2024.03.03主日礼拝「主を賛美する」Ⅰ歴代誌15:16-29


昨日はまた久しぶりに雪をみました。まだまだ寒い日が続きますね。春よ来い!

(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。主イエス様は天のみ座を離れて、地に来てくださり、私たちの病を負い、痛みを担ってくださいました。私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのです。御子への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに私たちは癒やされました。ですから、私たちは今日も主イエス様を喜び、讃美しています。

イエス様は渡される夜、弟子たちを集めて、彼らを最後まで愛されました。イエス様は祭りの会食を用意してくださったのです。弟子たちの足を洗い、席につかせ、共に食事をとられました。これは律法に定められている、主のみ前で共に喜び、食事を味わいなさいという掟を成就するものでした。イエス様が十字架にかかってくださったので、私たちは神の国の生き方で生きることができ、主のみ前で共に食事を味わうことができるのです。

初代教会は会食(愛餐会)を礼拝の一部として行いました。礼拝の第1部は御言葉の時、第2部は共に食事をし、最後に聖餐式を行います。これが初代教会の礼拝式でした。すべてイエス様をあがめ、感謝し、命令に従うための礼拝として行われたことです。ところがコリント教会ではこの礼拝が台無しになる事件が起こりました。Iコリント11章に書いてあります。《食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。…あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。…兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。空腹な人は家で食べなさい。》神の国の生き方を忘れ、それが礼拝であることを忘れて、世の生き方を持ち込んでしまったのです。

今日はようやく数年ぶりに会食を再開しようとしています。ちょうど受難節に、イエス様の十字架を記念して愛餐を行えることを感謝しています。本当に久しぶりですので、もう一度、その意味を思い出しましょう。

聖書をお開きください。I歴代誌15:16-29(730ページ)【聖書朗読】

「神である主とどのような関係をもって、人生を歩んでいくのか」今日のテーマは「主を讃美する」です。

しばらく前に、主に捧げるという題のお話をしました。私たちは人と人との関係において贈り物をしているように、主との関係においても、関係を築いたり、保ったりしたいという心と共に贈り物をします。心がいちばん大切なことは当然ですが、心に伴った捧げ物を主は喜ばれるのです。神の国の生き方をまだ知らなかった民に、主は律法によって捧げ物の仕方を教えてくださいました。今日は讃美がテーマですが、捧げ物と似たようなことがここにもあります。すなわち、私たちが主を礼拝する時、心の内側のへりくだった態度や感謝、喜びがいちばん大切なことは当然ですが、それを表現する讃美があるということです。

今日は詩篇を開きませんでしたが、詩篇は讃美歌でありましたし、内容においても沢山の讃美に関する歌があります。例えば詩篇47篇にはこうあります。《すべての国々の民よ手をたたけ。喜びの声をもって神に大声で叫べ。…神は上られる。喜びの叫びの中を。【主】は行かれる。角笛の音の中を。ほめ歌を歌え。神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。私たちの王にほめ歌を歌え。まことに神は全地の王。ことばの限りほめ歌を歌え。》

讃美と聞いて現代の私たちが思い浮かべるのは讃美歌でしょう。時々、「私、音楽は苦手だし、上手に歌えないから」とおっしゃる方に出会います。みなさんの中にも讃美歌はちょっと苦手だという方もおられるかもしれません。しかし、これらの話は本来の主への讃美を考えた時に、本質を少し見失っています。その原因は、教会がエルサレムからヨーロッパを通って、日本に到達したからと考えられます。ヨーロッパの教会で、讃美歌は素敵なメロディやハーモニーがつくようになったのです。メロディや和音はきれいな音を奏でるのですが、外すと気分を害する音になってしまいます。ここで上手・下手という概念が入ってきたのです。聖書の時代の讃美はどうだったのでしょうか。

