2024.3.17 主日礼拝「主に訴える」聖書箇所:エレミヤ書12:1-4

今年は説教で神様とどのような関係を持って歩んでいくかのテーマで学んでいます。今日は
訴える祈りについて心の奥深くに刺さるメッセージでした。自分の心を正直に見ながら、純な思いを主にぶつけ、祈りを積んでいこうと思いました。(リベカ)

礼拝説教 中尾敬一牧師 

おはようございます。今週もようこそ礼拝式にお集まりくださいました。私たちは受難節を共に過ごしています。今朝もイエス様の十字架の出来事を思い出し、私たちの心を主に探っていただきましょう。

今年の受難節にあわせて、ペテロの3度の否認の場面を壁に飾っていただきました。イエス様は十字架にかけられる前に裁判にかけられました。誰もイエス様を死刑に訴えられる証拠をもっていないのに、イエスを殺したいという動機によって開かれた不当な裁判でした。ペテロはあの裁判の場にいたのですから、「私はナザレのイエスの弟子だ」と名乗り出て、イエス様を弁護することが出来たはずでした。しかし、ペテロは周囲の人々が「あなたはイエスの弟子だろ」と指摘する言葉を3度否定しました。イエス様にも声が聞こえる距離で、3度「イエスを知らない」と否定し、嘘なら呪われても良いと誓い始めました。その瞬間に鶏が鳴いて、向こうにいたイエス様と目が合ったのです(ルカ22:61)。あの絵はその場面を描いたものです。

イエス様の十字架は私たちの心をあらわにします。ペテロは以前、《「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22:33)》と言い切っていました。ペテロは自信を持ってそう言ったはずです。しかし、彼は無自覚のうちに、自分の心に蓋をして、心の中を直視することを避け、触れないようにしていたことが明らかになりました。イエス様の十字架が彼の心の状態をあらわにしたのです。自分の命を自分で守ろうとする自己防衛の心です。命を神に委ねておられたイエス様と対照的な罪の心です。

人にはみな、危機に瀕した時、自分を自分で守ろうとする心があります。それでも、そんなことはないと自分自身に向かって一生懸命に思い込ませています。人の最も深いところにある、この心が変わらなければ、イエス様のようには変わりません。自己防衛を止めなければ、決して愛の人になることはできません。イエス様の十字架は私たちの本当の姿をあらわにするのです。受難節でありますから、主に私たちの心を探っていただき、照らしていただきましょう。手術の前には精密検査が必要です。

聖書をお開きください。エレミヤ書12:1-4(1310ページ)【聖書朗読】

「神である主とどのような関係をもって、人生を歩んでいくのか」今日のテーマは「主に訴える」です。

先週は、主とコミュニケーションをとることを話しました。私たちの讃美歌には「信仰の歩み・祈り」という分類があります。色々と見ますと、静かにとか、静まる、朝露の園、小さい御声など、静かな落ち着いた雰囲気や心穏やかな様子を感じる描写が多くあります。実際に私たちは祈りの場というと、天国にいるような爽やかで静かで穏やかなイメージを思うのではないでしょうか。しかし、聖書から祈りの場を見ますと、穏やかなイメージはほとんどないのです。例えば受難節ですから、イエス様のゲッセマネの祈りを思い出しましょう。イエス様は汗を血のしずくのように流され、《わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。(マルコ14:34)》と言われました。このような穏やかではない祈りの場面が、聖書には数多く記されています。穏やかさは、汗を血のしずくのように流すことを越えた先にあるものです。最初から穏やかというのは、もしかすると心にある臭いものに蓋をした結果であるかもしれません。

主と私たちは、主人としもべの関係です。主が定めてくださった契約の関係でありますから、私たちが主に従う一方、主が私たちの日々の必要を与え、敵から守ってくださいます。ところが、この世界には患難があります。実際の神の民の人生を振り返ると、日々の必要に困窮し、敵からの攻撃をうけることがありました。初代教会のクリスチャンは迫害をうけ、闘技場でライオンに食われて死にました。今でも、主イエス様の弟子であるクリスチャンの人生を見ると、何度も何度も苦難を経験し、時に痛めつけられています。何か、主が約束してくださったことと違うことが起こっているように思える現実に直面しているのです。

