2024.04.14 主日礼拝「主の行動を求める」詩篇44:23-26

そろそろ夏日に近くになってきました。皆様熱中症にご注意を!

(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。今日もようこそお集まりくださいました。共に主の御言葉に聴く時をもてますこと感謝です。

イエス様はイースターの日によみがえられ、40日後の昇天日に天に昇っていかれました。その40日間にイエス様は何をされたでしょうか。イエス様は弟子たちに聖書を解き明かしてくださいました(ルカ24:27、44)。この時、使徒たちはイエス様から直接、聖書の解き明かしを十二分に受けたのです。使徒たちはその後、イエス様が教えてくださったことを、他のクリスチャンたちに教えました。それらの教えの一部(私たちが知るに十分なこと)を福音書や使徒たちの書いた手紙から読み取ることができます。使徒たちは、イエス様の十字架はこのような意味があったとか、色々と説明していますが、それは自分で思いついたことではありません。イエス様から直接教えてもらったことなのです。1世紀のクリスチャンの書物はいくつも残されていますが、なぜこれらの書物だけが新約聖書とされているかというと、イエス様の教えを忠実に辿っているかどうかが基準となっています。世代を追うごとに伝言ゲームですから、イエス様から直接聞いた使徒の文章、使徒から直接聞いた人の文章、その次に伝言を聞いた人の文章、と順に伝言の内容の正確性が落ちていくわけです。そういう理由で正典、外典というグラデーションが存在しています。

私たちは今日も集まって、使徒たちの書物(新約聖書)や、使徒たちの解き明かしを鍵としながら聖書(旧約聖書)を読んでいます。それはすなわち、主イエス様から教えを聞いているということです。

イエス様はあの40日の間、聖書を悟らせるために弟子たちの心を開いてくださったと書いてあります(ルカ24:45)。今日もイエス様が私たちの心を開いて、聖書を悟らせてくださるように祈りましょう。

聖書をお開きください。詩篇44:23-26(978ページ)【聖書朗読】

祈祷会では「御心が地にもなるように」という冊子を使って、お祈りをしています。元々この冊子は、日本で活動している宣教師たちが日本の外にいる人たちに日本を知ってもらい、日本宣教のために祈ってもらうために作られたものです。それが日本語に翻訳されて、私たちも用いられるようになりました。ですから、日本に対する外国人の視点が書かれていて、私たちが当たり前と思って気が付かないようなことも光が当てられています。先日、祈った項目は7番目の「自分に頼る生き方と物質主義」でした。日本に住んでいると必ず聞く2つの言葉があると書いてありました。それは「頑張る」と「仕方がない」です。これらの言葉は、他の国ではあまり聞かない言葉で、日本の特徴を表しているようです。「頑張る」は大抵の事は努力すれば何とかなるという意味、「仕方がない」とは努力してもできないことはあきらめるという意味です。

日本には「頑張る」と「仕方がない」に象徴される文化的素地があると宣教師が指摘していますが、聖書に示されている神の国には、ここにはない言葉が存在しています。「主が成し遂げてくださる」という言葉です。主が成してくださることを求めるのは、私たちがいくら頑張っても問題を打開できないからです。主が成してくださることを求めるのは、解決をあきらめていないからです。「主が成してくださることを祈り求める」これが今日のテーマです。

今日は詩篇44篇を開きました。ここには主の行動を求める祈りがあります。《起きてください。主よなぜ眠っておられるのですか。目を覚ましてください。(23節)》この祈りを読む時、みなさんは何を思われますか。これを私の祈りとして祈ろうを思われますか。それとも「これはここに書いてあるだけ。私はこのようには祈らないよ」と言うでしょうか。