今日の箇所は、ダビデがイスラエルの王となった時の話です。どの部族にも属していなかったエルサレムを占領し、首都ダビデの町として、そこに王宮を建てました。王宮の横に神の天幕を立てて、そこに主の箱を安置しました。それ以前は、主の箱はカナンのあちこちを巡回していました。主の箱がある場所が、その年の祭りの場所でした。この時、ダビデは主のためにエルサレムを獲得し、主の箱を安置するために天幕を立てて、主の箱を運び入れたのです。主の箱は主の臨在を示すものでしたから、それはすなわち、主が天幕に到着し、ついにみ座に座られたことを象徴する出来事でした。

この15章の中で、20節と21節には「~の調べ」が出てきます。これはメロディがある演奏や歌唱です。しかし、16節《琴、竪琴、シンバルなどの楽器を手に、喜びの声をあげるようにさせた。》19節《青銅のシンバルを鳴らした。》24節《神の箱の前でラッパを吹き鳴らす》28節《全イスラエルは歓声をあげ、角笛、ラッパ、シンバルを鳴らし、琴と竪琴を響かせて、【主】の契約の箱を運び上げた。》とあるように、これらは音楽というよりも、大きな騒がしい音と言ったほうが状況をよく表しています。主への讃美とは、その根幹部分においては、歓声や拍手の大喝采、ラッパの響き、太鼓やシンバルなどの打ち叩く音を出すということです。そこには上手・下手はありません。心にある讃美の思いを、心の限りに響かせ、打ち鳴らすのですから、外れた音というのは本来はないのです。

「讃美する」という単語はヘブル語で「ハラル(haw-lal'/הָלַל)」と言います。主ヤハウェを讃美するをヘブル語で言うと、ハラル・ヤハウェです。ヤハウェを短縮形のヤーにすると、ハレルヤとなります。このハラルは擬音語で、元々はハラララララーと声を出す様子を表しています。讃美するとは、神様に「ララララララ」と叫ぶというイメージがあるのです。讃美の本質は、主をほめたたえる心をもって、みんなで一緒に、歓喜の声をもって叫び、騒がしい音を響かせるところにあります。

ところで、みなさん、サッカーはお好きですか。私は大好きとはいきませんが、ワールドカップくらいはサッカーを観ます。20年ほど前に、サッカーワールドカップは大変な盛り上がりをみせていました。中田英寿、小野伸二、稲本潤一、中村俊輔、またドイツのオリバー・カーンとか、スポーツを普段見ない人でも彼らを知っているという時代がありました。サッカーは試合時間1時間半のうち、敵味方合わせて点が入るのは数回程度です。1点も入らない試合も少なくはありません。ですから、それを退屈を思う方もおられるかもしれません。しかし、それだけに、ゴールした時の盛り上がりは格別ではないでしょうか。ワールドカップ日本戦の夜、町にはほとんど人影がない。みんな中に入ってテレビを観ています。町は静まり返っているわけです。ところが、日本がゴールした!その瞬間どうなりますか?あっちの家も、こっちの家も、一斉に「よし」「やったー」「わー」とか歓声があがるのです。中では飛び上がったり、抱き合ったり、大変な騒ぎでしょう。もし全くワールドカップのことを知らなかった人が、方々の家から聞こえてくる歓声を聞いたら、びっくりしたと思います。でも、そばの誰かが教えてくれたでしょう。「今晩はサッカーの日本戦がある日だから、きっと日本がゴールしたんだよ。あの歓声はそれに違いないよ」と。

ダビデの立てた天幕に主が入ってこられた時、民は喜びの声をあげました。青銅のシンバルが大きな音で鳴らされました。クラシックコンサートのような、一度だけではありません。何度も何度も騒がしくバーン、バーン、バーンと鳴らされました。その後で素敵なメロディの調べによって琴が奏でられ、竪琴が演奏され、歌が歌われました。そしてラッパが吹き鳴らされました。ついに全イスラエルの歓声と、角笛、ラッパ、シンバル、琴と竪琴が響く中で、主の箱が運び込まれ安置されました。これが讃美です。主が来られた! 私たちは主とお会いする! これは歓声と騒音に値する大きな出来事なのです。息を飲んで待ち望んでいた、歓喜の瞬間なのです。ダビデは飛び跳ねて喜び踊りました。