このような時、神の民は主とコミュニケーションをとってきました。主に訴えるというコミュニケーションです。ダビデの詩篇には、主を呼ぶ訴えがあります。詩篇3篇はダビデがアブシャロムから逃げていた時の祈りですが、《私は声をあげて【主】を呼び求める。すると主はその聖なる山から私に答えてくださる。(詩3:4)》とあります。聖なる山とはエルサレムです。ダビデはエルサレムを離れて逃げていたのですから、遠くから主がおられるエルサレムに届くように大きな声で叫んで、呼び求めたということです。私は以前、超教派の働きをしていました。色んな教会の人と会うわけですが、ある時、韓国の宣教師によって開拓された教会の人たちが祈り会(決起集会)に参加されたことがありました。さあ、一緒に祈りましょうと言った瞬間、びっくりすることが起こりました。彼らが祈る時、まず「主よー!」と言うのです。祈り始めた瞬間に人々が一斉に「主よー!」と叫んだので、なんと会場の窓ガラスがバリバリバリと震えたのです。私は本当にビックリしました。国民性が…とおっしゃるかもしれませんが、日本の教会ですから教会員はほとんど日本人です。強烈な体験でした。しかし、ダビデの詩篇を読む時、あの経験を思い出します。ダビデは本当に大声を上げて主を呼び求めたことでしょう。

そして、続く4篇にはこのような祈りがあります。《私が呼ぶとき答えてください。私の義なる神。追いつめられたとき あなたは私を解き放ってくださいました。私をあわれみ 私の祈りを聞いてください。(詩4:1)》「聞いてください。返事をしてください」と訴える祈りです。

また訴える祈りは、時に泣き叫ぶ声です。エジプトでファラオの奴隷となってしまったイスラエル人たちは泣き叫びました。《イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。(出2:23)》子どもたちはよく泣き叫びますね。自分の状況を説明する言葉をもっていないからです。あまりにも無力、しかし訴えずにはいられない。そのような時、人は泣き叫びます。

もし泣き叫ぶよりも、少し余裕があり、言葉の知恵があるなら、訴える祈りは質問になります。今日の箇所はエレミヤから主への質問です。《それでも、私はさばきについてあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのですか。(1節)》これはクリスチャンが人生で必ず直面する苦難と言えるでしょう。主に従わない人のほうが楽しく生きている。それを見ながら歩む人生には痛みが生じるものです。特にエレミヤは主のことばを伝える預言者でした。《イスラエルの神、【主】はこう言われる。この契約のことばを聞かない者は、のろわれる。(エレ11:2)》と人々に語っているのに、それを平気で無視する人たちが、沢山の財産をもって、良いものをたくさん食べ、きれいに着飾って、大きな家で安全に暮らしているのです。そして彼らはエレミヤを鼻で笑っています。この現実を見て、心が傷まないでしょうか。

また訴える祈りは「主よ。憐れんでください」と、憐れみを求める祈りです。(cf.詩27:7-10)他にも、苦難にあったヨブはこのように言いました。《この私は全能なる方に語りかけ、神と論じ合うことを願う。…私は神を待ち望み、なおも私の道を神の御前に主張しよう。(ヨブ13:3,15)》神である主と対面し、私の話を聞いてもらいたいという訴えです。また、時にはただひたすら混乱の祈りです。詩篇88篇は「苦しみ」「よみ」「深い穴」「衰え」「墓の中」「闇の中」「恐怖」をひたすら訴えて終わってしまいます。主の御名を讃美するというお決まりのフレーズは出てきません。

神の民、特に主のしもべたちは、主に訴える祈りをしてきました。「え?神に不平を言うのは良くない、ですか?」不平を言うと神に滅ぼされてしまいますね。でも主のしもべたちは滅ぼされませんでした。訴える祈りは主を怒らせた不平とは違います。不平はそもそも祈りになりません。荒野で民が不平を言った時、彼らは「エジプトに帰ろう」と隣の人に言ったのです。また「パンは飽きた、肉が食べたい」とモーセやアロンに言いました。聖書には、彼らは主の耳に対して不平を言ったと書いてあります(民11:1脚注、14:28)。耳に語ったとは、直接祈ったのではなく、耳に聞こえてくるような場所で、隣の人と愚痴を言って、間接的に主の耳に入るようにしたという意味です。今日お話している訴える祈りと全くの別の行為です。「もう契約なんか意味ないからやめてしまおうぜ。自分たちでやったほうが上手くやれるよ」という意味です。このような不平は主を激しく怒らせます。一方で、主に訴える祈りは契約の中にとどまる人の祈りです。

