打ち倒し、ユダヤ人の王となる日が来るのだろう。そんな日が来るのは素晴らしいことだ。『イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。(私はもうここで死んでしまうので、その日、そこにはいないけれど…。あなたの栄光の日を願っています。)』」ということでしょう。このような心で、イエス様に語りかけたのだと思います。

しかし、イエス様は彼に言われました。《「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(43節)》パラダイスは園(庭)という意味の言葉です。ユダヤ人は園といえばエデンの園を思い出します。そして主は新しい天と地を造られるとイザヤ書で言っておられましたから、特にパラダイス(園)といえば、この地上生活を終えた後に行く、エデンの園のような新しい園を思い浮かべるのです。イエス様はわざわざ「御国に入られるときには」と言っていた彼に、「パラダイス」と言われました。福音書の中でイエス様がパラダイスと言われた箇所は、ここの他にありません。イエス様は彼に答えたのです。彼は自分とイエス様は違うところに行くと思っていました。「私はもう死ぬので御国は見られないけれど、イエス様、あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」「いや、そうじゃないよ。死んだ後にも、あなたはわたしとともにいることになるよ。新しい園、パラダイスでわたしとともにいます。」

十字架に磔にされて、血を流し、激痛にみまわれる中で、ここまで優しく、言葉を選び、心に語りかけてくださるお方。それがイエス様です。イエス様にいくら怒りをぶつけても、何もなりません。本当に私を救うお方なのだと信じなければ、何も解決しません。しかし、私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれた主イエス様を信じるなら、私たちは平安を受け、癒やされるのです。

あなたは十字架のイエス様を見て、何を思いますか。「私には同情の余地がある」と怒り、悪口を言い続けますか。それとも、「私は自分のしたことの報いを受けている」と罪を認めますか。聖書にはこのように書かれています。《キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。(Iペテロ2:24-25)》あなたも、たとえ羊のようにさまよっているとしても、イエス様を信じるなら、すぐに、あなたのたましいの牧者である主のもとに帰ることができます。

お祈りします《「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」》

天の父なる神様。そのひとり子をお与えになったほどに世を愛し、私たちひとりひとりを愛された主よ。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためでした。

地上の王たちは馬や戦車に乗って、城に凱旋しました。しかし、イエス様は従順と柔和の象徴であるロバに乗って、城に帰ってこられました。あなたの冠はいばらであり、あなたの服は裸の衣、あなたの王座は十字架でした。私たちの罪を背負って、恥と苦しみを受けてくださった主よ。いま、十字架上のあなたを見ます。自分のしたことの報いを受けている私たちの隣に、悪いことを何もしていないイエス様が苦しみをともにしておられます。それなのに、私たちはどうして神であるあなたをののしり続けるのでしょうか。どうか私たちが自分で何をしているのか分かるようにしてください。

イエス様、あなたはキリストです。私たちの救い主です。あなたの打ち傷のゆえに私たちは癒やされました。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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