主との関係。それは私たちが主とお会いした時(主の臨在を目の前にした時)、心からそれを喜んで歓声をあげる関係です。もちろん、讃美から心が抜け落ちてしまえば、北朝鮮の将軍様万歳と同じことになります。どんなに手を叩いても、素晴らしいと言っても、涙を流して表現したとしても、讃美の心がなければ、主が喜ばれることはありません。本当に会いたかったという気持ちが心の底からあるということ、そしてそれを溢れるばかりに表現しているということが大切です。それによって良い関係が生まれてくるわけです。ワールドカップの歓声は、「はい、やってください」と言われてできるものではないですね。本当の歓声と作り物の歓声は全然違います。

それでは、本当の歓声をあげる秘訣は何でしょうか。聖書には4つのことが書いてあります。①人とこの世界が主の御手によって造られたことを思い出すこと。②自然を見て、主の素晴らしさに感動すること。③主がご自分の民を救い出し、自由と恵みの地を与えてくださったことを思い出すこと。④どんな状況においても、たとえ自らの罪によって捕囚となってしまった時にも、決して見捨てないで守ってくださることに目を留めること。これらの4つが繰り返し書かれています。主は人々を抑圧し搾取する王たちとは、全く違うお方です。私たちの人生においても、主は愛とあわれみ、赦し、恵み、いつくしみとまことの神であられます。その主とついにお会いすることは、喜び以外の何物でもないのです。

讃美には本来、上手・下手はありません。歌が苦手な人はタンバリンを持ってきて鳴らしてもいいのです。練習する必要はありません。ワールドカップ日本戦の前に「抱き合って歓声をあげる練習をしておこう」と言う人はひとりもいません。

ヨーロッパで教会音楽が発展し、今のような素晴らしいメロディとハーモニーが与えられたことは感謝なことです。それを捨てる必要はないでしょう。これを用いて主を讃美することもすばらしいことです。しかし一方で、音が合う・外れることが発生してしまったことも注意して覚えておきたいと思います。これは時に偶像礼拝を生み出します。主に向かって手を叩き、大きな歓声をあげて讃美するはずの場所で、私たちは別の方を向いて手を叩いている時がありませんか。上手に賛美できた人、上手に演奏できた人、素晴らしい音楽を聞かせてくれた人に向かって、拍手している時がありますよね。讃美は娯楽(エンターテイメント)ではありませんね。礼拝はコンサートではありません。カラオケでもありません。讃美の本質は、主とお会いして本当に嬉しいということ、「みんな、主が来られたよ!主がご入場だよ。私たちを救ってくださった主だよ。感謝しよう。一緒に歓声をあげよう!」ということだからです。

日曜日の朝に、あらゆる教会から歓喜の叫びと、すべての楽器の響きが鳴り渡るなら、人々はビックリして尋ねるでしょう。何が起こったのですか。彼らはなぜ喜んでいるのですか。こうして私たちは主を証しするのです。これこそ作り物ではない、本物の伝道です。

お祈りします《全イスラエルは歓声をあげ、角笛、ラッパ、シンバルを鳴らし、琴と竪琴を響かせて、【主】の契約の箱を運び上げた。》

天の父なる神様。み座についておられるあなたと子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくありますように。私たちのために十字架にかかり、ほふられた主イエス様は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。

受難節にイエス様の十字架を思い出しています。私たちの罪を負い、身代わりとして呪いの木にかかり、私たちを贖ってくださいました。すべての悪と罪の縄目から解放し、あなたの国に入れてくださって、恵みと自由を与えてくださったことを心からありがとうございます。私たちは御言葉によって賛美を知りました。この喜びを表現する方法を教えていただきました。この朝も兄弟姉妹と共に、あなたに向かって歓喜の声をあげ、楽器を鳴らし、歌を響かせて賛美しています。

私たちはあなたを喜びます。あなたを喜ぶことは私たちの力です。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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