この箇所を読んだ時、色々と思い出す聖書の箇所がありますよね。例えば、エリヤがバアルの預言者たちと戦った時、バアルは預言者たちの呼びかけに答えませんでした。エリヤは彼らに「あなたたちの神は寝ているかもしれないから起こしたらよい」と言いました。その後エリヤがヤハウェに祈ると、主はすぐに答えて火を下されました(I列18)。詩篇121篇には《イスラエルを守る方は まどろむこともなく眠ることもない。》と書いてあります。またイエス様が嵐の湖上の、今にも沈没しそうになっている舟で眠っておられた時、弟子たちはイエス様を起こして《「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」》と言いました。イエス様は《「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」》と答えられました。ですから、私たちは「信仰の薄い者になりたくない」という気持ちで、《起きてください。主よなぜ眠っておられるのですか。目を覚ましてください。》とは私は祈らないよと考えてしまいがちなのです。

もし詩篇44篇のように、私たちも同じく祈ることが適切でないなら、詩篇には他にも沢山、不適切な部分があるということになってしまいます。毎週の礼拝で詩篇を1~150篇まで順番に交読しています。不適切として飛ばす部分はありません。なぜ朗読するのでしょうか。この詩篇を私の讃美として讃美するため、私の祈りとして祈るためですね。教会が始まった時から、いえ、教会が始まる前から、神の民は詩篇を読み物として読んだのではなく、私たちの讃美・私たちの祈りとして共に讃美し、祈ってきたのです。

イエス様はあの時、「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち」とおっしゃいました。私はこの度、もう一度この箇所をよく読んで、思い巡らしていました。イエス様は「どうして怖がるのか」とおっしゃったのです。「どうして起こしたのか」とか「どうして助けてと祈ったのか」とは言われませんでした。怖がるということは、助けてくださいと言うか言わないかの話ではありません。もっと深いところにある心のことですね。「私は主を信頼して怖がる心を持ちません(努力します)」と言うよりも、「主よ、そうです。これが私の心の有り様です。自分の頑張りではどうすることもできない私の心を見てください」と言うべきででしょう。イエス様は私たちを責めようとしてではなく、怖がらなくても大丈夫と安心させるために「どうして怖がるのか」と言ってくださるのです。ペテロが水の中に沈みそうになって、「主よ、助けてください」と叫んだ時、イエス様はすぐに手を伸ばして、助けてくださったではありませんか。

「でも、《何も思い煩わないで(ピリピ4:6)》と聖書に書いてあります。」と思われた方。もう一度、その箇所を読んでみてください。何も思い煩わないで祈りなさいと書いてあります。パウロが言おうとしたのは、祈るとは思い煩いを止めているということ、祈らないなら思い煩っているということです。

確かに主が祈りに返答される時、私たちの願いのままにいかないことがあります。アブラハムは《「どうか、イシュマエルが御前で生きますように。」(創17:18)》と祈りましたが、イシュマエルではなく、イサクが約束の子であるという答えでした。しかしそれでも、イシュマエルは主の祝福を受けたのです。どんなことでも祈る価値があります。思い通りの返答でなくても、主は良いことをしてくださるお方だからです。

私たちと主とのコミュニケーションには、主の行動を求める祈りがあります。具体的に、それらは「主よ、立ち上がってください(詩17:13)」と決断を求める祈りです。さらに「立ち上がって、助け出してください」と決断の実行を求める祈りです。また「主よ、急いてください。遅れないでください(詩70:1、5)」と求める祈りです。主を信頼する人は主を待ちます。自分で何かを始めません。それゆえに主がそれをしてくださるように「急いでください」と祈るのです。また、誰かがあなたを付け狙い、隙があれば攻撃しようと準備万端でいる時、「私の強い砦となって、隠された網から救ってください(詩31:1-4)」と求める祈りです。また、昔を思い出しながら祈ることもできます。「主よ、あなたはエジプトから民を救われました。また別の時は、このことでこのように恵みを表してくださいました。昔と同じようにしてくださらないのですか(詩77)」と祈ることができます。また神の怒りがもたらされないように祈ることも、主の行動を求める祈りです。モーセは民が滅ぼされるのを止めてくださるように、主に求めました(民14)。「主は怒るのに遅く、恵み豊かであり、咎と背きを赦すと言われたのですから、あなたの大きな恵みによって赦してください」と求める祈りがあります。主がご自分でおっしゃったことを、その通りに成し遂げてくださいと祈るのは挑戦的ですが、主はそのような祈りも聞いてくださるのです(詩108:11)。主から御言葉をいただいたのなら、私たちにはその次にすることがあります。「主よ。神に不可能なことはないと言ってくださいました。その御言葉を実行してください」と祈ることです。