さて、主とのコミュニケーションには訴える祈りがあります。ここで、みなさんにお伺いしたいのですが、これらの訴える祈りをしないで済ませることはありませんか?信仰生活も長くなると“正解”が分かってきますね。「主の返答は時期を空けて返事が来ることがある。主がなさることはいつも正しい。主に委ねて、主を讃美するべき。」という“正解”です。「そんな訴える祈りなんて、ちょっと幼稚じゃない?そんなに慌てふためいて、どうするんですか。」こんなことを心の中で思っていませんか。でもそれは、石の裏に虫がうごめいているのを見つけたのに、もう一度石を置いて、何もいなかったと言っているようなものです。本当はガンがあるのに、調べもしないで、胃薬を飲んでおいたら良くなるよと言っているようなものです。私たちは自分の心の中をちゃんと探る必要があります。虫を隠している石をどける必要があります。しんどい検査をちゃんと受ける必要があるのです。ペテロはイエス様に自信持って言いました。「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」でも、石をどけてみたら虫がうじゃうじゃいたのです。訴える祈りをスキップしてはいけません。これをスキップすると、主と血の通ったコミュニケーションが取れないのです。何か業務連絡のようなコミュニケーションだけが残ります。

私たちが不安になったり、信頼を躊躇するのは、過去の心の傷(トラウマ)が原因だと心理学者は分析しています。特に親との関係で、守ってもらえなかったり、梯子を外されたり、裏切られたり、虐待された経験があると、傷がうずくのです。ほとんどの人は過去の心の傷が痛むのを避けたいので、触れないように隠します。それが深刻であると認めないようにするそうです。「不安はないよ。信頼してるよ。そんなの簡単にできるよ。」

私たちが見ないふりしている虫には、こういう虫もいます。自分で解決の道筋を見つけて、その道筋を神が実現するように要求する虫です。「主に委ねて平安をいただきました。(その心は… 解決のためにこれとあれが順番に実現するに違いないと信じました。主は私が思いついた解決策を奇跡的に実現してくださいます!)」平安があるのは虫を見ないふりしたからです。委ねるって何ですか。私が知らない道を通って解決した時に委ねたというのです。でもこの道は心が痛みすぎます。知らない道を通り続けるのですから、主に委ねて痛みが続くことは大いにあり得ます。

イエス様は十字架の上で詩篇22篇を叫ばれました。《わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。》なぜ22篇の最初から叫んだのでしょうか。そこらへんは飛ばして、後ろの方を読めば素晴らしかったじゃないですか。《あなたは私に答えてくださいました。私は…会衆の中であなたを賛美します。(詩22:21-22)》と叫べば良かったじゃないですか?_ イエス様がパリサイ人と対峙していた時、母マリヤと兄弟たちがイエスはおかしくなったと思って連れ戻しに来たことがありましたよね。イエス様の家族も完璧ではなかったことが分かります。イエス様は人となり、私たちと同じように心に傷をもつ経験を通ってくださったのです。主は心の痛みを知っておられました。

イエス様さえ、訴える祈りをされたのなら、私たちも訴えずにはいられないという弱さを抱えています。主の前で石をどけて、心をあらわにする必要があります。しかし、みなさん、良い知らせがあります。主はあなたの心の中をきよめ、作り変えるために来られたのです。痛みが続く道を通り続けることは、病が癒やされるための手術です。手術が終われば良くなることが約束されています。詩篇にこのような歌があります。《神よ 私を探り 私の心を知ってください。私を調べ 私の思い煩いを知ってください。私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て 私をとこしえの道に導いてください。(詩139:23-24)》

お祈りします《それでも、私はさばきについてあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのですか。》

天の父なる神様。あなたは、情け深くあわれみ深い神です。私たちに降りかかったすべてのことにおいて、あなたは正しくあられます。

しかし主よ、私たちをあわれんでください。私たちは衰えています。恐れおののいています。【主】よ、私たちを癒やしてください。あなたはいつまで私たちをこのところに置かれるのですか。あなたが曲がったものをまっすぐにしてくださるのを待ち望んでいます。あなたの御名を恐れない人たちが、神はどこにいるのかと言っているのに、あなたはいつまで黙っておられるのですか。なぜあなたはすぐに動いてくださらないのですか。私たちは夜も眠ることができず、心が乱れて、もの言うこともできません。

私たちはあなたのみわざを思い起こします。あなたがなさったすべてのことを思い巡らします。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

0 件のコメント:

コメントを投稿

Pages