2024.03.10 主日礼拝「主とコミュニケーションをとる」創世記15:1-6

何事でもコミュニケーションは大事ですね。

(ひでまる)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。今日もようこそお集まりくださいました。主イエス様は《二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。》とおっしゃいました。この朝、主イエス様が約束どおりに、この中にいてくださることを思い出したいと思います。

礼拝のために私たちが集まる場所は「祈りの家」と呼ばれます。イザヤ書にはこう書かれているからです。《【主】に連なって主に仕え、【主】の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。(イザヤ56:6-7)》人々は礼拝の場所に祈るためにやってくるのです。神の民はもちろん、異邦人でさえも、主の契約のうちに入れていただけると約束されています。先週、第1回目の福音書を観る会が開かれました。その中にイエス様の宮きよめの場面がありました。イエス様がなぜあんなに怒ったかというと、異邦人の庭と呼ばれる、祈りの場所が売店で占拠され、利用できなくなっていたからです。祈る場所がなくなってしまっていたからです。

受難節であり、イエス様の宮きよめを思い出す時期です。私たちも、この会堂が「祈りの家」であるかどうか吟味しましょう。先程のイエス様の言葉ですが、もう1節前から読むと、このようにおっしゃっていました。《まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。》ユダヤ人たちは会堂で祈る時、10人の男性が集まって祈らなければ有効ではないと言い伝えていました。でも、イエス様は「会堂に集まるのがたとえ2人であっても、父は祈りを聞いておられるし、わたしもその中にいる」とおっしゃいました。主は今日、この群れと共にいて、この祈りの家で、私たちの祈りを聞いておられます。

聖書をお開きください。創世記15:1-6(21ページ)【聖書朗読】

「神である主とどのような関係をもって、人生を歩んでいくのか」今日のテーマは「主とコミュニケーションをとる」です。具体的に言えば「祈り」の話ですけれども、祈りというとかなり幅の広い、色々な祈りを含んでいますので、今日は神との対話について焦点を絞りたいと思います。

聖書にいくつも例が示されているように、人と主の関係には会話がありました。主が人に語りかけ会話をはじめる時がありました。主はアダムに「あなたはどこにいるのか」と言われました。アブラムに「わたしが示す地に行きなさい」と言われました。モーセに「エジプトの王ファラオのところへ行って、イスラエルの子らを導きだせ」と言われました。人は主のことばに応答し、会話しました。また人が主に何かを求める時がありました。ソロモンは主に「正しい訴えを聞き分ける判断力を与えてください」と言いました。ヒゼキヤは主に「アッシリアの王から救ってください」と言いました。エリヤは主に「もう十分です。私のいのちを取ってください」と言いました。主は人のことばに応答し、ある時は喜んで与え、ある時は行動よって応え、ある時は否定的に応えられました。また返事がくるまでに期間が空く会話もありました。沈黙による返答という場合もありました。このように、祈りは「主が私たちに語りかけ、私たちが答える」「私たちが主に語りかけ、主が答える」という一連の会話なのです。呪文を唱えて、気分が晴れて、終わりというものではありません。主に何かを伝えるのは、返事を求めるからです。同様に主が私たちに何を伝える時、私たちの返事を求めておられます。そこには主とのコミュニケーションがあります。

主は、その名の通り、私たちの主(主人)です。神である三位一体の主ヤハウェと私たちは、主人としもべの関係です。現代では、主人としもべの関係を示す良い例がなかなか見当たらなくて、理解に苦労しますが、次のような関係です。しもべは主人に従います。一方で主人はしもべに衣食住を与え、敵から守ります。イメージでいうなら従業員よりも家族に近いかもしれません。そしてこの関係は、強制的な束縛によるのではなく、契約による関係です。契約を破棄すれば、この関係は終わりますが、契約を保つうちは関係が保たれていて、お互いに契約に基づいて当然の権利を求めることができます。主が民に求めることができる当然の権利は、彼らが主に従うことです。民が主に求めることができる当然の権利は、生活の必要と敵からの救いです。それゆえに、コミュニケーションが生まれ、返事を期待する祈りが存在するのです。

私たちはイエス様と契約を結びました。いつでしょうか。いつでもとも言えますけれども、象徴的な場面は洗礼式と聖餐式です。洗礼式は私たちがこれまでの生き方を悔い改めて、主に立ち返る瞬間です。また聖餐式は主イエス様が十字架で流された血とからだを食し、神の救いを記念する時ですが、イエス様は「このパンはあなたがたのために与えられる、わたしのからだです。この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です(ルカ22:20)」とおっしゃいました。洗礼式と聖餐式には、結ばれる契約があるのです。私たちはその契約をいつも更新しています。私たちは主のしもべ、主はわたしたちの主人です。

祈りは、神である主との対話です。主とのコミュニケーションです。ですから、主がどんなお方か知っておくことはとても重要になります。神の民は、主との関わりの歴史を通して、主がどんなお方であるかを学んできました。主はどのような会話を過去に聞きいれてくださったのか、逆に受け入れられなかったものは何だったか、時代を重ねながら学んでいきました。今日の箇所では、主が幻の中でアブラムに現れ、言われました。《アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。(創15:1)》主とアブラムの会話に「主は盾である」という言葉が出てきたのです。それをイスラエル人たちはおぼえていました。ダビデ王はサウル王から救われた時、このように祈りました。《【主】よ、わが巌、わが砦、わが救い主よ、身を避ける、わが岩なる神よ。わが盾、わが救いの角、わがやぐら、わが逃れ場、わが救い主、あなたは私を暴虐から救われます。(IIサム22:2-3)》主はわが盾と祈る詩篇はほとんどがダビデの書いた詩篇ですが、やがて、アサフの詩篇(76篇)やコラ人の詩篇(84篇)にも「盾」という言葉が出てくるようになります。主ご自身も盾という言葉を再び使われました。預言者ゼカリヤを通して民に語られた時です。《万軍の【主】が彼らの盾となる》と民に告げられました。このように主と民との間には、「私たちと主だけが知っているキーワード」があり、キーワードを出す時に、過去の記憶を引き出してくることができるのです。過去の記憶を引き出していても、過去の話をしているのではありません。今の状況と過去の記憶を結びつけて、「主よ。アブラムに『わたしはあなたの盾だ』と言われたのですから、今、この私の盾になってくださいますよね。(あるいは盾となってくださってありがとうございました。)」と語りかけているのです。決して、聖書の言葉に魔力があるから使っているのではありません。生きておられる主とのコミュニケーションということです。