主が成してくださることを求める祈りを具体的に挙げれば、まだまだ例が沢山あります。「自然災害が収まり、元に戻るように、土地を癒やしてください(II歴7:14)」と求める祈りもあります。これらの祈りはすべて私たちがいくら頑張ってもどうにもできないことを、主がしてくださるように求めています。これは日本人の美徳からすると、良くないのです。やはり日本の価値観では頑張らないとダメなんです。ところが神の国の価値観は全く違います。努力して解決しようというのは、神の国においては美しいことではありません。聖なる者になるとは、神の国の生き方に従う人になるということ、私ではなく主が成してくださることを切に求める人になるということです。

日本は「頑張って」どうにもならないなら、「仕方がない」の世界です。仕方がないの世界に生きる人たちは弱者と呼ばれます。弱い人たちは仕方がないと言いながら、自由を奪われて閉じ込められているのです。お腹が空いても「仕方がない」。恥ずかしい思いをしても「仕方がない」。暴言を浴びせられ、暴力をふるわれても「仕方がない」。住むところがなくても「仕方がない」。しかし、良い知らせがあります。神の国には「仕方がない」以外の選択肢があるからです。「主が成し遂げてくださる」という世界があります。貧しい人は無視されることがなく、希望は永遠に続きます。もし私たちが頑張ってできる世界に住んでいるとしても(実際クリスチャンの多くがそうですが)、「頑張る」を拒み、「主に行動を求める」とき、弱い人たちの立場に自分を置くのです。弱い人たちと共に歩む人となります。主は私たちにそのような群れであることを願っておられます。

しかし、罪人である私たちが何を根拠に、主に行動を求めて祈れるのでしょうか。神を恐れない人に裁きを下してくださいと祈れば、真っ先に自分の頭の上に雷が落ちてきそうな気がするのは私だけでしょうか。ダビデは度々「あなたのあわれみと恵みによって、私のすべての罪を赦してください。そして私を救ってください(詩25)」と祈っていました。祈りの根拠は、神である主のあわれみと恵み、また主の家を思う情熱によります。それは決して私たちの正しさではありません。祈りが答えられる時、私たちの正しさが証明されるのではなく、主のあわれみと恵みが証明されるのです。神の栄光が表されるのです。イエス様はこう言われました。《あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです(ヨハネ14:13)》ですから、大胆に祈りましょう。

また旧約時代の人々は、祈りが答えられた時、何をするか約束をしました。ハンナは子供が生まれたらナジル人としてささげますと約束しました。 祈りが答えられたら、主に栄光を帰しますと約束することも大切なことです。

お祈りします《起きてください。主よなぜ眠っておられるのですか。…立ち上がって私たちをお助けください。御恵みのゆえに私たちを贖い出してください。》

天の父なる神様。食い尽くすほどの熱心をもって、ご自分の家を思っておられるお方。あわれみと恵みの主よ。

あなたの栄光が表されるように、どうか立ち上がって、私たちを救ってください。あなたを信じ、あなたを証しする私たちが決して恥を見ないようにしてください。私たちの避け所の岩になって、私たちがいつでもそこに入れるようにしてください。

あなたが祈りに答えて、成し遂げてくださるお方であることを、多くの人は知りません。必死に努力し、弱い者にならないようにしている人たちと、頑張ってもどうにもならなくて、あきらめている人たちが住む国に、私たちは寄留しています。私たちは自らの力を誇ることをしません。あきらめることもしません。私たちの主であるあなたが、約束を実行してくださることを求めて叫びます。あなたへの祈りは空しく返ってくることはありません。あなたはよみがえられ、いまも生きておられるからです。どうかあなたのあわれみと恵みによって、私たちをかえりみてください。あなたが成し遂げてくださることを見て、すべての人があなたのみ名を讃美するでしょう。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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