アブラムは移住した土地で跡継ぎもおらず、一生を終えようとしていました。アブラムが死んでしまうなら、彼の一族は守りを失って、寄留の土地でどうなってしまうかわからないということです。しかし、主はアブラムの盾でした。一族が滅びてしまわないように、妻からの子を与えてくださいました。ダビデは主がサウル王から救い出し、いのちを守ってくださった時に、主が盾であることを思い出し、主の救いの業に応答して、主はわが盾と言ったのです。それはアブラムの記憶を引き出していますが、サウル王から守られたという今の出来事に関して、主と会話しているのです。私たちも同じように、主の守りを求めたり、主が守ってくださった感謝を伝える時に、「主はわが盾」というキーワードを祈りの中で出してくることができます。こうして私たちも主と会話するのです。

ところで、この過去の記憶ですが、私たちはみな同じ記憶を共有しています。同じ聖書を読んでいるからです。それゆえに共に祈る、すなわち一緒になって主と対話することができます。一緒に同じ記憶を引き出して、群れとして主に求め、主の返答を期待することができます。ひとつの民として主と対話し、コミュニケーションを取ることができるのです。詩篇を一緒に読むということは、詩篇を一緒に讃美すること、また詩篇を一緒に祈ることです。共同体の祈りが何千年も続けられてきたのです。逆に、会堂に来てひとりで祈るということは何かが順当ではないことを示唆しています。ハンナは神の天幕でひとりで祈っていました(Iサム1)。彼女の主への求めを共に祈る人がいなかったからです。夫は何が問題か理解できず、祭司は彼女が酔っ払っているのだと思っていました。しかし、そのような異常事態にも、主はハンナの祈りを聞いておられました。私たちの人生にもそのような出来事が起こり得るでしょう。

受難節の中で、十字架のイエス様を思い出しています。そういえば、イエス様も十字架の上で祈っておられました。《「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)》十字架の前にいた人々は、この祈りの意味が分かりませんでした。でも、過去の出来事を知っている人はキーワードに気がついたはずです。これは詩篇22篇なのです。詩篇を読むと分かります。この祈りは実は、このような告白でした。《主は貧しい人の苦しみを蔑まず いとわず 御顔を彼から隠すことなく 助けを叫び求めたとき 聞いてくださった。(詩篇22:24)》あの十字架の時、御父は確かに沈黙によって答えられましたけれども、御子イエス様と御父には確かにコミュニケーションがありました。過去には別の人たちと主とのやり取りがありました。主はしもべを守ってくださるはずなのに、見捨てられたと思える状況に遭ってしまった。それでも最後には主が救ってくださった。その過去の出来事を思い出して、いま、十字架の上で苦しんでいて、見捨てられた思える状況にいるけれども、あの時と同じように御父は助けを求める叫びを聞いてくださっていますとイエス様は語りかけたのです。御父は沈黙しておられましたが、確かにイエス様が死んで3日目に、御子をよみがえらせなさいました。このような祈りと答えのやり取りがありました。

祈りというと、私たちが主に祈り求めるというように、私たちの側から発信するイメージが強いと思います。しかし、今日の箇所でも見られるように、主と私たちの会話は、実は主が主導権を握っておられるのです。主がどのようなお方であるか知るにつれ、主の方から私たちに語りかけ始めておられることがいかに多いか知るようになります。そもそも、主と私たちとの契約は、私たちがもちかけた契約ではありません。主が契約を考え、私たちに示し、必要な代価さえご自分で払ってくださいました。私たちはこの契約を恵みによってタダでいただいたのです。生きるための必要や敵からの救いを当然に求めることができる状態を作ってくださいました。主が始めてくださったので、私たちは主に叫び、「主よ、あなたの約束を思い出してください」と祈ることができます。主は私たちの祈りに返事し、また行動を起こしてくださいます。

お祈りします《アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。》

天の父なる神様。私たちの巌、私たちの砦、私たちの救い主、身を避ける岩なる神、私たちの盾、救いの角、やぐら、逃れ場、私たちの救い主よ。

あなたはとこしえに変わることがなく、アブラハム、イサク、ヤコブと語り合われたように、また神の民と語り合われたように、今もなお生きて、私たちと会話してくださるお方です。今日も私たちは共にみ前に集まり、この祈りの家で祈りの香りをあなたに届けました。あなたは私たちとコミュニケーションを取り続けてくださいました。これからもそうしてくださることを感謝いたします。

時にはハンナのように、誰にも分かってもらえない叫びをひとりで祈らざるを得ない日もあります。それでも、あなたは誠実で信頼に値するお方です。祈りに応答し、あなたの主権によって、みこころを成してくださいます。

どうぞこの群れが、ますますあなたとコミュニケーションを取り、あなたとの関係を深め、あなたと共に歩んでいけるように導き続けてください。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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